男と女(「レヴィナスと愛の現象学」について)
長い間考えてきたことだけれど、最近読んだ本に核心的なことがしっかり書かれてあった(ようだった)ので
それを中心に据えて書いてみる。
男と女のことだ。これは下世話として書けばいくらでも書けるのだけれど、ともかく
今関心を持っていることから離れずに書いてみたい。
人間は生物として性を備えている。これはなぜか、と問うまでに、そういうものだと思わねばならないだろう。
ともかく植物から猿まで、そういうシステムが遺伝子つながりで継承されてきたから、当然人間にも備わった
と考えるのが正しいのだろう。
ただ、人間は性について猿までの生物的システムとは異なった発達を遂げた。
生物的(遺伝子的)には変わらないけれど、精神的に、生活文化的に継承されてきた人類共通の文化が
ごく短期間に長足の発達を遂げたということだ。この文化には性が分かちがたく結びついて
お互いに影響しあったことがある。ひとつは社会性への影響、そして生活の豊かさ(主として快楽,、芸術)への貢献がある。
社会性への影響はすべての生物、特に動物にも見られる家族、群体まで男女の結びつきをコアとして始まったことは共通だけれど、
人間には大家族化、部族化、村、そして世界にまで広がったいわゆる社会化はやはり文化、言語の発明が大きい。
特筆されるのが結婚という契約文化が言語とともに広まったことで、最近では人間は男女以前に人間としての人格が
重要視されてきた。結婚という様式が終生のものではなくなった。更に男性優位の文化が見直されて、
男も女も対等に見なされねばならないという主張が市民権を得て、おおむね常識になってきている。
これは歴史の必然というべきか、人間が社会化したということの結果としての行くべき筋道の必然なのか。
しかし、その結果として様々な矛盾も露呈された。結果として核家族から個人単位の砂のように無機的な都会砂漠化の社会、
個人としての気楽さ、利便性を増している一方で犯罪の増加、孤老化や、福祉行政のコスト増を招いている。
個々人の権利主張が増し、行き過ぎも指摘され、民主政治にも影を落としている。
以前の代表的な保守、革新の思想派同士の議会制政治から細かい主張で妥協を許さない多数の
少数派乱立の混乱した何も決められない政治が先進国でも普通になってきた。
更にこの問題が規模を広げてテロルの頻発や国同士の主張の違いが深刻になっている。
誰が考えても愚かな戦争の危機が再び想定される事態なのだ。
何が間違ったのか。もっとより良い社会は築けないのか。人間の来た道を見直す必要がありはしないか。
人間の人間同士の結びつきを原初にかえって考え直すべきではないか。
エマニュエル・レヴィナスはユダヤ人でホロコーストの生き残り、フランス現代の哲学者で難解をもって知られている。
首記の文庫本(文春文庫 単行本はせりか書房 ’01.12 刊)はレヴィナスの弟子を自任する内田樹氏のレヴィナス紹介、
主として彼の著作「全体性と無限」についての解説本である。いや、氏によれば解説ではなくレヴィナス擁護と顕彰の書だとしている。
おおむねレヴィナスについての同時代の欧州の同業者、フッサール、サルトルなどとの比較を含めての評論ではあるが、
レヴィナス自身の文章(もちろん翻訳)は10%もない。要は比較的入りやすい入門本という感がある(かなり手ごわいが)。
多作の文章家内田氏の地の文はもともと平明で定評があるが、この氏自身によるレヴィナスの翻訳文章は
それでも難解きわまる。原文のフランス語で書かれてあったときは更に難解だったはずだ。更にこの10%に満たない
レヴィナス自身の文章を、氏は噛んで含めるようにその数倍する量の解説を加えていく。しかし、氏自身が告白しているように
その解説はレヴィナス自身に憑依されたように、かの文章に影響されて同様の晦渋さをまとってしまう。そういう色合いと
構成でこの書は進んでいく。私はこれを二回通して読んで、また読み直している最中だ。でもすこしずつ理解は進んでいる(と思う)。
その、文庫本としては大部の、350ページを超える内容は、一言で言えば”倫理について”、具体的に言えば、”私と他者との関係性”、
コミュニケーションについての分析である。(以下レヴィナス自身な翻訳文章は青、内田氏の解説文は茶で表示する。
人間は果たして平等でありえるか。ありえない。一人ひとりがおのれの存在する権利を声高に主張することをやめ、
「日の当たる場所」への権利主張を自主的に撤回すること、それ以外に相克のドラマを終わらせる方途はない。
相称性の上に倫理を築くのは難しい、というより不可能である。
その果てに戦争が不可避になることを覚悟する必要がある。
神以外にそれを裁定することはできないが、それは人間のなすべきことだ。なぜならそれは
人間同士の責任に帰す問題、倫理の問題だからだ。レヴィナスは言う。
公正さには二種類ある。法理的公正さと、人間の定めた公正さだ。
法理的公正さは神の定めた公正さでもある。しかし、人間の世界を創造するためには神の定めた公正さが
人間的な公正さに矛盾することもある。人間を毀損することもある。その場合は人間的な公正さを優先することが出来る。
なぜならまさにここで問題になっているのは人間の人間に対して犯す不正だからだ。
「ひとはいかにして自分自身の外に出て他者に出会うことができるのか」
やあ、こんにちは(いい天気ですね!)と見知らぬ他者に私が挨拶する。私がまず折れること。これが倫理のとばぐちである。
他者が顔をこちらへ向けて笑顔で挨拶を返す、かどうかは分からない。まったく知らぬ顔で無視されるか、
あるいは敵意に満ちたまなざしで凶器を振りかざして向かってくるか(まさか)、そういったリスクを自身で受けとめる責任、
有責性を覚悟して、あえて他者を祝福する(”挨拶”とはそういう意味だ)、
他者とはそういった自己から超越した謎の存在だ。ここに安全な隘路はない。
自我が他者と出遭う時、自我は他者を見積もることは不可能だ。他者は自分の世界にはない謎の存在だ。自分の全能性の外にあるのだ。
他者を見積もることが出来れば殺す、自己に組み込む、自己同定することも可能だろうが、不可能である公算は限りなく大きい。
かくてレヴィナスはここに超領域性の道を用意する。それが彼のエロス論である。
セックスはあらゆる意味で人間同士をひきつける。男は女をひきつけるし、女は男を…。そのしかたは基本的に
(レヴィナスにとっては)愛、セックスそのもの、それも他者が女性と規定する(ということは私、つまり主体が男ということになる)。
しかしそれはおそらく彼一流の形而上的比喩だろうと思う。エロスは何も女だけの特技ではない(かなりそうなのだが)。
レヴィナスは「時間と他者」で書いている。
女性的なものの実存の仕方は身を隠すことである。この身を隠すという時日こそが含羞なのである。ゆえに、この女性的なるものの他者性は
事物の外在性に存するのではない。意志と意志の対立から形成されるのでもない。他者とは私たちが出会い、私たちを脅かし、
私たちを捕獲しようとするものではない。
この女性的なるものは当然男女が入れ替わる場合も普通にありうるし、男と男の間でもそれはありうる。ともかく男は人類の半分、
女もその残りであり、人間同士の平和な中でのコミュニケーションの可能性としては通俗的で、理想的といっていい方法論なのだ。
問題は有責性をどちらが受け持つかということであるが、お互いに自然に危険なく入っていけるのであれば、有責性は
どちらが受け持ってもいいように思うのだけれど。ともかくこの段のレヴィナス独自のレトリック、抽象を極めて委細をつくした
エロチックな文章は息を呑むばかりである。
一部を紹介する。
>エロス的存在者は「光から逃れる」という根源的趨向性を帯びている…エヴァの髪を編み、化粧を施すことで神はいわばエヴァの顔を
隠した…そこに生成するのは「欲望」である。あらゆる欲望は「欲望されたものについての欲望」であり、このとき「目指されているものは
観想された対象ではない。」…男女が向き合う時に生成されるものは…「顔」を見合わせるという倫理的事況そのものを始動させる、それより
更に始原的な、さらに根源的な出会いである。この出会いのうちに「この世界を私たちが住める世界につくりなしたい」という根源的な「熱」と
「柔和さ」が生成する。だから男女の対面それ自体は倫理的事況ではなく、むしろ前倫理的な倫理の起源のあるべき状況なのである。…
愛においては、私が捜し求め、それに触れたいと切望する当の対象に、私はすでに結び付けられている。何かに「手が届かない」と
感じることが出来るのは、「手が届かない」ものを持つという仕方で、すでにそれに触れているからである。
…愛は起源的に不平等性をはらんでいる。それは「私」と「他なるもの」の結びつきは相互に超越的な両者の
不平等性から始まるからである。「他者」はつねに私とは別の高さに位置し、決して私と同水準のところにはいない。
この根源的な不平等性、非相称性が、私の唯一性、代替不可能性、すなわち私の主体性を基礎付けるのである。…
「他者」としての「他者」は、見上げるような高みか、あるいは失墜か(ただし、それは栄光に満ちた失墜だ)、そのいずれかの順位に位置している。
「他者」は貧者、異邦人、寡婦、孤児の相貌を持つと同時に師の相貌を持ち、それが私に自由を授与し、私の自由を基礎づけるのである。
愛は「他者」をとりわけ「その弱さ」において志向する。弱さは他者性そのものを形容している。
愛すること、それは他者のために心を痛めることであり、他者の弱さに助けの手を差し伸べることである。…
エロス対象への志向は「愛撫」という形をとる。「愛撫」は「「飢え」を満たすために対象へ赴く。しかもどれほど激しい「愛撫」によっても、
愛の対象はいささかもその他者性を減じない。むしろ「愛撫」を動機づけた「飢え」ますます先鋭化する。あたかも、
愛撫がおのれ自身の飢えを勝てとしているかのように。
愛撫の本質は何も把持しないことにある。自らのかたちから絶えず逃れ出るものに懇願することにある。…
「女の平和」という古典ギリシャの喜劇が存在する。男は戦争ばかりして女を省みない。彼らに属する女たちがそれに反乱を起こし、
彼らの社会に平和を取り戻すという筋である。最近の人類研究では、クロマニヨン人、現人類と、その近縁種であるネアンデルタール
とは混血が進んでいたという説が有力になっている。一時言われた現人類(の祖先)彼らを直接滅ぼしたというのは正しくない、らしい。
そのころから既にレヴィナスの思想が現れたということだろうか。いずれにせよ現代の世界、インターネットには美しく艶美な
女性の愛の裸像があふれている。これこそ世界平和の証しでなくて何だろうと思う。