(2)出発・いつも出会うバスに乗って

 

  朝、六時四十五分にバックパックに若干の本と下着を入れて自宅を出、近くのバス・ターミナル“内ケ磯?に向かった。JRと西鉄(西日本鉄道梶jの子会社直方交通の共通のバス発着所である。これまでの鉄道を利用する出張の旅では大抵JR直方駅へマイカーで行って、駅前の駐車場に置いておくのが常套だった(一度入れたら、何日置いても一日分の料金である。)し、家内に自家用車で送ってもらう手もあったのだけれど、この旅は出張の旅などではない。自宅を出る時から日常と手を切りたかった。早く旅の気分を味わいたかった。そんな気がはやったことで少し早く着いたらしい。五分ほど早く出発する直方交通のバスがまさに発車するところだった。水道と農業用水のためのダムの直下のバスだまりに、少し早く来過ぎたらしい。このバスはJRの路線とは別の、いつも我々が当の駅へマイカーで行く道とほぼ同じルートを行くことが分かっている。このバスの次のストップを今、私は歩いて通過してきたのだが、“JR?に乗ることにこだわっていたし、これに乗ることは考えていなかった。そもそも、このバスの存在すら私の頭にはなかったのだけれど、そのとき一瞬だけ私の意識に、これに間に合ったのなら、これに乗る方がいいのでは、という気持ちが働いた。少しでも駅には早く着きたかったし、計画のJRのバスは、これよりも遅く同じ場所を出発し、しかも私には未知のルートを辿って駅に行くことになっているので、果たして予定の列車に間に合うのだろうかという危惧があった。

  これについては一応このバスの運転手に、数日前直接聞いて確かめている。七時三十二分に直方駅に着き、同三十七分の筑豊線若松行きに連絡します、という返事を貰っていた。確かにこのバスはJRであり、それは間違いないのだろうと思えた。けれど、なお、このバスが運行するルートは、私の感覚では駅へ向かう常識的なルートとは正反対の方向へとりあえず進み、その後もかなり込み入った地域を走ることが分かっているので、正直いって不安が残っていたのだ。

  しかし、私は動きはじめた直方交通のバスに乗ることを止め、ともかく次のJRに、予定のバスに乗ろうと決めた。遅れたら、それでもいいではないか、という気分になった。JRを信頼しよう。それに、JRのバスには別の思い入れもあった。これに乗る積極的な理由も、なくはなかった。

  実は、このJRのバスは私の毎日の通勤ルート(田園路線)を一キロばかり共有し、時には前後して走ることもある。その運転手に駅への到着時刻を直接聞いたのも、その日の通勤の出発時刻を若干早くしてターミナルに待ち、聞けたからだし、バスそのものへの親しみもある。途中のバス停で毎日瞥見する女子校生たちを直接車内で眺められるという機会を逃すのも心残りだった。直方交通のバスには(同じ時刻のものではないにせよ、そのルートを含め)何度か乗って新鮮味はなかったけれど、このJRには乗ったことがなかった。結局、JRを待つことになって、それは正解だった。始発、私一人だったバスは途中で次第に客を増やし、五つばかりのストップを巡るうちに座りきれずに立ったままの客が押し合うほどになった。きれいな脚だけが印象的だった女子校生たちも見慣れぬ客にうさんくさそうな顔を向けながら乗ってきた(いつも目の前を行き過ぎる車の持ち主だとは想像もつかないだろう)。さほど自宅から距離のない田舎道は私には初めての風景で、悲しいばかりに人気のないという印象だったバスが意外なドル箱だったのだという嬉しい驚きとも合わせ、既にここから私の旅が始まったことが実感できた。定刻七時三十二分に駅正面に到着。JRを選んだことに満足しつつ。筑豊線直方駅から若松行き七時三十七分発。

  筑豊本線はいつも多い。乗り換え(八時○二分着。五分発快速)の折尾のホームでは、それが都会並みの雑踏になる。この駅は何度歩いても自信が持てない。本線同士が立体交差している珍しい駅で、しかも駅舎からかなり離れた場所に別のホームが存在し、乗り換えにまごついたことがあった。貨物線がショートして本線同士を繋ぎ、そこに旅客用の列車をつけるホームを作ったためである。今回は関係がない。

  小倉着八時二十八分。一時間ほど時間があったので途中下車のハンコを貰ってまだ半分以上眠っているような銀天街を歩く。おいしいコーヒーの店を捜し、ケーキを一緒に注文する。小倉駅の前後の様相はこの数年間で劇的に変貌した。モノレールの出入りする超現代風の景観を筆頭に、駅舎の通り抜けの巨大な空間など、これほどの見事な機能とデザインを持つ駅は全国にも少ないだろう。しかし、それらの投資に見合った活力が小倉の街に生まれていないようなのが気掛かりである。一時は福岡を追い越すほどの意気込みすら感じられたのだけれど、バブルの崩壊とともに一緒に縮んだのだろうか。それとも福岡−博多が小倉の活力を吸い取ってしまったのだろうか。

  大牟田始発の普通電車で小倉発九時二十七分。ごく普通の向かい合わせの長椅子と吊り革の広い空間を持つ通勤電車で関門トンネルをくぐる。何年ぶりだろう。海峡を渡る経験は数え切れないけれど、今は橋を車で行くことが殆どだ。次に新幹線トンネル。車専用の道路トンネルも何度かある。それに付随した人道トンネルも一度、家内と一緒に往復した。回数で言えばこの旧鉄道トンネルは高校の修学旅行を皮切りに、会社が九州に移った三十年前からの数度の往復(五、六回はあったか)を含めて無視出来ない。このトンネルが九州と本州を繋ぐ唯一の手段だった(連絡船もあったらしいが)頃もあったのだ。しかし、新幹線が博多にまで伸びてからは、無縁になった。もちろんローカルのひとにはずっと変わらず必要なものだったのだろう。戦時中に突貫工事で進められたという。工期短縮の至上命令のもとに、耐久性なども余り考慮されなかったのではないか。危険なほどの土かぶり(トンネル上部から海底までの厚さ)の少なさ(数メートルとも)もあって、海峡の航路の浚渫が出来ないという話も聞いた。前後の大きい傾斜、あっけないほどの短い、小さな狭いトンネルだった。漏水がめだった。下関側で大きく右へ右へとカーブし、本州側へ抜けたあと、ごちゃごちゃした港湾設備を右に見て下関駅へ入る。

  電車は下関を出たあと、はぶ、しんしものせき、ちょうふ、おずき、はたぶ、あさ、おのだと次々に停車していく。この鈍行列車の旅の妙味は、飛行機に代表される今日の点と点を結んで移動するだけの旅行と異なり、確実に目的地へ近付きつつも、そこへの過程を連続的に確認させてくれる、目と肌の五感で沿線の風景を、ローカル色の変化をしっかりと味わいつつ辿っていけるということにあるのだろう。乗り合わせては順次交替し、降りていくその地方の人々の顔や話しぶりを見聞きしつつ、車窓からの眺めや駅のたたずまいをじっくり観察できる。その気になれば、彼等とその地方の文物について話を聞き、話を交わすことも可能だろう。十時五十三分小郡終点。ここで、これまで山陽本線とつかず離れず、まつわりつつ並行して、乗れ、乗れと囁いていた新幹線に乗り換える。

 

  何だ、いいほど鈍行の良さを吹聴したくせに、もう変節したのか、と笑わないで欲しい。確かに鈍行もいいが、このまま更に五度の乗り換えを繰り返して二十二時五十六分に大垣に着く最初の計画がちょっと馬鹿らしくなってきたことも確かだった。この機会に、懸案の京都の用事を済ませたいという気になった。十一時十六分のこだまに乗り換え、十三時十二分福山着、同二十四分のひかりレールスターに乗り換えて、駅構内で買った鮨弁を食べながら新大阪十四時三十八分着。すぐそばから出る始発ひかり十四時四十分発、京都十四時五十七分着。さすがに新幹線は本数も多く、早い。たちまち無から有を生む。途中素通りするはずの京都で六時間三十分の余裕を作ってしまう。

  もっとも、これは即席に考えた変更で、後から思えばベストの選択ではなかった。最初のこだまを広島で見捨てて、すぐのひかり十二時二十二分に乗っておけば、そのまま京都には十四時三十四分と、二十三分も更に余裕が増したはずだった。私は、自慢ではないが時刻表の読み方にさほど堪能ではないのだ。
                                       次章へ
  ホームページへ戻る