(271)「私の中のあなた」へ進む

 

 

(270) バベル

菊池凛子のアカデミー助演女優賞ノミネートで話題になった「バベル (2006 アメリカ映画)」をDVD で観た。

なかなか込み入った構成(異なった文化を持つ4つの世界(モロッコ、アメリカ、メキシコ、日本(トウキョウ))で生活している人間たちがお互いに意識することなく、空間を超えて否応なく影響を及ぼし合うことでひとつの物語を紡ぎつつ彼らのそれぞれの人生を生きていく)の映画である。アメリカ映画の国際性というか汎世界的な人材と知性がこういった複雑で多国籍な舞台での映画作りを可能にしている。さまざまな異なった文化がそれぞれしっかり細部に至るまで描かれてそれだけでも楽しい。主演者夫婦と一緒に一気に世界旅行をしている気分にもなる。

ハリウッド映画には珍しくドラマの中で現代の日本社会のリアルな一面がじっくりと描かれている(女子高校生の極端なショートスカート、奔放なクラスメートたちとの日常生活など)。 彼らが世界の中ではかなり特殊な地域性を持った日本という国とその社会をこの映画の一部に選んだのは我々にとっては相当注目に値することだ。
となると、どうしてもこの映画は何をいいたいのか、どんな主張があるのか、などと考えたくもなってしまう。そういうところがこのような一見エンタテインメント性の少ないこむづかしい映画とか小説などのひとつの味わいどころというか醍醐味でもあるのだけれど、それが映画というメディアにもなれば、それだけではない、物語としてのわくわく感というか面白みもなければならないとも思ってしまう。まして主演者が
B・ビットとかK・ブランシェットとか、役所広司とかいう芸達者なスターを登用するからにはなおさらだろう。そういった監督(アレハンドロ・G・イニャリトゥ)の意図は成功したのだろうか。

 

アメリカ人の夫婦は目下離婚の瀬戸際で、なんとか関係を修復したい夫は妻を連れて異郷への旅行に出る。そのモロッコのバス移動の途中で妻が遊牧民の羊飼いの子供が撃った銃の流れ弾に当たるという椿事に巻き込まれ、しかも重傷の妻への救急車はなかなか来ない。いらいら感の募る夫は同じツアー客と喧嘩になり、ツアーバスには置き去りにされてしまう。現地のツアーガイドはそんな中でもよく彼らのトラブルに応接し、自身の出身の村へ夫婦を収容し、遅れる救援ヘリの代わりに村の獣医師に頼んで応急手当も施す。

事件のあおりを食ってロスで夫婦の幼い子を預かったメイドの女はメキシコでの弟の結婚式に出られず、結局子供を連れたままメキシコ国境を越える。異文化の中でおびえる米人の子供。エキゾチックで猥雑で、しかし親密で華やかな結婚式の宴が続く。楽しかった宴も果てて、やがて彼女は国境を越えてきたという冷厳な事実の深刻さが生む問題性に気づく。それはモロッコでひどい事故に直面した雇主夫婦のトラブルと同じく、預かった子供を生命の危機に晒すことになり、10年余の彼女の米国での滞在実績を失ってしまう。

 

ここで描かれるそれぞれの典型的な文化世界におけるひとびとの生活と群像は皆まことに良く描けている。彼ら自身の愚かさのためにそれぞれが自業自得ともいえる窮地に追い込まれるという筋立ては物語の常道ではあるけれど、それらが全体としてまとまりを見せ、結局あるべき姿へと収束していくところに物語を楽しむ側の感情の揺さぶりとカタルシスの味わい、そういったことを実現する作家監督の腕の見せ所があるのだろう。

このような困難な世界構築にあえて挑戦した監督の意図はある程度成功したといえるかもしれない。多くの賞を得たのはそれだけのことがあったからだ。ただ、そういった監督の世界の理解のヒントに用いられた映画の題名(バベル)がその役割にふさわしいものだったのかといわれると少し疑問でもあるけれど。

 

旧約聖書にある「バベルの塔」の記述に関連していえば、この世界における言葉の壁が人間同士のコミュニケーションの障害になっているという教訓のようなものがあきらかにドラマの基調にあるのは、やはり聾唖者の世界を描いた日本でのドラマだろう。そして、日本はここに描かれたいくつかの文化社会の中では明らかに洗練性で世界の最先端をいっており、主人公の高校生(菊池凛子 好演)はその言葉が不自由であるということのハンディを何事とも考えていないふしがある。むしろそのハンディを逆手にとって放逸に青春と性を楽しんでいる。彼女の父との関係がうまくいっていないのは障害のゆえではなく、もっと根本的な、普遍的な問題からきていることは疑いない。

東京都心の一等地にある高層マンションに暮らすこのエリート階級の父娘は母を数年前に失い、その傷からまだ癒えていない。肉親の愛情に飢える女高生が日本の快楽都市の自由な雰囲気の中で、言葉のコミュニケーションを放棄したあとで醒めながら性に溺れていくのは普通のことかもしれないのだ。これは現代人一般にもあてはまることであり、ここでは聾唖者にその現象が先端的に現れているということで「バベル」という概念を強調したということなのだろう。

 

言葉というものの限界は性という人間の普遍性と比べれば明らかだ。羊飼いの少年たちの素朴な欲望、メキシコのベビーシッターの弟の結婚式、そしてトウキョウの女高生の性の奔放。もとよりこのドラマの発端となった米国の夫婦のモロッコ旅行もやはり夫婦関係の危機というものが動機になっており、更には日本のエリート階級の悲劇、役所広司の妻の自殺もそういった夫婦関係の危機というより明確な終末が感じられる。全裸の娘との抱擁は必ずしも父と娘の和解を意味するものではないだろう。

 

モロッコではゲリラは終息したといわれる。親戚の年上の女を覗き見してオナニーにふける少年は兄を警官隊に射殺され、いよいよ自分が追い込まれるとたちどころに件の高価な銃を打ち砕き、投降する賢明さも見せる。

人間の本質はどこまでも変わらないだろうけれど、世界がこのように緊密にTVニュースなどで連関している今、国境や国同士のコミュニケーションの不備は言葉ではない、人間同士の心の連携と賢明さでいずれ救済されるに違いないということか。

 

 

 

 



(269)トウキョウソナタ

 

トウキョウソナタ」2008 黒澤清監督 をDVDで観た。都会のマンションに住む現代の典型的な核家族が時代の強い波にさらされる。夫婦のかたわれであり2人の息子の父である香川照之の解雇(総務課長)失職からはじまる構成員4人のうちでもアルバイトで身をすすぐぶータローの長男井之脇海、小学生の次男小柳友も含む男たちがそれぞれに個々に問題を抱えてその解決能力のない家族に絶望し、更にはそのきずなから離れようとしている。それぞれの身勝手とも言えない行動を自身の求心力としての愛情でつなぎ止め家族としての実質を保とうとする主婦、母(小泉今日子)のけなげな努力と冒険を主として描く。

 

現代における家族離散の危機はつとにその精神的な拠りどころの不確定性から来る。みなそれぞれに現代の豊富な情報のあまねく結果として若くから充分すぎるほど世間ずれし小賢しくなっているし、名目上の権威としての父の存在などなにごとでもないという「常識」が広がっているのが現代の状況なのだろう。父は辛い存在なのだ。

 

もちろんその危機は経済的な破綻から始まることが多いけれど、それだって単なるきっかけにすぎない。香川は夫として、父として一家の中心であるという自覚、自負、自信がその立場を守っていると思っていたけれど、その職場を解雇された以上、経済的に一家を守っていくことが出来なくなり、その権威は地に落ちる。それが分かっている以上、どうしても家族に自分の失業を打ち明けることが出来ない。そんな自身の引け目もあり、息子の米軍への入隊という思い切った人生の転機にもただ反対するだけで、未成年の長男の危うい自立を翻意させるべく説得する能力もない情けない親でしかない。

 

更に次男のピアノ教師(井川遥)への憧れが混じった音楽教室受講を力ずくで阻止しようとしてこれも失敗する。同窓で失業中だった求職仲間の津田寛治夫婦の心中もあってますます香川の心はすさんでいく。

冷え切った夫婦関係の中家族で唯一精神の拠りどころだった長男を外地へやった母の強い精神も、たまたま押し入った強盗(役所広司)に人質として車で連れ回される事態になり、救いを求めた夫がここに至っても自身の問題にかまけてまことに頼りない人間でしかないことがはっきりしたことで、自分でも思いがけない行動に出る。

 

それまでの延々とつづく灰色のやるせないドラマらしきことも起こらないホームドラマが破転急を告げ、時を同じくして始まった三者三様の犯罪模様のなかで殊に小泉と役所のドラマチックな情事的逃避行がクローズアップされて破局寸前へと進む。

小道具として添えられたプジョーのオープンカーが彼女の心情とこの事態のスーパーリアリティ(空想性)を表わして憎い。

この一幕はむしろ喜劇的な色合いが濃く、この出来事が本当に起こったことなのか、長男が救いを求めて帰宅した夢のように、これも実際には起こらなかった彼女のありえない願望のような幻想に過ぎなかったのかというような疑問符もつく。つまりその極限状況と異常事態にもかかわらず、画面はひたすら静かな抑えた詩的な画面のままに推移して、結局家族の戻る場所はその家庭しかないのだという諦念のような決まりきった筋への伏線になっており、結局それらの出来事は彼らの内面で生起し過ぎ去っただけで、実質的には何事も起こらないまま家族の再結合という終息を迎えるのだ(平凡な家庭の心象風景そのものなのだろうが、ドラマとしてこうでもしなければ収束のつかない最悪の悲劇にしかならないということだったのだろうが、いささか物足りなかった)。

そのつけたしとしては当然ながら最後のまことに美しい場面、次男の音大付属中学入試実技試験で奏でるピアノ曲「月の光 ドビュッシー」による静かなクライマックス、ハッピーエンドへの無理のないつなぎになった。

トウキョウソナタというひとつのちょっと込み入った物語構造ではあるが深い味わいのある、美しい現代の古典音楽のコーダを聴き終えたような気分になった。

 

(268)「人民は弱し 官吏は強し」

 

前回(267)で取り上げたSFショート・ショートの作家星新一が書いた実の父、星一(はじめ)の伝記、特に彼の事業が躓いた原因である台湾アヘン事件に的を絞ったノンフィクション小説である(新潮文庫版)。

この近代史にもとづく”擬似疑獄事件”を扱った小説の中での重要人物である後藤新平は、たまたま最近の大震災報道に関連してしばしば現れている。大正年代に起こった関東大震災の前後に東京市長(今の都知事か)であったということから、東京都市部の再建に際して斬新で大規模な計画を立案し、推進しようとしたが激しい反対に遭い、その計画のほとんどを取り下げることになったという。この稀代の理想家である政治家と気が合った星製薬の創業主である実業家の星一(作家星新一の実父)がこのノンフィクション小説の主人公である。

この二人が意気投合し、お互いに協力しあって何事かをなそう(実際は新平を筆頭に置く通信社を作り新取りの政治活動をはじめようということだったらしい)とした。しかし、時既にこの大政治家は盛りを過ぎていて、政権を奪取した新平の政敵加藤高明は星製薬のライバルである三原作太郎、国内製薬の社長と組んで星製薬をぶっつぶすべく国家と官僚、警察権、マスコミなども総動員し、さまざまな策を弄して星を苦しめにかかる。

星製薬は当時の最大手の薬品研究、製薬、販売会社で、全国規模のチェーンストールのようなシステムを日本で最初に作り、さまざまな新薬の発売、斬新なアイデアを打ち出し、全国的にコマーシャルを打って伸び盛りの会社であった。

更に星は当時今で言うクールチェーン、冷凍工業の全国展開をはじめていたが、そのさなかにこの台湾のアヘン業務での癒着疑惑で訴えられたのである。しかもその裁判の間にさまざまな裏工作とマスコミへの故意の捜索逮捕報道リーク、銀行へ不渡りの噂を流す、等々、国家の権力を総動員したあからさまな事業妨害で、さしもの優良大企業だった星コンツェルンも業績が落はく、あえなく破産してしまう。しかもそのきっかけだった疑獄事件は数次の裁判を経て無罪を勝ち得たのである。もともとが根拠のないいいがかりだったということだろう。

一読、この小説は実に不愉快極まりない、救いのないやるせもない印象を受ける。今からさほども時を遡ることもない一時期に白昼堂々行われた異様な国家犯罪とでもいうべき不条理がどうして当時の社会で単なるひとりの実業人の没落として見過ごされたのか、しかも被害者は時の大政治家の腹心、著名な大会社の社長で良心の権化とでもいうべき人物、しかも近代日本を代表するような文豪鴎外と東京帝国大学教授小金井良精の縁戚なのだ。

鴎外は大正11年没であるが、新平と良精はなお現役だったはずだし、当の疑獄事件ではしっかり無罪を勝ち得たわけであり、そのときの弁護人たちも星の苦境と官憲の不正は知っていたはずだ。さまざまな露骨な人権侵害、営業妨害と損害をどうして逆提訴できなかったのか?ただ証拠がない、それだけのことだったのか?

そのあたりの説明がここには「現代の文明の欠陥」としか星に言わせていない。敵の悪意と目的は充分わかっていたのではないか。

その敵の中枢が当代の最高権力者であったのがその理由だというのなら、それはまったく理由にはならない。むしろ新平らには敵の弱みとして捉えられるはずだからだ。「官吏は強し」というひとことでこれが片付けられるはずはないと思うのだが。

「日本の現代に対する一編の寓話(鶴見俊輔、後藤新平の孫)」といえばそれまでかもしれないが、現代になお通用する寓話だとはおもいたくもない。

最近ではライブ・ドアの堀江貴文氏の起訴問題があった(これは最近結審した。有罪確定だと)し、厚労省の村木元局長の不正疑惑事件もあった。いずれも国家的関与があれば白も黒に出来るという当局のおごりが感じられる。まだまだこの手の話はあるのだろうか。

 

 

(267)「一00一話」を作った人

星新一を思い出したのは、例の福島原発の事故を知ったときだった。

私が彼の小説を読んだのは高校生の時で、姉が持っていた光文社の新書版だったと思う(表題は忘れた)。ほとんど彼の活躍時期に同期して楽しんだということだけれど、ご多分にもれずそのあと彼への関心が続かず、忘れてしまっていた。唯一今まで記憶に残っていたのが「おーい、でてこい」という不思議な味の物語だった。それから40年以上を経て「フクシマ」を経験したわれわれは、この傑作ひとつで彼のSF作家としての未来予言の確かさに改めて思いをいたすことになる。

「おーい、でてこい」の筋は簡単である。都会のどこかにある日底の知れない穴があいているのが発見された。専門家にもその底がどれほど深いのか、計測しても反応せず見当がつかない。そこで穴は底がないということで都会のごみ捨て場になってしまう。あらゆる都会のごみ、不要物、排泄物、汚染されたものがその穴へ投げ込まれ、それにつれて都会はどんどん美しく、清潔になっていく。澄み切った都会の空から、ある日、投げ込まれたものが(順を追って)降ってくる…。

おそろしいほどに深く、多様な哲学的解釈が可能な作品である。私は今度この作品を読み返したけれど、意外にも思ったのは穴へ投げ込まれた廃棄物の中には、「原子炉のカス(放射性廃棄物だろうことは間違いない)」もしっかり書き加えられてあったことだ。これが書かれた頃はまだ商業用の原子炉が稼動していなかったはずだから、まことに恐るべき予言の書といわざるを得ない(もっとも、星は東大理工学部の出身で、原子炉の基本的な問題点などは知っていたとは思うが、そんな知識があっても危機意識を持つかどうかは別のことだろう)。

そういうこともあって最相葉月氏の評伝「星新一 1001話を作った人」を読むことになった。ここにも以前取り上げた「絶対音感 32」の作者である。氏の作風は粘着質の科学ノンフィクション作家といった印象で、徹底的な取材と論理的な文章力で委細に富み、面白いけれど文芸作品や芸術家でも文人の評伝にはミスマッチのような気がしていた。それで、SF小説の草分けで、いわば機械的に大量の小品を量産した異才の秘密のようなものを解き明かすには適しているかもしれないかもという興味もあった。

でもそれは少なからず違っていた。いや、いい意味で期待以上だった。私などの思いも及ばなかった多様な側面を持つ作家星新一自身の見事な全体像再構築だった。そしてSFとは何か、小説とは?文学賞とは何なのかについて感得させてくれるすぐれた評論だった。

まずここで明らかになるのは、星新一とは何者だったのか?ということだ。これを読むまでの私の先入感といえば、彼は突然無からSF空間に現れた宇宙人といったものだった。名前からして作り物っぽい、うさんくさい、つまり我々が思っていた文学風土とは無関係の存在だった。彼が創造したSFショート・ショート と呼ばれる非常に短い短編完結小説から主に連想されたものだったのだけれど、そういった先入観も間違いではなかったとはいえ、彼自身にとっては当然不本意だったはずだ。

彼の圧倒的な才能、面白い作品群もあまりに異質だったのでその時代の主流派に正当に理解されなかった。そのスタイルの斬新さ、良質の作品群の大量生産は誰にも真似の出来ないものだったし、それだけでも芥川賞に値するのではないかとすら思うのだけれど。いずれにせよSF,サイエンス フィクションといわれる文芸のジャンルが日本で一般に認知されることに星新一がおおいに貢献したことはこの評伝でよく描かれている。

「うさんくさい」といったけれど、星新一(本名は星親一)自身はそ全くその反対で、戦前から日本国内では知らぬもののない一部上場の大企業「星製薬」の御曹司であり、若き社長でもあった(それゆえに若さに似合わず往時はさまざまな人生苦を味わった)。そればかりではなく彼自身東大理工学部の出身であり、更には文豪森鴎外と解剖学の権威であった小金井良精を持つ家系であったという毛並みの良さが彼の引っ張る「うさんくさい」SF小説を出版界へ認知させる大きな力にもなったという。

そういったことは世間では往々にしてあることだと思う(出版界も世間だ)。もちろん星の才能は本物だった。けれどその超短編小説という形式の新奇さ、SFという新しい分野の開拓者ということから、生前は彼の自負心と努力にもかかわらず、文学全体での彼の作品の評価は正当だったとは言えないし、それが彼の生涯通じての負い目になったようだ。

SF小説というものの日本での受け止められ方も、この狭い出版界がそれを認知するか、どうかということから始まったわけで、SFがまともな小説かどうかというような、今にして思えば信じられないような稚拙な論争がかってあったというひとつの興味ある文学史、あるいはSF文壇史としてこれを読むことも可能だろう。

当時私も読んだ「SF入門」とかいった本で福島正実氏の書かれたものの内容がどうも彼らの内幕を愚痴ったようなもので、どうにも理解できなかった記憶があるのだけれど、そういったこともこれを読んでなんとなく分かったような気がした。

 

(266)「フクシマ」

 

今度の震災でもっとも世界の未来に影響を与えたものは、多分福島原発の事故だろう。

これを書いている時点(4・11)でまだ事故炉は危機を脱したとはいえないようだし、これから更に被害が広がる可能性は充分ある、というより、これからが本番だ、と不気味なことを言うひとすらいる。私はそうは思わないが、それも願望に過ぎないと言える。

誰にも、専門家にすらその結末が予測できないという深刻な現状がある。これが原発というモンスターの問題点のひとつなのだ。原子力の持つ潜在的なエネルギーの大きさというものだ。これがあるからこそわれわれはこれに命運を託したわけだから、いわば両刃の剣。こうなることは充分に予想できたはずだった。だからこそ天災ではない、人災だといわれるのも否定は出来ない。

ここに至るまででも、まだわかっていないことが多い。私なりにざっとまとめるとこうだが。

3月11日の午後、震度7以上の巨大地震が襲い稼動中の3基の原子炉の外部電源が切れた(これは自前の電気ではなく、東北電力から供給されていた電力ということだろう。いずれにせよ状況は同じだが)。これによりスクラム(非常停止)がかかった。この直後よりディーゼル非常発電設備が起動した(ここまでは筋書き通り)が、14mの津波が来てこの系統が故障した。これ以後もバッテリーで原子炉隔離時冷却系がしばらく動いていたが、8時間後バッテリー切れでこれも停止。その後電源車が来てこれを復活させようとしたがプラグが合わず断念。(このあたりが大いに疑問なのだが、しかしこの冷却系はただ周囲に残った水を循環させるだけで、外部へ熱を逃がすことが出来ず、機能は限定していたという情報もある。そのために積極的に復旧しても意味がなかったのかもしれない。)その後外部から水を炉内へ直接押し込む作業が始まったが、内圧が高く、燃料棒が露出して水素が発生し、炉の上部から漏れ出て建て屋の上部に溜まり、爆発した(一号機、三号機)。

その後も建て屋上部に溜められた使用済みの燃料棒とそのプールの問題が起こったが、これらがどんな状況にあるかが分からないという状況は、原子炉そのものの状態がどうなっているのかが確実にはつかめない状況と合わせて、原発の弱点がはっきりと出た現象だろう。

一旦放射能が撒き散らされたら、その状況では設備には近づけないし、そのためにもう何の有効な対策も打てない、そういった状況が起こる可能性を当事者が「ありえない」と思ってその対策を準備しては居なかった。最悪放置して逃げ出すしかないという、漫画のような状況がはっきりしたということだ。

 

大河出版「原子力と設計技術」S55年版より 

どれほど緻密な安全体系を構築していても、それを動かす大前提がひとつの非常用電源だけであり(2系統あったのかもしれないが、同じ災厄で同時にダウンするのは1系統としかカウントできないだろう)それがなくなったら皆無力になってしまうのは、あまりにもお粗末だったとしか言いようがない。

いずれにせよまだ正確な情報が東電から公開されていない状態では、何が原因だったのかを結論づけることは出来ない。ただ言えることは、原発はなお日本では発展途上の技術だったということだ。実用技術というものは、どんな状況であれ大事故を起こすことは許されないし、決定的な時点でコントロールを失うということはありえない。想定を超える自然災害が引き金になったという不幸はあっても、フクシマはこうなるまでにどこかで踏みとどまる技術を獲得してから操業するべきだったと思う。

そこでこれからの原発の考え方だけれど、やはり巨大化で見かけの効率化を達成しても必ずしもそれが良いということにはならないと思う。完璧な技術と言うものがありえない限り、必ず事故は想定しなければならないし、その場合の対策も大型より小型の方が立てやすいと思う。

東芝とGEが計画している次期の新型原発は30Mワット級の、20年ほど無人で動かし続けてあとは廃棄するというものだという。M・Sのビル・ゲイツが私財を投げ出して開発しようとしている新型の原発も良く似たこがたのものらしい。こういったものなら群で管理すれば(途中停止くらいは出来るだろう)出力調整に悩むことはないはずだ。

出力調整の反対運動も奇妙なものだった。だがこれからの原発は更に茨の道を進まねばならないだろう。この問題をイデオロギーに持ち込まず、純粋に理性で対処できるようになるかどうかが、日本が3・11後の世界で先進国の一員に留まって生き残れるかどうかのキーポイントになるような気がする。

 

(265) 東北関東大震災

 

無気力になっているけれど、何かをしなければならないという気分で向かっている。

未曾有の天災が生きている間に来ようとは思わなかった。誰もが思う感想だろう。まずこのことを書いたあと、私たちはこの事実については何も言うことがない。これも実感だ。今日の朝日新聞で歴史学者が書いていたが、日本はポルトガルになるかもしれないと言う。彼の国は大航海時代の一時期、エンリケ王子の指導のもとに世界のトップに立った。しかしスペインに敗れ、イギリスなどにも追い抜かれ、そのあげくにやはり今の日本のような大震災に見舞われて国が疲弊した。国民の1/3がその時に亡くなったというから今度の日本の災厄の比ではないが、結果として今の中堅の国家として現在に至る、らしい。

確かに今の日本の状況に重なる面がある。発展途上国の災害に比べ、日本は地方の役割りが日本全体に有機的に関連しているから、ダメージはその死者の数などでは到底計れない巨大さになっている。現代国家の弱点である。

日本がどうなるか、まだ副次的な災厄になった福島の決着がついていないから先行きは不透明だけれど、これまでのように羽振りのいい国にもどれるかどうかは私も悲観的だ。早い話が阪神大震災神戸プサンなどに港のシェアを奪われて、それきりになっていることを考えれば、日本がこのハンディを負って中国やら韓国やら台湾などの競争に復帰できるとは思えない。

日本は貧しくなる。これは確実なことだ。早い話ホームレスは倍増するだろうし、国債のデフォルト時期だって早くなるだろう。

もっとも、そうなればそうで日本は以前よりもまともな、ゆったりした国になるという予測もあるらしい(ホームレス暮らしだって悪くはない?)から、悲観ばかりしなくてもいいのかもしれない。少なくとも、これまでのようにどんな田舎にも開発の津波が襲ったり、サラリーマンの過労死が言われたりということはなくなるかもしれない。

ここで福島の話もしておきたい。私が今度の原発事故の経緯の疑問と不満を話していたら、ご近所の年長の賢人が、「当代最高の専門家がその時点で最善を尽くしたんだ。われわれ素人の出番はないだろう。」とおっしゃった。

これも一理はある。誰がやっても災厄は防げなかった。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。誰にも仮定の話は意味がないことくらいはわかっている。これからが重要なのだ。過去のことにこだわるべからず。確かにごもっとも。でも、と私は思う。詭弁かもしれないが、それではなぜ皆は歴史を学ぶのか。過去のことが無価値なら、歴史の検証など誰もしない、はずだ。

福島で/11から水素爆発に到るまでに起こったことは、まだまだ分からないこと、つじつまが合わないことが多い。当事者が隠していることもあるのだろう。それは追々はっきりするだろう。今後の日本の行く先を決める原発の是非は、彼らの失敗のすべてが明快に分かってから本格的に議論されるだろうけれど、少なくとも今の巨大なパワーを集中して取り扱う形式は過去のものになるだろう。出来なくなるだろうと私は思う。

でもそれは原発自体を拒否することとは違う。

日本人は確かに原子爆弾の洗礼を受け、ビキニの灰もかぶった。今度のことも合わせて、放射能はこりごりだという感情を持ったとしても無理はないかもしれない。しかし、そういった感情論を克服する高い知性を持った民族でもあると私は思う。

未来に向かって、怖じることなく、更なるより安全な原発というものも選択肢に入れるべきだろう。でなければ結局日本はポルトガル以下の貧しい国になるのではないか、と思う。




(264)炎の人

パンフレット

ヴァン・ゴッホの伝記を劇化した「炎の人」を見た(直方ユメニティ 無名塾 1/23)。この劇は民芸の滝沢修が何度となく演じ(大滝秀冶も演じたらしい)たことで有名だけれど、今回は78歳になる仲代達矢 無名塾主宰者自ら老体に鞭打っての熱演であった。

この劇のテーマは「芸術と狂気」ということだろうか。これは芸術家にとっては永遠の困難なテーマだろう。才能の乏しいもの(ゴッホのように)はなおさらのこと狂うほどそのものに執着しなければレヴェルの高いものに到達出来ないことは常識でもわかる。しかしそのレヴェルも、作家自身(の生き方)はなおさらのことやはり人間の世界から、まっとうな人間性から遊離してはならないはずだ。そのヴぁランスというか平凡からの距離をどうとるかは実に難しい。だからこそ彼の生涯の悩みに後世の大芸術家たちが挑んでみようという価値を見出すのだろう。

炎とはその狂気のことだろうか。

最後には自らあおった炎に焼かれた男、ゴッホの残した作品は絵画だけではなかった。詳細に自分自身を分析した沢山の手紙も残されている(小林秀雄の「ゴッホの手紙」をもう一度30年ぶりに読み直してみようと思っていたけれど、怠惰から出来ないで居る。)ので、その人間性をたどることは比較的容易なのだけれど、そして、彼自身の非常な聡明さも証明されているのだけれど、それゆえにこそ彼自身の短くも悲惨な生涯は痛々しく、またその生涯そのものが芸術作品として作家や芸術家たちにそれを描くインセンチヴを惹起させるのだろう。

 

一人のくそ真面目な男が、その真面目さと人間愛の強さが嵩じて挫折を繰り返し、壊れかかった心をもてあましながら、唯一残された生きがいとしての絵画制作に渾身打ち込む。当然ながら生活苦に沈み、強烈な性欲ももてあまし気味である。そういった起伏の多いドラマチックな生涯を駆け抜け過ぎ去ったゴッホはどんな人間であったのか。仲代ゴッホは殆ど狂気のようなこの「貧しい心の」無名画家が示した絵画への愛情の強烈さ、そしてそれに対応したぎりぎりの人間性の正直さ露骨さを彼をめぐる女たちや当時の一流の(後世名を残すことになる)画家たちとの不器用な愛情表現の交流で見せる。

結局、彼の世界を覆うような広大な優しい心は、ある面では他を寄せ付けない偏執的なまでの硬さ(自負心)をどうしようも出来ないままに持っており(三好十郎はそれを貧しい心と表現したのだろうか)現実として弟テオにしか理解できなかったのだろうけれど、その芸術と作品は当時から仲間うちにはよく理解されていたのだろう。耳切りの悲劇のあと、彼の多くの作品紹介とともに回顧風にはじまる詩輪読の舞台を、そういったしみじみと安心させられる印象的なエピローグとして、包帯を左頬に巻いた静かなゴッホの姿とともに私は感銘深く観賞した。

全2幕を見終えた最初のうちは少し短い(物足りない)感じがしたけれど、確かに、この後続く彼自身の死へいたる史実としての悲惨は劇化するようなものではないだろう。見事な構成だったと思う。

 

 

 





(263)チェンジリング

前回の更新から6ヶ月、こんなことは初めてだ。要因は前回を読んでいただければわかるのだが、それにしても間が空きすぎた。愛想をつかされたようでアクセスは最悪の状況だ。ともかく今回は映画感想。

クリント・イーストウッド(監督)はすでに巨匠の地位を占めたらしい。今度の作品もきわめて評判がよい。そういった巷の話を存分に聞いたあとで観るDVD鑑賞はまた、よきかなといえる。

アンジェリーナ・ジョリー主演のシリアスなドラマ、1928年のロサンゼルス、母子家庭で一人息子のウォルターを育てつつ自身は電話交換所(当時は先端の職業だったのだろう)の実力派キャリヤーとして働いている。その彼女に息子失踪の不幸がおとづれる。
息子は戻ってくるのだが、本人ではなく、別人だった。

なぜこのようなことが起こったのか。


息子の捜索を執拗に迫る彼女、宗教者の援護もあり社会問題にもされかねない状況でロス市警が採った窮余の一策だった。彼女に替え玉である別人を押し付け、それで一件落着として済まそうとした。母親の悲嘆と困惑など知ったことか、あらゆる卑劣な手段を講じて合法的な落着を図ろうとする彼らの悪辣さは今の我々の感覚では想像を絶したものだけれど、間違いなくこういった時代はあったのだ。最初の説明文に現れる「これは真実の物語である( true story である)」という言葉は、この物語が実際にあったことだということのほかに、真実というものを追求したひとつの物語なのだ、という意味を含んでいるのだろう。


まさに母と子のきづなは深く、真実のみがこれを可能にする。それを敵に回したロス市警は判断を誤ったとしかいえない。実際、近隣で起こっていた幼児誘拐殺人事件の発覚で彼らの嘘はもろくも崩壊する。精神病院へ放り込まれて朽ち果てようとしていた母親はきわどく救出され、反転攻撃に転じた彼女たちの法廷闘争で市警幹部は敗退する。彼女同様に警察にたてついたために押し込められていた弱い女性たちもまた開放される。

 

A・ジョリーの熱演もさりながら、私は彼女をとりまく少年たち4人の配置、物語進行における見事な役割配分、その自然な語らせ方には唸ってしまった。そして彼女と対置する殺人者の描き方の見事さ、これは一級の社会サスペンス映画だと思う。

公権力、特に暴力装置としてのそれらの恐ろしさはいくら言ってもいい足りないくらいだ。この物語は単に90年前の歴史物語ではまったくないのである。これと一緒に借りたJ・ロペス主演の「ボーダー・タウン 2006年製作」もそういった問題を扱っていた。米国とメキシコとの政治経済問題が底流にはあるにせよ、直接的にはメキシコ警察の腐敗と非力が糾弾されているのは間違いない。

 

(262) ウィンドウズ 7

 

とうとう壊れた。

’04年の暮れに買ったXPのパソコンがおかしくなり始めてほぼ一年、リカバリー(これ自体が大変でF1以外効かず、最後はBIOS画面が出なくなった。)も何度か実行してなんとかもたせていたのだけれど、フリーズ以前に電源が頻繁におちはじめて、もうこれは駄目だろうと観念した。

念のために、というか未練がましく買ったパソコン工房に持ち込んで診て貰った。ふたを開けて5分ほどの検診。「電源部が壊れかかっている。メモリー基板もおかしい。内部の冷却ファンが停まっている」などなど。コンパクトにまとめてあるオリジナルの(OEM?)製品なので電源部品などは在庫がないし、他にも問題はありそうで、いずれ長くはもたない、という診断(500¥の診断料)で、結局新品を購入する羽目になった。値段は前のものとほぼ同じ49800¥、OS はウィンドウズ7(通販で二万円安いOSなしのがあって、XPでもよかったのだけれど、二年以内に更新サーヴィスがなくなるということでよんどころなくW7にしてしまった。それにしてもマイクロソフトは儲け過ぎていないか?)、RAM が2GB 、HDD のメモリーが465GB 、それぞれ前よりも倍以上になっている。本体も前よりもたてよこたかさそれぞれ一センチほど大きくなって、お気に入りの場所に収納できなくなり、デスクの上に置いた。パイロットランプがやけに明るく目に負担が大きい。 まあLED も進歩したのだろう(苦笑;)。気に入ったのは付属のマウスがレーザー式で軽いこと。USBのジャックが前後で8口とこれも倍になった。何にせよハードウエアの涙ぐましい値下げの努力を尻目に、マイクロソフトの強欲はなおのこと目立つ。OS に加え、オフィス2010をつけると3万円を軽く超えるのだ。愚痴はさておき、さて立ち上げ、セッティング。

 

最初の関門である無線ラン(ネットがつながらなければ何事も始まらない)でつまずいた。7年ほど前の草分けのころのバッファローのもので、案の定動かない。有線にしてサイトから心当たりのソフトをダウンロードし置き換えてみたのだけれど事態は変化なし。バッファローのサービスにTEL したら、「それはMeまでの対応のもので、XPでも使えていたのはたまたま運がよかったのですよ」と逆ねじを食わされた。仕方なくまた店へいって子機を買った。これが親指大と小さいのはよいけれど、接続感度が悪くて頻繁に未接続に戻る。多分小さすぎて装置の中へもぐりこんで電波が受けにくいのだろうと考えて延長のUSB を間に介してぶら下げた。それでようやく安定したけれど、以前のたまたま子機は”非常に強い”電波を常に受けていたので、親のほうが悪いとは思えない。やはりW7との相性が悪いのだろうか?

ランを介したプリンター(キャノン5年目)はなんとかうまくいった。スキャナー(これもキャノン4年目)もOK、今年買ったデジカメ(ニコン)も当然OKだ。5年目のTVキャプチャー(I-O データ)はNG、サイトで調べたらW2000 までの機械だった。LPレコードをCD化するクリエイチブのAD変換器も ついてきたCDソフトは駄目だったけれど、サイトで対応するソフトが入手できた。3年目で、そう高くない(2000¥くらい)機器なのだが親切だ。その点TVキャプチャーは一万円を超える機器だし、痛い。アナログから地デジに変わるということもあるのだろうけれど、対応してほしかった。

 

メールソフトはバンドル商法が批判されていることもあるのか、目立たないウィンドウズライブというソフトの中に忍び込ませてあった。アカウントやアドレスはインポート、エクスポートの機能で簡単に復旧できるのは同じだ。でも全体としてどうも使いにくい。慣れればいいのかもしれないが。

 

デスクトップの画像設定は良くなった。自動的に最適の倍率で調整表示してくれる。最悪の問題はホームページの作成だ。いよいよフロントページエクスプレスが使えなくなった。ソースネクストのHPゼロを手に入れたのだけれど、まだ使いこなせない。まず、このコンテンツを出さねばならないのだが、困った。

 

 

(261) バッチギ

 

2004年製作の映画「パッチギ」を観た監督 井筒和幸 1968年の京都が舞台だ。懐かしくも切ない「イムジン河」などのヒットメロディに乗せて繰り広げられる高校生たちの純粋無垢な青春グラフィティ。暴力と性、友情と愛、スポーツ、音楽。私も同時代を京都(郡部だが)の高校生として過ごしたわけで、必要以上に親密な時空的郷愁を感じるのはいたしかたないけれど、これらの時代的背景は暴力のマス・シーンはじめなかなかよく描けている。ビートルズ、ゲバルト、毛語録、フォークソング---、ああ懐かしいぞ。

朝鮮学校のブラスバンドでフルートを吹く美少女キョンジャ(沢尻エリカ)に恋をしてしまった寺の息子マッシュルーム刈りの康介(塩谷瞬)が彼女に近づくための涙ぐましい懸命の努力の数々(朝鮮語を勉強したり、ギターを買ってイムジン河を弾いたり)と、それが実りかけた時に起こった学校同士の暴力事件、それがもとで命を落とした彼女の仲間(ギターを教えるという約束をした)の葬式風景。葬式というのは民族文化が色濃く出る場であり、その中にひとり入った異民族の若者が浮きあがるのは仕方がない。ましてその荘厳さを粗忽なよそ者が乱してしまうのは彼らにとってもやはり許しがたいところだろう。積もり積もった歴史的な鬱屈が堰を切ってあふれ、死んだ仲間の叔父(笹野高史)から強制移住と戦前の朝鮮人の差別についてのレクチュァなどを受けたあげくに追い出され、一人傷ついた康介はやりきれない気分でギターを橋の欄干に打ち付けて壊してしまう。

キョンジャの兄で学校の番長アンソン(高岡蒼佑)の彼女である好子は彼の子供を身ごもっていたが、北朝鮮への帰還問題で関係はこじれており、彼女からそれを言い出すことができないまま波乱ぶくみの出産へ突入してしまう。

結局最後はめでたくハッピーエンドになって画面はエンドロールへ移るのだけれど、もちろんこの青春グラフィティは単純なハッピーエンドではとても終わらないのは明るい超特急の車窓で笑いあう親子3人の北への帰還の未来のあやうさ(叔父が伏線を張っていたが、そういったばら色の移住予想を否定するような情報が当時既にあったとしたら日本当局も悲劇の責任は逃れられないのではないか)、教室で毛語録を熱く語っていた教師がロシアダンサーのひもになってアドマンとして場末をうろつく結末に象徴されるようにただならないものがあるのは知れたことだろう。

968年の東京オリンピックを控えた日本の希望の中で「イムジン河」の放送を体を張って強行するディレクターや、番長アンソンが京都の赤電話をことごとく破壊する精一杯ゲバルトなシーンにこれが撮られた安逸な2003年の歴史的な対比を想定して監督が多重的な批判を試みているのは明らかだ。

戦後の朝鮮問題にこびている、自虐的だ、などという皮相的な批判(当時はそうだったんだから仕方がないじゃないか)など、少なくともこの青春映画としての良質具合を考えただけでもあまりにちいさいことだと私は思う。


それにしても当時の朝鮮学校の雰囲気はどうだったんだろう、生徒たちはこんなに伸び伸びと元気だったんだろうか。サッカーが抜群に強かったというのはなんとなく想像はつくけれど、あれほど立派な大編成のブラスバンドがあったんだろうか?私も高校生当時はブラスバンド部にいたのだけれど(京都府立)、予算が少なくていつも修理もままならなかった。映画の半分くらいのちっちゃな編成で、フレンチホルンなんか高価で買えなかったな。それに今と違って女子生徒はいなくもなかったけれど木管に限られて常に少数派だった。

映画では現今の部活のように女子がほとんどというか、ざっと3/4くらいの割合にみえたけれど、都市部はやっぱりそうだったんだろうか。ブラバンはずっと昔は男子生徒の独占するクラブだったらしいけど、いつごろから女子に入れ替わったんだろうか?

(260) テンぺスト へ戻る


 


 

「激白」 トップへ



妄呟舘あまぞにあホームページへ戻る