211)「クワイエットルームにようこそ」

 



210)オキナワ

 

何度か訪れる機会があったのだけれど、とうとう一度も行かずである。

沖縄は軽く物見遊山で行くところではないと思っている。

それでつい、機会を失った。

これからも行くことはないだろうと思う。

大江健三郎氏の「沖縄ノート」でその代わりをしようかとか思っていた。

まだ読んではいないけれど。

A紙に定期的に載っている大江氏のエッセイ「定義集」(11/20の分)を読んだ。

氏が訴訟に関わっていることは知っていたけれど、詳しくは知らなかった。

これを読んで、ああ、こんなことだったのか、と腑に落ちた。

 

もちろん、氏が巻き込まれた訴訟が最近の歴史教科書改ざん問題と関係していることは知っていたし、それが沖縄県民の大きなデモにまで広がった社会問題になったこと、とうとう国も放置しておく事ができなくなって、県民の意思を尊重する方向へ動き出したように見えることも知っているし、それらのことに興味はあった。

しかし、何も知らなかったも同然だった。

一連の出来事を因果順に並べてみるとこうなる。

大江氏が「沖縄ノート」を発表した。

それを読んだ曽野綾子氏が批判した。

それを読んだ元沖縄守備隊長の親戚が大江氏を告訴した。

それを知った国が教科書の沖縄戦の部分の書き直しを出版会社に命じた。

出版社がそれに応じた。

それを知った沖縄の県民が反対行動に出た。

国が教科書の見直しに踏み切った。

出版社は下駄を預けられた形で、再び応じようとしているところもある。

 

この訴訟における問題の核心は、沖縄戦時における「集団自決」に軍が関与したのかどうかということのようである。

 

事件は60年以上昔(1945)のことだ。そして大江氏が「ノート」を発表したのがまた30年近く前(1979)のことだ。

なぜ今にして反論が出たりするのかということがまず分からない。

「集団自決」自身はそれ以前から「既定の常識」だったのではないか。大江氏以前にもそれを指摘したひとや書物はあったはずだ。どうして彼等はずっと黙っていたのか。曽野氏の(大江氏への)反論が出たことで、その尻馬に乗ったかたちで声を挙げ始めたのではないのか。

これらの動きの根っこには、やはり戦後の「自虐的歴史観」への最近の反動とナショナリズムの台頭があるのだろうと私は思うけれど、彼らが個人的な立場で「軍の関与の否定」を主張すること、それに伴い当然のように、まず証拠をだせ、と言うのは如何なものだろう。

単なる事務手続きの問題からは彼らが有利な立場に立っていることは間違いないだろうし、「故旧日本軍守備隊長氏」の汚辱が「証拠不十分」で晴らされる可能性は高いかもしれないが。

しかしそのことがただちに旧日本軍沖縄守備隊の名誉の回復に直結するかどうかは全く疑問符付きだろうと思う。むしろ心証は悪くなる可能性が高い。

彼らが沖縄守備隊としての本来の、そして最低限の任務を全う出来なかったのは事実なのだし、そういう意味で今更彼等個人の名誉など回復しようもないことは明らかなのだから、今度の訴訟に勝ったとして、それがどうなのだ?といいたいほどだ。

 

沖縄県民が歴史的に日本の中で
割に合わない役割を担わされてきたことは
否めない事実だろうと思う。

大江健三郎氏の「沖縄ノート」が氏の思想に基づいて
そのような事実を告発する意図で書かれたことは確かだ。
その内容を批判した曽野綾子氏もまた氏の信教と思想からのものだったと思う。
しかし、この論争は沖縄戦で軍が住民を玉砕へ導いた事実の真偽とは何の関係もない。

 

例えば、確かに大江氏の文章の多くは難解で、理解し辛い。

曽野氏が解釈を誤ったとしても、

今度の訴訟原告が大江氏の著作を読まなかったとしても、仕方がないかもしれないとは思う。


最近の国際ニュースでフランスの大統領が旧大戦時、ナチスとのレジスタンスで斃れた若者の遺書を教育現場で読ませているとあった。「国に殉ずること=愛国心」の価値を国民に植え付けようとしているらしいのだけれど、名誉の中心にある彼だって、“生きることが出来たら、その方が良かった”という意味の言葉を母に残していたという。

 

「定義集」の最後に大江氏は、曽野氏の件の著書に表れた

国に殉じるという美しい心で死んだ人たちの心を、なぜ戦後になって、あれは命令で強制されたものだというような言い方をして、その死の清らかさをおとしめてしまうのか

という核心の部分に疑問を呈している。

これは私にも分かる。誰であれ、死んだひとの心の中を勝手に忖度して自分の都合の良いように書き換えることなどは出来ないのだ。ましてそれが“その死の清らかさをおとしめてしま”った可能性のある立場の人間がいうのならばなおさらのことである。

 





(209)ドン・キホーテ

 

無名塾の新作「ドン・キホーテ」を観た。11/18 直方「ユメニティ」。上演台本岡山 矢、演出丹野郁弓。主人公は仲代達矢氏、従者のサンチョ・パンサに山谷初男氏。来年初頭の東京公演の前の先行公演らしい。世界最大の古典小説の舞台化は実に野心的冒険的、塾長で企画発起人の‘07年文化功労者仲代氏をドン・キホーテに喩える冗談もかくやと思える。

聖書に次ぐ大ベストセラーらしいけれど、はっきり言って多くの日本人同様私もこの小説は読んでいない。世評の高かった「ラ・マンチャの男」もみていないのだけれど、(同名のバレエは見たはずだけれど、あれはまったく原作とは異なったものだ。)この劇自体そのミュージカルの焼き直しなのかと思っていたくらい無知だった。今度の仲代キホーテは「ラ・マンチャ」以上にストレートにセルバンテスの原作へ肉薄する意気込みらしいのがまた凄い。私は、そのミュージカルの中で唄われていた歌(「見果てぬ夢」だったか、これは余りに有名なので知っていたが)を聞いてそれが原作の小説の主題らしいとの先入観があった。

男のロマン、なのだ。違うかもしれないが。

今更書くまでもないだろうが、この小説を一口で言えば、17世紀スペインの物語で田舎の郷士が本を読みすぎて気が変になり、騎士(そのころにはもうまったく時代遅れだった)に身をやつして家を出奔、旅に出た先々でトラブルを起こす。

原作は非常な長編らしいのだけれど、作者が言いたかったこと(のあらまし)は判っている(?)のだから、あとは舞台がどんな趣向で私たちを楽しませてくれるのかということだけを期待していればよい、位に思って観た。

巨大な古書の壁面をバックに銅鑼が鳴って幕が開き、唐突に狂った主人公が乱れた寝巻き姿で現れてすぐ正面の扉から逃げるように消え去り劇は滑り出す、まったく見事な導入部。


それにしても、舞台化は難しいことだったろう。舞台の「ラ、マンチャ」を観ていないからオリジナルの工夫かどうかなんともいえないけれど(多分創作だろう)、主人公が乗る痩せ馬と従者の跨るロバが大小の3輪自転車になっていたのにまず感心した。作中最も有名なエピソードである主人公と風車との決闘も実に見事に処理されていたし。

ひとびとが常に舞台に居て存在感を示し、主人公たちの旅を逐一見守る中世(いや近世)スペインの雰囲気に包まれた舞台の構成、その中を主人公と従者の二人が自転車に跨ってまったりと動きまわる。音楽池辺晋一郎もいい。時にトランペットが鳴って主人公が敵と対峙し、騎士を迎える城が開門する--

これは重厚な古典的悲劇であり、周到につくられた人間喜劇であり風刺劇であり人間形成のドラマでもあるのだろう。主人公の居なくなった館で家族と知人が集まり、セルバンテスが生きたそのころには全く高価で得難かったはずの多くの書物を次々に批評しながら焼き捨てていく場面もあったけれど、このような人間知性の結実を濫読しながらも全く役に立たず、むしろ毒になってあのような愚行に走ってしまった主人公と、人間の中途半端な知識に対する痛烈な批判にもなっている。

狂気と英知がないまぜになった主人公の破天荒な行動の数々がどたばたにはならず、見事な台詞回しともあいまって一貫して聴衆を酔わせる。サンチョが公爵に騙されて領主に祭り上げられるエピソードも面白かったけれど、自分の限界を知って主人公のもとへ帰るところはあまりまともすぎてもう少しひねりが必要ではと思った。人形劇の場面はもっとファンタジックにあるいはどろどろさせても良かったのではと思ったし、そのあと一気呵成に筋は運び、主人公が学士カラスコの策略に負けて国へ帰り、最後の臨終を迎えて自分の愚行を清算する場面まで、退屈はしなかったけれど主人公の最後の反省がまともすぎることも合わせて、この巨大な古典がうまくまとまりすぎた感すらあったのは舞台製作者諸方の大手腕によるところなのだろう。




(208)三冷

久しぶりに試験勉強をした。

通称三冷、第三種冷凍機械責任者免状、を貰うための国家試験だ。これは「高圧ガス保安協会」が主催しているもので、ビル管理者には「ボイラー取り扱い免状」と並んで重要な資格なのだ。

ところで、なぜ「冷凍機」に「高圧ガス協会」が絡むのか?と疑問に思われた向きもあるかもしれない。関係が大有りなのだ。

冷凍機とは、ポンプで高圧ガスを大量に作って消費する装置なのだ。小は家庭用冷蔵庫から、ルームクーラーも例外ではない。

まだ腑に落ちない?

こんなところを私は今回結構まじめに勉強した。

忘れてしまうまでに、仕入れたうんちくを垂れようと思う。

 

ともかくこの夏は暑かった。

どこかに書いたかもしれないが、クーラーの有難さが身に沁みた夏だった。

しかし、クーラーなるもの、なぜ暑い夏にどこから冷気を生み出してくるのか、私はずっと疑問だった(学校では教わらなかったと思う。40年前にはなかった?)。

同類らしいが、冷蔵庫はまだいい。暗い室内でじっと黙って仕事をしている間に氷を作る装置だとの認識があった。しかし、クーラーは室外機という、まったく猛暑の下に晒されながらも奇跡のように多量の冷気を作って室内に供給してくれる。この凄さというか不条理が私にはやりきれなかった。

今回三冷を勉強して、かなり腑に落ちた。

もちろん完全に理解したわけではないが、その原理やら装置のしくみ、実際の取り扱いなどを勉強したおかげで、その核心に近づいたということはいえると思う。

もし冷凍の学問をやっておられる方で、これからの著述に間違いを発見された向きには、遠慮なく連絡していただきたい。すぐ訂正するのにやぶさかではない。

 

さて、物体には3つの顔がある。固体と液体、そして気体だ。これらは温度によって変わる。低温では固体、暖めると液体になり、更に暖めると気体になる。これは物体を形作っている分子の暴れ方(固体内でも暴れるまではいかないが、振動している)。まったく静かになった時が絶対零度-273℃と定義されている)の程度によるもので、暑くなると無性に腹が立ってくる、落ち着かなくなるという人間の性質を連想させる。
気体になると分子の暴れ方が半端でなくなり、広範囲に拡散してしまう。囲い込むと周囲にぶちあたり、圧力を生じる。ひとつの部屋内に閉じ込められた気体を急に半分の狭さに縮めると暴れ方が倍になり温度が倍になる(暑苦しくなると考えてよいか)。

この三態(相というらしい)が異相へ移り変わるときには特別に大きい熱が関わる。固体→水(融解)、水→気体(蒸発)ではそれぞれ大きな熱を取り込み(そうさせたい時は熱してやらねばならないということ)、逆に固体←水(凝固)、水←気体(凝縮) では熱を放散する(そうさせたい時は冷やしてやればよい。気体なら急に圧縮して熱くなったところを冷やすとこの変化を効率的に起こせる)。

上記の性質を利用してドイツ人カール・リンデが1875年に冷凍装置を考案した。理詰めでものを考え抜くドイツ人ならではのいい仕事だった。日本では明治9年。この年に廃刀令が出ているが、神風連の乱なんかがあってまだ近代いまだしの頃。

アンモニアやフロンなど常温近くで液体⇔気体の変化をするガス(冷媒という。霊媒ではない)をピストンなどで強く圧縮して(高圧ガスとはこのことだ。一日に氷百トンを作れる冷凍装置は高圧のガスを常時溜めるタンクも5千リットル以上の巨大なものになる。)、高温になったところを冷してやると液体になる(凝縮)。これを小さな穴から噴き出すようにして膨張させてやるとまた気体(蒸発)に戻り、その時に凄く冷たくなる(周囲から熱を奪うことになる)。この時の冷気を利用するのが冷凍機の原理だ。冷気を充分利用して常温に近くなった気体をまた圧縮機へ循環させる。この繰り返しをクーラーも冷蔵庫も日々遂行しているということだ。

 

つまり、熱を「凝縮」と「蒸発」の間で交互に移動させている(ヒートポンプ)ことになり、エアコンでは夏は熱を外へ捨て、冬は熱を室内で利用し、冷気を外へ捨てている。

特記すべき(でもないか)なのは、エアコンではガスを熱くする一助になるポンプ仕事が暖房効果になっているために、冷房の時(ポンプは必要悪)よりも効率的、つまり得になっている。とはいえ、私的な感想としては、エアコンの暖房は石油ストーブなどに比べてどうも弱い気がしてならないのだが、ある識者はエアコンが天井近くについている(熱は下へ降りない)ことがその理由だと。エアコンも床置きにする時代が来るかもしれない。


私が子供の頃、大きな製氷屋で冷凍機(アンモニア冷媒方式だったはずだ)が動いていたのを記憶しているが、いかついモーターやらプーリーなどがごんごん回って(圧縮機だろうか)大きな音をたてていた。魚屋の冷蔵庫など氷を天辺の部屋に入れるただの木の箱だった(金庫のようにどっしりしていたが)。クーラーなど町中走り回っても見つからなかったと思う。

今のように家庭に冷蔵庫が普及し、クーラーも各部屋一台の時代になったのは、冷凍機が安全に、小型になり、従って安価に作れるようになった結果だろうが、その要素はフロン(フロロカーボン)冷媒の出現、それと密閉式圧縮機の発明が大きいのではないだろうか。

アンモニアは,何よりも毒性があり、可燃性でもある。取り扱いが難しいし、装置として小型にできない(銅を腐食するので、下記する密閉型圧縮機が使えない)。その点フロンは毒性がなく重いガスなので小型で強力な冷凍機が出来る。近年はオゾン層に穴を開けるとか温暖化の影響などが指摘されて使用を限定されているが、各種改良品が沢山出ており、まだまだフロンの時代は続くだろう。

密閉型圧縮機とは、冷凍機の心臓部の画期的な改良工夫のことで、冷媒ガスのタンク(これも高圧ガスタンク。冷蔵庫などにも必ずある。)の中にポンプもモーターも入れてしまう方式だ。ポンプ軸からの気体の漏れを無視できる様になったこと、モーターの過熱も冷媒に浸すことで簡単に解決した。つまりユニット化で小型化し、安価な大量生産が可能になったということだ。

 

冷凍は奥が深い。中でも熱力学、比エンタルピー(単位重量の冷媒が得たエネルギーだと)と圧力の

関係を説いたモリエル線図(圧縮凝縮膨張蒸発サイクル図、下図示↓)の難解さはひとことでは説明で

きない。(図は R-407C というフロンの一種を冷凍サイクルに利用した場合)

三冷の試験は法令20問、保安管理15問(それぞれ5択〜4択)結果は来年一月の合格発表までなんともいえないが、一応の勝利宣言をしておきたい。中でも保安管理(原理、技術関係)は見るところ98パーセントの正答率であり、そんな自信がこの一文の裏打ちになっていることは否定できないだろう。

お粗末。




(207) キングダム


映画を見た。巷に評判の良いハリウッド映画「キングダム」。監督ピーター・バーグ、ユニヴァーサル・スタジオ。

‘96に実際に起こったテロ事件が元になっているらしい。ハリウッドは、つまり米国は現職の大統領の露骨な批判でも題材に出来る比較的自由な場所だという印象は間違いではないのだろう。この映画も私たちが知らなかった米国とそれを取り巻く国際社会の恥部のひとつを白日の下にさらけ出したという点では貴重な硬派映画になっている。でも、観て思った。やっぱり基本的にドンパチやカーアクションをスペクタクルにして見せる商業映画なのだ(その観点からもなかなか良く出来た作品だけれど、自業自得と言うかそれだけに金もかかる)。7000万ドルも投資すれば、どうしても商業的な成功を気にしなければならない。だから限界も、当然ある。社会派映画として、国家への突込みをより深くするとどうしてもエンターティンメントから離れていかざるを得ないし、という言い訳を考えてみたことだった。


私がこれを見たいと思ったのは、現在世界で最大の問題のひとつになっているアラブ=イスラム社会を震源にしたいわゆる反米イスラム過激派テロの横行、特に国家的に破滅の一歩手前の惨状を呈しているイラク、アフガンの現状を理解するひとつのヒントになりそうな気がしたからだ。
武器弾薬は消耗品であり、生活品などに比べれば非常に高価なものだ。世界最大の金持ち国家アメリカが戦いに倦んでやめたいと言っている(少なくも国民の半数が)のは生命の浪費を惜しむ(開戦以来2000を越える戦死者が出ている)こともあるけれど、武器弾薬の浪費で金が足りなくなっていることも大きな理由だろう。テロの当事者は、もちろん戦術の違いもあるけれど、どうしてその世界最大の国家と拮抗するだけの力を、言い換えれば膨大な武器購入資金を得ているのだろう。私の最大の疑問はずっとそこにあった。


なぜテロルの当事者たる彼らがいつまでも戦い続けられるのかということ。そのひとつがこの「キングダム(王国)=サウド王家の国・サウジアラビア」、石油成金のこの国が闇の胴元になって彼らにどんどん資金提供をしているからだ、という。ははあ、これで判った。確かに、9/11事件で犯人とされるものの多くがこの国の人間だった。

隣国から無制限に資金が流れてきたら(もちろん金だけではない、その資金で武器を供給するルートも問題だが)、これはテロがなくなるはずがない。ドンパチをやりたい命知らずの馬鹿どもはそこにはそれこそ無制限にいるはずだから、武器弾薬が供給される限り戦争がなくならないのは道理だ。しかもそのとんでもない事実を米国自身先刻承知だと。つまり、サウド王家とアメリカはお互いの私的利益でつながった狎れあい関係なのだ。


この映画はそんな「驚くべき事実」をイントロで一挙に流して鑑賞者のドキモを抜き、それをまくらにして(どんな展開になるか!?と期待させるが、)結局泰山鳴動、ねずみ一匹とは言わないが、ドラマの初めに丁寧に描写され提示されるテロ事件(これも迫力があった)の首謀者だったテロリストを探し出して殺す過程を見せるだけでひとつの結構なアクションドラマをつむぎ完結させてしまった。

最後に思わせぶりの科白を敵味方同時に言わせて余韻を持たせているけれど、平凡なつけたし<かくて悲劇は終わらず無間地獄は続く>という。彼らの本音と溜息は聞こえてくるものの。


確かにジェイミー・フォックスはじめ4人のFBI職員たちはよくやった。
周囲敵ばかり得体の知れぬ現地警察群の箱庭の中、極度に制限された(体のいい半拘禁状態の)活動範囲の内で奇跡のように様々な証拠を取り出し、的確過ぎる推論で真の敵をおびき出し、危機をしのぎ、結局4人まるごと無傷のまま(王国の大物が、彼らを護り無事に送り出せ、と命令したのだから、当然の結果だと言えなくもないのだが、これをよく考えれば非常に恐ろしい気分になる。国内のテロ分子どもも王族が把握しているとは考えられないが?)敵の只中(リャドの街中にもこんなテロルの支配地域があるというが)で当のテロルの首謀者である親玉を捕らえ、殺す。

それはそれで成果であったろう。皆が溜飲をさげ、なせばなる、ということになった。アラブの警察にもまた良心はあるのだとも。

 

しかし、映画は単に直接犯を見つけて殺したということしか描かれない。百人のアメリカ人を一挙に殺害したテロルが、どんな動機でなされたのか、彼らの憎悪はどうしてそんなにも激しく猛悪で執拗なのか。その真の人間像は?すべてがクエスチョンのままで終わる。

もちろん初めてハリウッドの映画にあらわれたというサウジの王族のスーパーな姿とその傲慢なふるまいがそのひとつの答えなのだといいたいのかもしれないけれど、それもまったく答えにはなっていないぞといえなくもないわけで。


思うに、この映画自身も彼ら4人のFBI職員たちのように体制に縛られ、がんじがらめにされてもがいている、ということなんだろうか。ある程度のことは言った、いやヒントは出した。あとは君たちでよろしく考えてくれ。それも深読みに属することかもしれないのだけれど。




206)世界最速のインディアン

 

人間の理知的精神的な純粋活動は大別して2種類あって、それぞれ芸術的な面で優れた者と科学的技術的な卓越者とがいる。芸術の活動は人間の感情的、感覚的なものが強く入っていて、殆どが個人的な、孤立したものであり、多くのひとに共感をもって迎えられることもあるけれど、その絶対的な評価(必要か?という議論は可能だが)は難しい。反面、科学技術はことに実用的な部分では実績評価が厳密に出来、その到達度やら優劣は誰にも分かりやすいといえる。近年それらは数学や物理学など近代において原理的に確立した分野に支援され、利益を求める巨大な資本に取り込まれて非常な発達を遂げた。資金の力にものいわせ、個人の力量を束ねて暴走的に肥大してきた。理論的にも、技術的にも高度になり、必要な工作機械や測定機械も精緻を極めてやたら高価なものになっている。だから科学技術活動は初期の自動車開発に熱意を傾けたダイムラーベンツ、飛行機を発明したライト兄弟などに見られた個人の趣味の範囲から現代では遠く離れてしまい、個人活動家(発明家)の手には負えなくなってきている。

 

しかし、例外もあるらしい。

 

ニュージーランドの片田舎にいてスピードの女神に生涯をささげたバイク野郎、バート・マンローが貧困の中で達成した世界最速バイクの偉業をどう考えればいいのだろう。

 

つまり自動車やオートバイの最先端におけるスピード記録への挑戦は、最近に至るまで個人的な趣味に属するいわばボランタリーな活動によって実績が積み上げられてきたらしいのだ。

 

これは一見奇妙なことだけれど、F1レースやマン島TTレースなど世界的に人気のあるスピード競争と違い、商業的に割が合わないと見た資本はこれらには余り関心を払わなかったというのが実際らしい。いや、今をときめくF1レースなどですら、現在では大メーカーが大変な人材とコストを投入してこれらに参入するメリットはコマーシャル効果以外には余りないらしい。結局一般人が乗る実用的な乗り物(に必要な性能)が概ね最高150Km/h内外なのに対して、先端のレーシングマシンの性能(つまり彼らが到達可能な技術性能)が余りにかけ離れてしまっており、何よりも草分けの頃には重要だったそれらのレースから得られるデータがもう彼らには不要になったということだ。試行錯誤を繰り返すことをおおむね代行してくれるコンピュータの発明もそれに輪をかけたこともあるだろう。F1レースにしてそうだから、まして実験的な特殊車両群による「世界最速四輪自動車のスピードトライアル」や「世界最速883ccクラスオートバイのスピード記録」などに彼等企業人たちが興味を見出すことはなかったはずだ。

(最速の)航空機開発については国家としての軍事的な必要から先端的な開発は潤沢な資金が投入されて続いている気配はあるけれど、こと陸上の乗り物に関しては、そういった記録への挑戦はごく一部の在野の篤志家や変わり者の技術者達の趣味の範囲でなされてきたのだろう。

そういった真空状態の中でバート・マンローが活躍する場が開けたということだ。もちろん、だからといって彼の偉業がいささかも色あせることはないと思う。いや、むしろ現代の最高技術に一人、何の利益も求めずに、厳格な記録だけがものをいう過酷な戦いに徒手空拳で敢然と立ち向かい、見事勝利した真の科学者、純粋な技術者だった。そういった様々な面で不可能に近い戦いが世間にも可能なのだということを証明した現代の御伽噺のヒーローだったとはいえないか。

言わずもがなのことを長々と書いてしまった。

 

表題の映画「世界最速のインディアン」R・ドナルドソン監督 日本では2007/2に公開 をDVDで見た。あらすじは以下の通り。監督は脚色無しで撮ったといっているそうだから殆ど実話らしい。

ニュージーランドの片田舎(1960年ごろ)に一人住むちょっと変わり者の老人バート(・マンロー)は大のバイク好き。自身が乗って若者とスピード競争をするのも好きだけれど、自分の1920年製の古いオートバイ(インディアン・スカウト アメリカ製)を改造してより早い速度で走ろうという“趣味”を持ち、そのために一日の大半を費やすという技術者の面もあった。

その改造の内容が凄い。それは新車でスカウトを買った40年前からずっと継続し、フレーム以外は殆ど手を入れた。改造の中心はやはりエンジン本体で、自分でピストンを鋳造し、コンロッドやシリンダーヘッド、シリンダーライナー(しばしば鋳鉄製の雨樋を切って利用している)、カムなども自作し、潤滑用の細孔をうがち、熱処理をした。オリジナルのサイドバルブからオーバーヘッドツインバルブへと改造もしている!図面も書かずに。その結果、最高速度は購入時の88Km/hから300Km/hを窺えるまでになった!!

 

彼の悩みはそのオートバイが余りに速くなりすぎて、彼の国内で全力で走らせる場所がなくなってしまったことだった(井伏鱒二の代表作「山椒魚」をちょっと思い出したが、NZの人にぶっとばされるだろうな)。

 

それを解決するには、アメリカにあって陸上乗り物のスピード記録を競う、大層広く長いコース(ボンヌビル塩平原 ユタ州)へ自分のバイクを持ち込んで思うさま走らせるしかなかった。年金生活者で貧しかったバートは思い立つと日々の生活費を切り詰め、金を溜め、銀行員のガールフレンドの機智にも助けられて、いよいよバイクを荷造りして送り、自分も貨物船に便乗してアメリカへ向かう。

家庭崩壊をして離婚を経験し、社会人としては少々いびつ人間ではあったけれど、彼自身はしごく人好きのする、女性に好感をもたれる社交性に富んだ人物だったらしい。本国では既に有名人で、そのためもあってアメリカでの様々な危機、困難な大冒険をこなし(このあたりのスペクタクルが映画の主題になっていたようだ)、晴れの舞台では大成功を収める。もちろん彼の気性とアメリカ人の陽気な、先取り精神を敬う性格がうまくマッチしたということもあるだろう。

1967に出した1000CCクラスでの彼の記録は未だに破られていない。

その時、先端技術者というより前人未踏の冒険に挑んだ危険なテストドライバーだった彼は68歳。

名優アンソニー・ホプキンスを得た映画は至極楽しく、感動的で気持ちの良いものだった。


60歳を過ぎてから彼が一生を通じて夢見、努力を継続してきたことの総決算のような志(それは誰が見ても至極困難で、大層危険でもあったが)の実現へと踏み出し、やってのけたバートの偉大さはいくら賛美してもしすぎることはないだろう。この映画は団塊世代の退職時代へのアプローチにと映画制作へ出資を決めた日本人実業家が居たことで実現したとあったけれど、日本人もなかなか捨てたものではないようだ。

いや、映画だけではなかなか信じられなかった(ことにエンジンの改造の詳細)私は本文の初めに挿入したランダムハウス講談社刊の「バート・マンロー」ジョージ・ベッグ 岡山徹 他2人訳 を購入して読んだのだけれど、ますますこの男に参ってしまった。彼は真の意味で現代のヒーローだった。

バイク野郎の東西横綱とはこの男と本田宗一郎ではないだろうか。

 



205)出雲路

義父の7回忌で妻の里へ帰ってきた。ついでに帰途山陰の幾つかの場所に寄った。
車の旅は危険が伴い、肩が凝るけれど、こんな時はやはり便利である。
九州道から中国道広島の先の千代田JCから浜田道(初乗り)へ乗り換えて終点の江津へ、結構早く(PM
2時頃)降りれたので石見銀山を見た。思っていたほど山奥ではなく、域内を回る巡回バスにも乗り、ひととおりの見物が出来た。

いわずと知れた世界遺産。指定されて(‘0.6.28!)から日が経っていないのであちこち工事中の看板が目に付き激増する観光客をしっかり受け入れる体勢がまだ整っていないような印象を受けたが無理もないだろう。この指定の意味はやはり世界史に残る銀鉱山(世界の銀の1/3を供給した時代もあったらしい)が動態保存的に村ごとそっくり残っているという貴重さだろうか。200年以上の長きにわたって掘られ、先の大戦の終了間際(1943)まで活動していたという龍源寺間歩(坑道)を見た(まだ公開されていない間歩が近隣に百を超えるというが)。14世紀から盛大に掘られていた鉱山だけれど、考えていたよりも最近まで生きていたのだ。しかしそれからも60年以上経っている。地元の産業は廃されても、さほど辺鄙な場所ではないし、盛時の町民十万(慶長〜寛永)と言われた面影はないけれど、住民の一部はなんとか暮らしのたつきを得てそこに残り、幸か不幸かずっと旧態のままコミュニティを維持して存続してきた。そんなことも指定の理由としては大きかったのだろう。増え続ける訪問者たちに負けず受け入れ側はそのあたりの景観を保持し続けて欲しいものだ。

それにしても、石見銀山は旧来の鉱山という暗い印象がない。鉱山に鉱害はつきものだし、小説「銭形平次捕り物控え」にも<「石見銀山」=毒物(猫いらず)>の代名詞として使われているという(阿刀田高氏による)。鉱山の副産物として砒素を産したらしいのだけれど、先進の化学者たる彼らは立派に毒をコントロールしていたのだろう。そういえば、間歩の近く、なおローカルな印象の濃い民家のそばで十匹余りのシロクロぶちの猫と、その友人らしい子犬を見た。彼らが砒素ならぬ発展する地元、観光客たちの犠牲にならないように祈るばかりだ。

 

その日は温泉津(ゆのつ)の宿<輝雲荘>に泊まった。山であり海でもある入り組んだ険阻な海岸線を縫って走るJR山陰本線の典型的なローカル駅を持ったこの由緒ある温泉は高度成長と旅行ブームに乗り切れず、20余りあったという旅館数がジリ貧で最近は半分にまで落ち込んだあげくの世界遺産指定ニュース。連休などには大挙して訪れる客をこなすために大広間を間仕切って個人客を受け入れることもあると聞いた。幸い私たちはまともな部屋がゲットできた。ともかく忙しい毎日のようだけれど、サーヴィスは落ちていないと見た。この旅館は地域で唯一の露天風呂のある高級(さほど高くはなかった)旅館という触れ込みに惹かれて選んだのだけれど、和風の趣がある一方、余り期待していなかった風呂だってなかなかのものであった。忙しいとはいうけれど、なお鄙びた旅館街と風呂からのしっとりした風景(ちょっと歩けば漁船の並んだ入り江が見れるのだけれど、旅館からは山と家並みだけ)も安らげるものだった。町には日帰り立ち寄りの温泉も幾つか出来ている。

次の日は日本海を左に見て9号線を走り、出雲大社




に寄った。結婚前に友人と訪れただけで、それからも30数年を経過している。久しぶり、神有り月の訪問は好天にも恵まれてゆったりしたものになった。私がここで確かめて見たかった巨大注連縄(しめなわ)の実物をカメラに収め、いつぞやメール友達と論争したテーマに終止符を打とうとしたのだ。わが地元の宮地獄神社の日本一注連縄
との対決はようやく決着がついた(ように思えた)。しかし…。

これは後日談、とはいっても一週間後(10/16)のことだ。全国紙(朝日―火曜トラベル)に件の出雲大社の注連縄
が出た!一瞬目を疑った!!
私が写真に撮ったものよりひと回り巨大化して、結局宮地獄神社と張り合う大きさになっていた(多分同等 涙;;;;)。どうしてこんなことが起こるのか!?情けない。

後、後日談。サイトなどで注意深く調べると、私が撮った注連縄は拝殿のもので、上掲の大社呼び物の巨大注連縄は、拝殿の左にあった「神楽殿」のものだったらしいことが判明した。

徒然草にいわく“先達はあらまほしきことなり(事情に明るくない観光地を歩く時は、案内人が必要だ)”。

上掲出雲大社「神楽殿?」注連縄の映像は「えへ!」こばえみちゃんのブログから拝借、



204)学校V(訓練校のこと)

邦画「学校V」を観た。山田洋次監督 ‘98.10月封切り作品である。9年前の映画を何でいまさら、ということだけれど、これにはわけがある。私は今職業訓練校に通っていて、ちょうど3ヶ月を越えた。一期先輩の4月生が9月の末に卒業していったのだ
(今私が受けている6ヶ月制の課程は3ヶ月ごとに募集を行っていて、私たちの場合、4月(に入校した訓練)生と7月生(私たちだ)が半分づつでひとつの教室を構成することになっていて、7〜9月の間それぞれが前、後半のカリキュラムをだぶらせて一緒に受講した。4月生が4〜6月で学んでいた部分を私たちは10〜12月にかけて10月から加わる後輩たちと一緒に受講するわけだ。これはなかなかよく出来たシステムなのだけれど、映画の学校(都内だろう)では採用していなかったようだ。)
が、その一人が「学校V」を観たことをここへ入校する動機のひとつに挙げておられた。それでちょっと興味を覚えてヴィデオを借りてきたわけだ。

山田洋次監督の「学校シリーズ」は都合4作が世に出ているらしいけれど、私は最初の夜間中学のドラマ(学校T)を見ただけで、この映画に私はまったく先入観がなかったといっていい。先述したようにただ「職業訓練校」が舞台になっているということだけが予備知識だったのだけれど、映画が始まり、田中邦衛、吉岡秀隆とかいった(どちらかと言えば今回は端役だった)山田学校の常連が出てくると何とはなしに涙腺が緩むような感じになってきたのはどういうわけだろう。それら一定のキャラクターたちが(たいした役柄ではないのだけれど、出てくると言うだけで)自然にかもし出す特殊な雰囲気といったものがこの監督の作品におけるひとつの財産のようなものになっているのだろうか。もちろん監督がそれを意図して彼らを使い続けているのかどうかは分からないけれど、少なくとも山田流ヒューマニズムの流れにある「学校シリーズ」ではそれらがうまくいっていると思う。
この舞台になった「職業訓練校」は、世の新卒者やまだ社会を知らない若年層が更に専門技術を得るために学費を出して入るようないわゆる「専門学校」ではない。ご存知だろうが、一旦社会に出た人が不幸にして失職し失業保険を受けている間だけ入学資格がある、公費(失業保険)を使った「再就職促進用即席技能(資格取得)訓練学校」なのだ。入学費用やら学費は無料、逆に手当てや通学費用などを出してくれる。生徒は高齢者が多く、社会の荒波に揉まれ打たれて心身傷ついたひとたちが多い。いや、そういったひとたちばかりだといっていいかもしれない(私だってこじつければそうなのだし)。そういった意味でこれは第一作の夜間中学の雰囲気に似た学窓だといえる。

このような場がドラマの舞台になったことは初めてだそうである。ただ生徒たちのやる気は生活がかかっていることで夜間中学以上であり、社会に揉まれていることで自制心が強く、独立心が強いからこの映画でも教師(寺田農、さだまさしなど)はさほどの比重を与えられては居ない。あくまで生徒たち主体のドラマなのだ。

ドラマはそういった民間会社の中堅、中年から50を過ぎて突然リストラされたり、近くに出来たスーパー・マーケットに負けて自分の親から受け継いだ店を畳んだ元小売商店主など、いわば社会で一時的に敗者になって生活に疲れたひとたちがひとつの教室「ビル管理科」に集い学ぶ。
彼らの中にあって同じように失業して新たな就職口を模索している紅一点の、零細企業のリストラにより失業してしまった小島紗和子(大竹しのぶ)。大手証券会社の部長であったが50代のリストラにより失職した高野(小林稔侍)は自身もやり手の妻(秋野暢子)と別居中などストレスの高い孤独な男。自分の力を過信して会社を飛び出した高野はライバル会社への再就職に執念を燃やすが失敗、そのプライド意識から仲間とうまくいかず、トラブルを起こす。それをカバーしてやった紗和子と高野は彼女が教室に忘れたテキストを仲立ちに急速に心を通わせるようになる。

紗和子は夫を過労死で亡くしており、トミーと呼ばれる自閉症で日常の挙動に多少の問題がある息子に自立を促すべく新聞配達をさせ、度々の失敗に尻拭いし、周囲の無理解に傷つきながらも気丈に生きている。そんな彼女にこれでもか、これでもかと重なってくる不幸に、しかし山田監督はまた暖かいいくつもの人間関係を重ね合わせて支援応援を惜しまない。小林との愛情関係もそうだけれど、アパート隣室の同じような境遇の母子(余貴美子、吉岡)とのさりげないけど強い助け合い、再婚の相手を世話したいと言う伯母(中村メイ子)そして訓練校での同窓の中高年男性たちとの友情。最後近く乳がんに冒された紗和子が手術室へ消える幕切れはやりきれない暗さだけれど、その暗さを払拭する彼らの愛情の総合力が救いになっている。どうですか、こんなものがまだ貴方方にありますか、あれば、どんな不幸も救われるんですよ、とドラマは語りかけているように見える。後味はしごく良かった。

 以下は映画とは関係ないことだ。

これは偶然だろうけれど「ビル管理科」は、私が今学んでいる科と同じなのだ。

私のいく訓練校同様、ドラマのモデルになった都会(多分東京近郊)のこの訓練校には他にも金属加工やOA学科や、住宅リフォーム科など様々な部門があるはずだ。それらの中で特にこの「ビル管理科」が選ばれたのは、(かの地の)訓練校ではこの科が代表的で、再就職するには、最も有利なのだということだったのだろう。それは納得がいく。都会は大きなビルが沢山ある地域なのだ。事実ドラマではビル管理に必要な技能と資格、特にボイラー取り扱い技能職の検定試験のための勉強に全員が情熱的に打ち込み、皆合格し、そして(その結果として)ヒロインである大竹しのぶはじめ皆すんなりと再就職を果たす。

このドラマのそういった筋書きや描写が事実と異なっているという積もりはない。都会ではその通りなのだろう(これは今から9年前の映画であり、当時の現実を写した物語と言う設定のはずだ。とすれば、その通りだった、というべきかもしれない)。しかし私が今通っている「ビル管理科」とそれを取り巻く環境は少なからずこれとは異なっている。まず私たちの地域にはビル管理を必要とする大きいビルディングの数がまことに少ない。そのために科の修了者がその技能知識を生かしてビル管理業務に就く事例が殆どない。

もうひとつ異なっていることは、このドラマで彼らが教室で教官から懸命に学び、取得しようとしていたボイラー管理に関する教科が私たちの科にはないということだ。その代わりにメインとなっているのは冷凍機(これも熱力学、圧力容器に関する知識が必要だ)の取り扱い技能で、これは三冷(冷凍機三種)という技能検定資格の取得に向かって今私たちが懸命に勉強している事実と酷似している(もっとも、受験希望者は全員ではない。ほぼ半数といったところ)。

しかし、これを取得したところで、すぐこれに関係した就職口がわれわれに用意されているというわけでもまったくない。
わたしたちの「ビル管理科」のカリキュラムは、冷凍機に関する教科の他には屋内電気配線工事技能、冷凍機の配管や衛生水道下水管等の配管加工技能、冷凍機にも関係する電気制御(シーケンス回路)技術、水質検査等を含むビル環境管理清掃技能(それぞれ公的資格があり、幾つかは取得促進のために便宜を計っている)などが主なものになっている。そのほかにも4つばかり資格取得に関する講義があるなど、実に多岐にわたっている。

ビル管理だけではない、世にある非常に広範囲の職種に対応して役に立つことは間違いないところだ。

しかし、これらを取得したところで、すぐこれらに関係した就職口がわれわれに用意されているというわけでもまったくないのが辛いところだ。

現実として、さきほどここを巣立っていった我々の先輩方がここで取得した技能を求職活動に生かし、結果それが就職のきっかけになったと考えられるかたは殆どおられなかった。第一、卒業されたかたのうち、その時点で就職口が決まっていたのはその1/3もなかった。

これがこの地域、時期に関して現れた特殊な状況なのかどうかは私には分からない。
しかし、実際にも我々が教わっている教官の方は、そういった傾向に危機感を持っておられるようだ。当然である。この独立法人である職業訓練所(正式には「能力開発センター」)は失業者のために、全国の働く人々から天引きされた失業保険を原資として運営されている。われわれ入所者が再就職するのを支援しているのだから、ここに入所して技能を磨いたにもかかわらず、再就職の力になっていなければこの存立が問われることになりかねまい。

これは風説として私が聞いたことだけれど、それが事実であるのかは保障しない。つまり、昨今の民間の職場は、新卒者を以前よりもかなり絞って正社員として雇用するほか、必要に応じて途中で雇用する人たちについては即戦力になる実務経験のあるひとたちのみを、大抵臨時社員として人材会社から按配するという。
実務経験があることは、公的資格を持っている人間とは必ずしも重ならないし、私たちの「職業訓練校卒業」の肩書きや数日間の実習だけでは必ずしも再就職に有利にはならないということだろう。

吸収力の特別高い能力をもった少数のひとを別にして、多くの非技術的職場を経由してこられた生徒の方がたには、これらの極めて総花的なカリキュラム(の幾つかでも)の内容をたかだか六ヶ月の短期間に自分のものとして社会に役立てられるほどの技能を獲得して卒業できるかどうかは疑問だと思う。生徒を更に細分して専門化するなどの手立てが必要かもしれない。

 

前記風説のようなやり方が日本の企業で必要とする人的パワーを常にフレキシブルに運用できると言う意味で一般的になってきているだろうことは理解できる。雇用者の流動性が高まって効率的なドライな社会になったということだろう。しかしそれが社会の活性化ということだろうか。少なくも正しい意味での実力主義とは異なったものであることはあきらかだ。長い目で見た場合の各企業に、そして日本社会全体に良いことかどうかは甚だ疑問である。少なくとも人間主体の社会とは異なったものになってきていると思う。

日本の企業が元気を保つことはいいことだろう。しかしその陰に多くの個人、社会人が低賃金で使い捨てにされることは良いことではまったくない。小数の高所得者がそういった人為的なシステムに乗って勝ち組になり、下層社会の、多くの無産階級のひとびとを踏み台にして資産を蓄積し、贅沢をすることは許されることではない。そういった多層社会が安定な国家を保たれるかどうか、過去の歴史を考えなくとも明らかだ。

 






(203)瞽女さ、きてくんない

劇団文化座公演(直方市民劇場9/24日)脚本堀江安夫 演出佐々木雄二 を観た。

瞽女という存在については何の予備知識もなかったので衝撃だった。
以下にわか勉強でサマリーにまとめる。
瞽女というのは江戸時代から昭和のはじめ頃まで一部の地方に存続し続けた盲目の女たちの演芸集団である。数人から数十人が一人の親方を中心にひとまとまりになって一家をなし、更にその地域で幾つかの一家がまとまってひとつの閉鎖社会をつくり厳しい規律の中修練を経て、年に数回一定の季節に根拠地を出て数人の単位で旅に出る。ある程度定められた道程の村々に点在する瞽女宿といわれる民家に招かれ、いわゆる瞽女唄を詠ったり三味線を弾いたりして一夜の娯楽を提供し、いくばくかの対価を得て根城へ戻る。それらの旅程はまとめればおおかた年の大半に及んだから、彼女たちはいわば旅の芸人だったといえる。そんな瞽女たちが昔の日本には各地に存在したという。比較的近年まで実在して有名になったのは新潟地方のいわゆる越後高田瞽女と言われる集団で、近年、時代の変遷によってそれらが消えてゆこうとするのを惜しむ一部のひとたちによって絵画になったり文学になったりした。そのひとつの産物が私の観た演劇なのだ。
劇はその高田瞽女の集団のひとつふき(佐々木愛)を親方にまとまった森脇家のひとびとが大正8年から代が変わって若い牡丹(安部敦子)の親方が仕切る昭和38年までの間の幾つかの挿話と、やがて彼女たちの代が時代の流れに耐えられず消えようとするまでを描く。

第一場、天井一杯に下がる沢山の願掛け札(目が描かれてあるのは、瞽女たちの空しくも呪わしい心情を表わしても居るのだろうか)のおどろしい雰囲気。そんな中で高田瞽女たちの社会の年一度の祭り「妙音講」がはじまっている。


瞽女の社会は厳しい芸の修業とともに厳しい掟がある。狭い社会であればそういったきまりが変に厳しいことは想像できるし、盲人としての瞽女の生き方そのものが普通人には想像も出来ないくらい困難なものだから、その内部の生き方が厳しくなければとても社会として立ち行かないだろうこともあるだろう。その最たるものが異性との交わりの禁止である、というのも妙な話だけれど、一度男と交わったことが知られると、その瞽女は彼女らの社会から放逐されて一人で生きなければならなくなった。これはチームプレィとしての瞽女仲間の協調を重んじたことのほかにも、女であることを芸の表面には出さず、あくまで芸そのもので勝負するときめた瞽女の誇りがそれを強いたのだろう。それだけに一流の瞽女の芸は洗練された見事なもので口伝される唄を700ほども覚えレパートリーにしたものだった。芸がよければ若くても一家の親方として認められた、実力の世界でもあったのだ。一方、悲惨な運命が待っているだろうことが明らかでも、掟を破った瞽女がひとり社会から外されて孤独な「はなれ瞽女」となるのは当然という厳しい社会だった。


そんな社会で、男に好かれる姿であるばかりにあやまちを犯し、放逐される瞽女たち、またそんな掟に疑問を持ち、異議を唱える女たちもいる中で、牡丹自身も幼馴染に求婚されて信念が揺れる。

ふきが旅に死んで、若くして親方になった牡丹は母とも慕った厳しいふきに男が居て、忌明けに娘が現れるのを見て、親方の人間的な苦悩を今更のように知る。新たに加わった弟子の育成にも親身になって生きがいを見出すが、時代は瞽女には合わなくなっていく。

 

瞽女という極めて特殊な女たちの世界で思索される普遍の人間性の追及のドラマであり、また変わりゆく日本社会での彼女たちの生き方を通じて社会のありかたにも批判の目が光る。もちろん多くの瞽女唄が劇中で本格的に三味線の弾き語りで詠われるのもまことに楽しい。随分出演者はご苦労されたことと思うが、それらは、それらの演芸の動態保存紹介と言う意図もあるのだろうと思う。背景のスクリーンの効果的な使い方などいくつもの美しい場面があり、すぐれた舞台美術もあいまって感銘深い一夜の観劇だった。

閑話休題

「瞽女」を有名にしたのは水上勉の小説「はなれ瞽女おりん」かもしれない。「私の生まれた地(若狭本郷)にも瞽女はやってきた」とその中で考証や描写を含めて氏は書いている。それは本当かもしれないし、あるいは氏一流のフィクションなのかもしれない。どちらでもいいのだけれど、それを氏は自分の作品のみごとなまくらにしたことは確かだろう。そのために創ったのだと思えるほどの優れた導入部になっている。
瞽女について、氏が深い思い入れを持ち、調査を重ねられたことは確かだろう。この一文を書くために読んだこの小説からも、私は沢山の瞽女についての知識を得ることが出来た。

でも、「はなれ瞽女(あるいははぐれ瞽女、落とし瞽女とも)」は殆ど瞽女ではないだろう。小説の題材としては魅力的ではあるけれど、少なくも瞽女そのものを描こうと思えばやはり首記の作品のように瞽女集団を描かなければならないと思う。

 

氏のこの美しい悲恋の文芸作品は、あるいは脱走兵に盲目の美女が絡んだ犯罪社会小説として読むことも可能だろう。瞽女について、この小説が世間にわずかではあるけれど誤解を作ってしまわなかったかと危惧するのである。




202)喝采



浅草物語に続く芝居の醍醐味のようなものを味わった。

地人会の市民劇場例会直方公演。作クリフォード・オデッツ、訳・演出 木村光一。舞台はニューヨークの劇場。演出家のバーニー(若松泰弘)は3週間後に迫った芝居の主役に逃げられてしまい、その代役にかっての大スター、フランク・エルジン(篠田三郎)を立てることをプロデューサーのフィル(大林丈史)と劇作家のポール(仲恭司)に計る。気鋭の若い演出家は十年以上前に見たフランクの名演技を記憶していて、彼の復活をこれでやりとげて見せたいと考えるが、最近の荒れた私生活を知るフィルは気乗りしない。フランク自身も、また彼に愛想をつかし、離別を考えていた妻ジョージー(倉野章子)も夫の失敗を恐れて一度はしり込みするが、結局バーニーの熱意に押されてボストンでの先行公演の契約を結ぶことになる。
一旦決まったからには何が何でも成功させねばと意気込み、フランクの尻を押し、バーニーには夫のマネージャーとしていくつもの要求を出すジョージー。フランクの虚言癖を知らず真に受けたバーニーは尊大な彼女を誤解して罵った上、夫からしばらく離れるようにと進言する。妻がいなければ何事も出来なかったフランクは傷ついた妻が去るのを見、自信を失い、深酒を復活させてボストンでの公演をしくじる一歩手前までいってしまう。
フランクを信じ切れなかったフィルは彼を降ろそうとして代役を呼ぶが、戻ってきたジョージーの言葉に、酔った名優の本当の姿をつき合わせて真実を知ったバーニーは、東奔西走して結局フランクを舞台へ戻すことに成功する。

ボストンでの夫の成功、そしてニューヨークでの凱旋公演での喝采をながめつつ、ジョージーは誤解を解いたあとのバーニーの激しい恋情を静かに拒んで一人、どこかへ去っていく。

舞台劇屋が舞台の内情を劇にするというのはよくある手だろうし、舞台劇は動きがさほど派手には出来ない制約から筋立てそのものをいわゆるドラマチックに、劇的にするというのもよくあることなのだろう。かっての名優の復活を期待して抜擢を計画する若い演出家、そして献身的な糟糠の妻とくると最後は大成功と名声の復活という感激のシーンが用意されているに決まっている。落ちぶれたアル中の元名優が何かをきっかけにしてまた酒に戻ってしまうという暗転も(あっ、これは、もう駄目なのだろうか!?と思わせるほどに思い切った落差ではあるけれど)途中には予想された筋立てといえる。ドラマとしては予想の範囲を出ない平凡な物語(3人の主役の心理状態の変転のめまぐるしさなど、決して凡庸な筋ではないのだけれど)なのだ。作者がこれを薄っぺらい作品と謙遜しているのはこのことを言っているのだろう。

にもかかわらずここに深い感激があるのは、やはりそこへ至る様々な演出の工夫(思い切った主役たちの運命の落差、ボストンとニューヨークを示すシンプルな舞台装置、など)とセリフの格調の高さ(劇場の暗さをいうジョージーのセリフなど。ちょっと「オペラ座の怪人」を思い出した。)、名優たち。名優とその賢くも愛情深い妻、そしてことを自分の信念のもとに絶対成功させて見せるという演出家の情熱、それらがおのおのの名優同士で情熱的に演じられるということから生じるのだろう。篠田のちょっと素顔は頼りないけれど憎めないゆえに苦労性の妻をひきつけるアドリブのうまい魅力的な男優、仕事一筋に一本気な若松バーニー、それゆえに感情的に行き違い対立したというのもすんなり理解できる複雑な性格の持ち主である理知的で愛情深い倉野ジョージーの熱演、彼らのハーモニーで実に後味すっきりの楽しい観劇になった。

これだから芝居(見物)はやめられないのだ。




201)井上成美



いわゆる文化勲章作家阿川弘之氏提督3部作の完結編(S61年新潮社より刊行。読んだのは新潮文庫H4年刊 H7年6刷)である。
いわゆる最後の提督(旧海軍の歴史で最後(S20年5月、ベルリン陥落の月)に大将に補せられた将官という意味だろう)井上成美は戦後も長く生き、昭和50年に86歳で没しているから私と重なる分もあるけれど、最近まで関心はなかった。作者も最初は気分としてその程度だったらしい。もちろん作者と井上は年代が重なるどころではなく、同じ旧海軍に籍を持ち、2年余の実戦を戦い、生死のはざまを生きた阿川氏は、偶然ながら江田島で士官学校長だった現役の井上とすれ違った経歴も持っている。

作者の3部作とは山本五十六(S15年11月大将昇進)、米内光政(S12年昇進)、それにこの井上成美の3人の伝記小説である。この3人の提督はそれぞれ前大戦へ向かって破滅的な行進をはじめていた旧日本軍部の中枢にあってその動き(殆ど陸軍の暴走というのに等しかったが)に抵抗を試みた海軍の中でも突出した勇気ある少数の人間であり、作者の意図はそれでほぼ明白なのだけれど、太平洋戦争でハワイ奇襲を企画し成功させた山本提督はこの3人の中では群を抜いて著名であり、おおやけの業績では総理大臣にもなり海軍大臣を4回歴任した米内が最大だったと考えられる。前2者にたいして井上はむしろ知名度も低く、地味な存在ではあるけれど、作者は3作のうちこの最後の作品に最大の時間、労力を費やしている。

作者がこの一連の作品を書くに至った動機はいちに作者の旧海軍への愛惜の念からだったろうことは疑えないけれど、この最後の労作はまたそれ以上のものが込められているようであり、他の作品とは少なからず異なっているように思える。山本、米内とそれぞれ作者のいう旧海軍の良心の象徴ともいうべき提督たちだったけれど、井上はそれだけではない、もっと作者の心に食い入った何かがあったような気がするのである。それは前作の「米内光政」(これも大作である)の導入部に井上についての少なくない著述があるところ、それにこの最後の部分にも井上の名前が幾分唐突に現れていることもこれを裏付けている。「米内光政」は次作「井上成美」を予告するための一篇だったのではないか。
 
井上提督は一般にいう「海軍大将」というイメージからくる人物像からは随分遠い、非常に複雑な、理解の難しい、しかも周囲の少なからぬひとたちにとって全人的人間的魅力に乏しいと感じられる人物であったようだ。
表向き軍人としての最高位へ昇り詰めた以外に華々しい世俗的な成功もなく、生涯のどこを見ても世間がうらやむような幸せを味わった様子が見られず、戦後は極貧に落ち、その引退後は悲惨ですらあった。当然のことではあったけれど、戦犯にならなかったことだけが戦中の仕事の報酬だった。

そのような人物の伝記を書くということは、一般的にはあまりしないだろう。本にしても売れないだろうし、第一、動機が沸かないというのが正直なところではないか。そういう意味から、当然ながら作者も最初のうちは書き続けるのに苦労もしたろうけれど、しかし、書き終わってみれば、結局彼が一番乗ったのも(3篇の中で)この作品ではなかっただろうかと私は思う。書くうちにも文学作品として、向かっていくべき対象としても甲斐のあるものだと思い始めた形跡がある。一人の極めて個性の強い人間として、その個性ゆえに、またその個性が出遭った不運のなす意味合いにおいて、その波乱に富んだ人生に(作者自身が)強い興味を持ち、それをひとつの作品にしようという意欲を持ったということだろうか。そして、その意図は井上の晴れの部分だけではない、幾分常識をはずれた彼の様々な行動とそれらがもたらす悲劇を細部にまで活写することによって却って見事に、今次戦争での顕官としての井上の立場、日米戦争の戦いを闘い抜いた一人の勇気ある硬骨漢の人間像(これが一篇の、地味ではあるが一応のクライマックスといえるだろうけれど)をくっきりと描き出すことで結実したといえる。

伝記といえばそうかもしれないけれど、やはりこれは小説なのだろう。一人のえもいわれぬ人間の典型を描いて、人間研究のひとつの典型ともいうべき小説に完成させたのだ。

井上成美の名前は戦後彼自身の思いに反してマスコミに乗り、有名になったので、あるいは今もその生涯の節目の事跡を記憶しておられるひともあるかもしれない。米内光政(今次大戦で日本の危機にあたり4度海軍大臣を歴任し、一度は総理大臣にもなった)の信を得、終始補佐して切れ者の軍官と恐れられ、評価も得た井上は、他面第4艦隊の司令官として南洋トラック群島を根拠地として2度の海戦を戦い、両方にさほど成果も挙げられず、江田島の海軍学校の校長へ退げられて厳しい戦中の2年間を過ごす。井上の不思議はそのいわば屈辱的な立場をむしろ悦び、教育者としてすぐれた思想を実践し、多くの生徒に深い印象を残したことだ。戦後も自宅を教育の場にして長く英語塾を続けもした。その方法は不自由な日常生活の中でなされた上に、ほとんどボランタリーというべきもので、旧海軍の大将としての体面を投げ捨てて非常な熱意を注いだという。

井上の真骨頂というべきエピソードは「一級大将、三級大将」に象徴される戦後の海軍批判だろう。海軍大将になった人物で、本当に海軍大将たるの資質を備えた人物は、山本(権兵衛)、加藤(友三郎)、米内(光政)の三人くらいだろう」といった趣旨のことを言っているけれど、彼の厳しい倫理思想が見えて興味深い。現役時代もずいぶん思い切った海軍の改革提言(空軍の創設など)や日米戦争阻止のために命がけで働いたことも含め、このような逸材を日本の政治機構の欠陥によって十全に用い切れなかったことが結局日本を破滅に追いやった原因なのだろうと思えてくる。





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