201)井上成美へ進む



200)セカンド・ライフ

実はこの3月に勤めをやめた。
会社からもう来なくていいという引導を渡された。

社の規定としてそうなっているらしいので私は粛々としてこれを受け入れた。

失職した。

ま、年齢的にもそういう時期にきたということだが。

つまり一般的にいうリタイヤーだ。

まだまだ働けると思っていたので心外ではあったけれど、仕方がない。それなりの補償金ももらったし。
ここに報告が遅れたことは申し訳ないと思っている。ごまかす積もりはなかったのだけれど、言いにくかったのでずるずると発表を延ばしてきた。


言いにくかったというのは、以来ともかく働かないで生きているという引け目があるからだ。

いくつかの選択肢があった。

再就職、または毎日を遊んで暮らす。

私も現役中に培った、相当利得になる実技を持っていると自負していたが、ハロー・ワークで調べるとどうも自信を喪失せざるを得ない。
そういうわけで当面遊んで暮らそうと思ったわけだ。

世人は通常それを遊び人とか半人前とかやくざものとかいう。

働かざるもの食うべからず、とも言う。しかし食わなければ生きていけないから、ともかく私は3度3度規則正しく食っている。
土曜日曜含めて以前とさほど変わらない起床時間、就寝時間を守る日常だ。

問題はやはり日日の余暇時間の過ごし方だ。有り余る時間をどう過ごすかという大きな問題がある。

やはり収入の道が閉ざされたので余りコストのかかる遊興で時間を過ごすことは出来ない。

ポイントとしては散歩に出るほかは出来るだけ外へ出向くことは避けて自宅で出来る遊興を考える。

私は自由時間の過ごし方には一家言があるほど上手だという自負がある。いや、これは多数を遊ばせるということではない。ただ“ひとりあそび”が苦にならないというくらいのことだけれど。
かたちになるものといえば自宅で気になっているところの修理、改造(たいしたものではないがセンサー・ライトの取り付けなど防犯対策を中心に)、滞っていた読書計画(さほどのものではないが)をまた続行すること、それとここに書くなどの創作活動、インターネット徘徊、LPレコードのCD化、などである。

そんなあたりでいまのところさほど退屈はしないし支障も出ていない。
妻からも今のところさほどの苦情は貰っていない。

さて、そうこうしているうちに半年近くが経った。

ありがたいことにその間しばらくは失業保険も支給されていたし、更にその付加恩典で再就職支援の一環としての職業訓練センター入所も許可された。
もちろんこれは再就職を前提とした失業者対策なのだけれど、その恩典を私もこうむっているわけだ。

これはまた別に1章設けて書かねばならないかもしれないが、現在、隣町のそういった施設に毎日通って半年間の予定で訓練を受けている。
年内一杯様々な技術、知識、公的資格を取るための座学と実技訓練を受講している。

公的資格でとりあえず目指すのは3冷、つまり冷凍機3種という資格だ。
家庭用エアコンの原理と取り付け取り外しの技能訓練はしっかり習得したし。
そのほかにもいくつもあるけれど、ここで宣言することは差し控えておく。希望が義務になってしまったら苦痛になるだろうという思惑からだ。

ともかく毎日新鮮な知識と驚きの体験が得られ、楽しい毎日だ。

沢山の新しい仲間と出会い、これまでの限られた職場と狭い世界で生きてきた私の社会を見る目もぐんと広く深くなった気がする。
まんぞく、満足の毎日だ。

さて、これからの課題だけれど、ひとつの伏目はこの年末に来る。

今通っている職業訓練センターを卒業したあとのことだ。
真のセカンド・ライフがそこからスタートするような気がする。

再就職の選択肢もなお排除できないでいるのだが。

ま、そのことはまたあとで考えようと思う。



199)防衛省と自衛隊の役割

 

何とかいう現職の防衛大臣がかつて世界最初の原子爆弾二発が日本に落とされた事実の総括として、戦争の終結に寄与したのだからしようがない、という自分の考えを講演で披露したということが問題になっている。ちょっと異様な、びっくりするような事件だ。もっとも、述べられた内容自体は珍しいものではないだろう。平凡人の言う”平凡な”言葉。

歴史上のことで因果関係を探るのはなかなか難しい(原爆2発と同じ時期にソ連参戦(長崎被爆の前日深夜)があったし、これも同様に終戦を決断する直接のきっかけになったことは明らかだ。この方が大きかったかもしれない)。まったくの誤りだということもいえないと思うし、それに近い考えが戦後のクールな若い世代の一部や、非戦派などに出ても驚くにはあたらないと思う。
まず、この史上最悪のジェノサイド(それもたてつづけの2度
)を実行した相手に面と向かって抗議したことがない(東京裁判ではこの告発がなされ、すぐ却下された経緯はある。もちろん東京裁判はアメリカが占領下の日本を一方的に裁く(裁判ではなく、一種の政治ショウだった)ものだった)わけで、そのこと自体”しかたがない思想”が戦後の平和日本では向きになって否定できない(暗黙の了解?)ということになる。いや、思想としてあるのではなく、それはアメリカ全肯定の現実の政治思想としてあるのだといえないこともないだろう。ジェノサイド告発は、それは正しい行為だと思うし、そうしたいのだけれど、とても受け入れてくれるはずはないので、自分たちの胸のうちに収めておこう。自分たちのせいにしておこう----。


広島の原爆記念公園の慰霊碑に刻まれた「――もうしませんから」という言葉はそんな思想の端的な現われだと思う。

戦後の敗戦ショックが収まり、冷静になり、更に思考を深めた日本人は先の戦争の見直しをはじめ、次第に国民主義的ともいえる視点を取り始めている。どうしてあんな馬鹿な戦争を始めたのかに始まって、なぜ日本は負けたのか、どのあたりから間違い始めたのか(最近読んだ「落日燃ゆ」ではあのあたりで既に天皇が軍にしっかりとりこまれてしまっている様子が見られる)、そもそも、果たしてあの戦いは間違いだったのかというところまできているものもある。
日本が調子に乗りすぎていたことは確かだったとしても、東京裁判での結果に見られるような徹頭徹尾日本の「軍国主義」が悪の枢軸で、正義の軍隊アメリカによって掣肘されたというのはあたらないのではないか。西欧が創めた帝国主義植民地主義に遅れてびりから参加した向こう見ずで唯一の有色人種日本を袋叩きにするための彼らのぐるになっての巧妙なわなに気がつくことなく、大局に立った戦略を持たないままどうしようもなく嵌められてしまった、ひとつの全世界歴史的必然の流れに沿った国家崩壊の例なのではないか。

民間の言論人の中でそんな思想がひとつの流れになって来つつあることは確かだろう。政府がそれに呼応するように憲法九条を見直そうとしたり、自衛隊の権威を高めより幅広い機能を持たそうとしているのも、それが本当に日本の、世界のためになるのかどうかという議論はあっても、日本の国家意識を高めて世界へ前向きの姿勢を示すという意味ではひとつの問題提起、積極的な動きとして一定の評価はしてもいいのかもしれない。

それらの動き以上にもっと重要なことは、日本が国益を護りつつ世界に貢献するにはどんな思想でどんな方向へ動いていけばいいのかということをもっとつきつめて議論しなければならないと思う。それらに内閣の中枢、外務、防衛大臣などの思想が入っていくのは当然だろう。

日本はアメリカの2発の原爆によって先の戦争を終結させたのだという思いは、これからの日本の行動にとって余りに古びた思想なのだ。終戦直後のD・マッカーサーの股間を悦ばすような言葉だといっても言い過ぎではないだろう。広島の慰霊碑の言葉の古典的超道徳的な美しさ、反戦思想の価値は認めるとしても。

それだけに、この考えを日本の現職の防衛大臣が述べることの異様さ、ある意味汚らわしさを私は混乱と、たまらなく情けない思いで聞いたということだ。彼はこの考えを述べることで、これからの日本をどのようにリードしようと考えていたのか。私はそのことに強い疑問を持ち、彼に聞き糾したかった。

しかし、その種のコメントは今のところまったく聞こえてこない。ただ「発言の理解が得られないので--」とだけ言い、被爆者および、その関係者による非難に遭ってそれに対する稚拙な手当てだけに終始している感がある。それだけだ。理解するべき何の内容もなかったのではという疑念が晴れないのである。

それとも、先のイラク派兵非難の勇ましい失言をカヴァーするためのブッシュ向け発言だったのか

日本が庁から省に昇格した日本の防衛部門の運命を委託していたのはこんなお粗末な男だったのだろうか。

 




(198)文明崩壊

著者のジャレド・ダイアモンド氏はこのコラムで既に2冊紹介しているなじみの名前だ。氏の最新刊「文明崩壊 上、下」楡井浩一訳 草思社2005.12初版 を読んだ。

この前私が読んだ「銃・細菌・鉄」(108)は世界における現代文明の起源と発展の科学的分析(なぜ特定の地方に偏在して起こったのか、なぜそれが特定の民族によって現代に至るまで発展を続けたのか?)というような内容だった。そして今度の著作はその続編とでもいうべき、いや、前作自体これを書くための前置きだったのかとも思える主題、(ことに上巻の)内容はちょうど前作の裏面、つまり一旦起こったあと崩壊した文明(もちろん多くはごくマイナーな文明社会なのだが)についての考察である。
そのマイナーな過去の孤島での出来事を含む、文明と大げさにいうより小社会(マヤだけは大文明といっていいかもしれない)5組(イースター島、ビトケアン島とその諸島、アナサジ、マヤ、グリーンランドのヴァイキング社会)の勃興から崩壊へ至る過程とその分析が上巻全部を使って延々と述べられる。

これらは殆どがイースター島の悲劇など含め重箱の隅に半ば眠っていたような(いや、陳腐な歴史という意味ではない。我々がこれまで知らなかった辺境の物語だという意味)過去の物語で、あるいは読者の一部には(マヤ文明だけはよく知られたものだが)これら初めて名前を聞く小さな史実の詳細(それらの殆どが残された遺跡や数少ない化石的遺留物で推測されているもので、しかも多くが陰惨な、あまり楽しい話ではない)の羅列に次第に気が滅入り、飽きもきて、半ばで読むのを放り出してしまうかもしれないのだが、しかし、これをなんとか乗り切って、いざ下巻(第2部)へ入ると、やはり小さい史実ではあるけれど今度は成功した例がどんどん現れる(ちょっと気分が上向く)。その中にはトップダウン方式で成功したわが日本の徳川幕府の林業政策も現れてちょっと気を良くしたりする。

ここまでが「過去の社会」つまり歴史の叙述なのだけれど、その余勢をかって突入する第3部はいよいよ現代社会、そしてその「現代の崩壊」とでもいうべき実例(ルワンダなどの大量虐殺と社会の崩壊の実例、その分析)、いまにも崩壊しそうな社会(ハイチ)、そしてそれと対照的な、同じ島(の東半分)にある隣国ドミニカ共和国の(かなり成功している)例、更にもっと一般的な大国(中国、オーストラリア)の、崩壊近いというのは言い過ぎかもしれないが、先行き悲惨に思われる例を挙げる。

ここまで来ると、著者がこの上下二巻の大部な著述で何を言おうとしているのか、そして「文明崩壊」という表題が結局何を意味していたのかということがはっきりと読者には理解出来るようになる。これは現在の地球が直面している「文明崩壊」つまり深刻化の一途をたどる環境問題の克明で全体的な告発、実情認識と、考古学的な歴史科学的認識に立った極めて親切で実際的な処方箋(特に最後の第4部「将来に向けて」)なのだ。

文明崩壊の主因は古代にあっても近代においても環境の悪化、中でも森林の喪失とそれに伴った耕地の土壌の悪化と喪失、それに気象の変化(小雨化、砂漠気候化)だったことがこれまでも指摘されているが、真の原因はもう少し複雑だというのがこの著の重要な論点なのだ。

環境破壊と大文明の浮沈の関係については、ここで以前取り上げた「環境と文明」(42)という名著があった(この本の冒頭近く(まえがきP・3)に、イースター島の環境崩壊J・ダイアモンド氏の名前と共にちゃんと記されてある。再読して気がついた(汗)。)が、本書「文明崩壊」では、その要因として更に克明に考察され、5つにまとめられている。
1、環境被害がその地の文明(多くは農業)の継続を困難にした場合
2、気象変動がその地の文明(多くは農業)の継続を困難にした場合
3、近隣の敵対集団の干渉がその地の文明の継続を困難にした場合
4、近隣の友好的集団(の離反、あるいは喪失)がその地の文明の継続を困難にした場合
5、上記の諸問題にその社会が対応できなかった場合

著者の優れた科学者としての資質がこの分析を可能にしたといっていいだろう。従来、1と2(多くが盛んな文明活動の結果森林を失った)が文明崩壊の原因に求められるけれど、それだけが原因ではなかった。ローマ帝国のように3、や4を主因とするものもあったし、更に、環境悪化だけで文明は崩壊しない。殆どの悲劇がこれらに加えて更に5で挙げる人間の側の要因によって起こされたのだというのが氏の主張なのだ。それは、第一部で延々と述べられてきたいくつもの古代文明の例によって論証されている。つまり、1、や2の悪化に気がつかず、あるいは手をつかねて対策がまにあわなかった、あるいは知りながら無視したことで結局不本意な文明崩壊に直面したというのだ。

例えば著者は、イースター島の12の部族が豊かだった島の自然と彼らの労力を浪費しながらあの巨大石像の競作に夢中になる余り、その最後の大木の一本を切り倒すまで環境の破滅的悪化に気がつかなかった(あるいは分かっていてブレーキが利かなかった)という考古学的推論を描写して見せる。
例えばヴァイキングの末裔であるグリーンランドのノルウエー人開拓者たちは、その環境悪化もさりながら自分たちの誇りの元であるキリスト信仰とローマ教会への恭順を自分の生活の糧以上に重視し、その誇りの余りにイヌイットたちの技法を見習うことをしなかったために餓え、社会崩壊し、全滅してしまった。

上巻のモンタナ州の農村の淡々とした自然描写、社会描写と後半のヴァイキングの歴史、それらを私はイースター島の物語などドラマチックな部分とともに楽しく読んだ。最初に書いた、幾分平板なな部分もなくはなかったけれど、それらは下巻のむかむかするような現代史の恥部描写(ことにルワンダの大量虐殺の分析と中国の凄まじい環境破壊の現実)とは対照的であり、もちろん、これら双方が下巻における著者の主張をしっかり補完するための重要な部分であるのはいうまでもないのだけれど、単なる読み物としても極めてよく出来た構成になっているということだ。

環境破壊が極に近く、崩壊寸前で悲鳴をあげている現在の世界を中国の現状、オーストラリアの環境悪化などを例にあげて下巻の3部で克明に示した著者は、一般には諸悪の根源とも目される世界企業の旺盛な利益追求とは裏腹な環境対策に一定の理解も示す(第15章 大企業と環境)。このあたり単なる研究家理論家にとどまらず世界各地を飛びまわってフィールドワークに徹し現場主義を貫く著者の豊かな情報量をベースにした柔軟な思考態度が見て取れる。著者は、利益に徹し、人々に害を及ぼす世界の企業群の慣行に対して、その膨大な(環境対策のための)必要コストを含む責任全般は、最終的には一般市民が負うべきであると言う。もちろんその責任には企業の行動に対して明確な態度を取る(それによって企業の行動を望ましい方向へ導く)ということも含まれるのはいうまでもない。

第4部「将来へ向けて」で深刻な現在の環境問題を著者は12の項目に絞った。
1、自然環境の破壊(特に森林の減少) 2、海産資源の枯渇 3、野生の種の滅亡と減少 4、農地の土壌の喪失 
5、化石資源(石油、ガス、石炭など)の枯渇 6、真水資源の枯渇 7、太陽光資源の限界露呈(意外に少なく、人間のためだけで使いきり、あとの需要のためには残らなくなる可能性がある) 
8、人工的な毒性物資の残留とその処理の限界 9、地域的な外来種の増加とその悪影響
10、いわゆる温室効果ガスの増加 
11、人口増加 12、(増加する)第3世界の人々の生活向上とその資源浪費


これらの問題に重要性の順序づけは出来ない。それぞれがお互いに関連して、複雑に絡み合っているからだ。地上の人類はおそらくこの世紀の半ばまでに爆発しそうな時限爆弾を首にぶら下げられたようなものだと。

「先進国の裕福な住民たちの間に広く浸透しながらめったに表明されることのない見解として、自分たちが多くの環境問題を抱えながら不自由のない生活を送れているのは、その問題を主に第3世界の人々に押し付けているからだというものがある。」下巻P348
分かりやすい例としてさしずめ自分の国土に見事な森林を醸成しておきながら手をつけず、専ら他国の森をごうかんし大木をしこたま仕入れてその国の砂漠化を促している材木輸入世界一の大国日本が挙げられるだろう。

崩壊した過去の歴史から浮かび上がってきた事実として、彼ら失われた歴史の中心の裕福な首長たちは、自分や自分の子供たちの権益を確保するのではなく、最後の悲惨の中で飢え死ぬ権利をやみくもに買いに走っただけだった----

過去の歴史と現在の世界との相違は大きい。おそらく、現代のイースター島では過去の悲劇はもう起こらないだろう。しかし現代が抱えたとてつもない崩壊のスケールはどうにもとまらないというものの代表のように思え、考えるにも空恐ろしい気がする。どうすればいいのか。

著者はいくつかの希望のしるしを最後に書いている。

現実的に考えて、上記の問題ひとつひとつが解決不能ではないということ(人口問題など先進国を中心に解決の糸口が見えた問題もある)。また、環境保護思想が世界中の一般大衆に広がり始めたこと。その広がりは「沈黙の春」が刊行された1962年ころかららしいが、その広がりと軌をあわせて世界の環境の悪化が競うように加速されたことも事実だ。著者はそれを幾何級数的に加速する2頭立ての競馬に例えている。どちらが最後に勝ちを制するのか、私たちの賭けた馬が勝つ可能性はある、が簡単ではない

著者が最後に挙げる希望は、昔の(崩壊した)社会にはなかった考古学とTVが現代にはあるということだ。確かにそうだ。私たちは過去や同時代のあらゆる場所に起こる事実(とその正しい見方)を知ることが出来るし、それらの失敗から学ぶ機会がある。

人間の理性を信じ、私にできることをはじめようと思う。

 



(197)「落日燃ゆ」

最近亡くなった城山三郎氏の作品をまとめて読む機会があった。

たちまちこの特異な作家の火炎に灼かれて心がひりひりしてきた。
必要と思われる主要な著書をすべて読む前(まだとばぐちだという感じがしてならない)に、何か書かねばならないという落ち着かない気分になっている。
この一ヶ月間に読んだものは以下の通りである。

もう君には頼まない  石坂泰三の世界文春文庫

アメリカ生きがいの旅 」文春文庫 ルポ、インタビューと紀行文
「落日燃ゆ」新潮文庫 文人首相として唯一A級戦犯として処刑された広田弘毅の伝記小説

男子の本懐」新潮文庫 上記のほぼ十年前に首相としてテロに斃れた浜口雄幸の伝記小説
毎日が日曜日」新潮文庫 デビュー作「輸出」(未読)のその後(十数年後)の物語だという。ベストセラーになり、また帰国子女問題を提起したなど社会的にも評判の良かった小説だったと解説(常盤新平)にあった。
このほかに「人生の流儀」新潮文庫 という氏の著作も手に入れた。これは上記のような物語やルポ、あるいは特定の人物の伝記的小説といったものではなく、氏の沢山の著作の中から氏自身が選んだ文章の断片をテーマ別に抽出して並べた、個人アフォリズム集とでもいうべき著作で、折に触れて無作為にページを開き、読んでいるが、まだ全部は読んでいない。

これらの作品はは身近で入手できる(最近著者が亡くなったということで書店では増刷された幾つかの文庫本が新刊の中に詰まれてあった。普段は探すのに苦労する地味な作家だ。古書店でも余り数は出ていない。)機会があったものを特に考えもなくゲットして読んだので、(氏の作品の中でも)特に事前に思い入れがあったというものではない。強いてあげれば「落日--」は読みたい作品だったので入手できたことは幸運だった。
しかし、この作品を含めて皆それぞれに感銘深い、良い作品だった。まだ少数しか読んでいないので見当をつけて言っているのだけれど、氏の作品は皆力が入って居て、多分失敗作(駄作というのは心外ではあるが、いわばそのようなもの)はないのではないか、と思う。それぞれに氏の深い思い入れがあって、丁寧に、時間をかけて書かれてあり、たとえば筆の赴くままに書いたとか、戯作三昧とかいう書き方はされなかったのではないか。

ひとつは氏の真面目な性格があるだろう。更には、氏の書き物の性質(モデル小説=伝記)として、実在の人物をもとにして描くという制約の中で書かねばならないことから調査もおざなりに出来ないし、緻密さ、精確さが必要とされているということがあるのだろう。そんな傾向は、小説的要素の多い「毎日が日曜日」でも、ある程度リラックスをして書かれてあるようで、やはり氏の生真面目な性格は一生懸命生きる登場人物のすべてに振りまかれてある。それは実在する超一流商社の(リアルな)社員群像という制約であり、ある意味悲劇的な要素を取り込まねばおられないという氏の“損な”性格がその物語の恣意的な中にも透けて見えるようだ。


ずっと前に読んだ国鉄総裁石田禮助の伝記「粗にして野だが卑ではない」もそうだったけれど、氏の手法は考証、調査も万全なのだが、多くは自分が選んだ対象に深くのめりこみ心酔して、情熱的に多面的に人となりを描きあげていくというものだ。そのために、実際こんな凄い人物が果たして実在したのだろうか?やはり「小説」なのだろうかと思えるほどに城山好みになっていく。「落日-」の広田も「――本懐」の浜口も、井上準之助も生一本で志の高いそんなスーパー人間として描かれる。
もちろんそんな手法だから氏がその人物を好きになれなければ作品として作り上げるという選択はなかっただろう。今度読んだ「---君には頼まない」では、前作で石田を取材する間に、以前は惹かれなかった石坂の魅力に気がつき、それから描こうということになったと自身で書かれている。だからだろうか、作品全体が他のものとは少しトーンが異なり、いまひとつの乗りではあった。しかし、それだけ石坂の人物というものが(氏自身にも)わかりにくいままだったということではないのだろう。結局人間というものは誰であれ多面性があり、矛盾があり、あいまいな部分もある。そういったいわば平凡とも思える部分をそのまま鵜呑みにしても、魅力のある人間は居るのである。石坂はいわば大平凡人といえる魅力の人間であり、全体としての石坂のベクトルが城山好みだったというのが彼が理解した石坂泰三の姿だったのだろう。もちろん石坂の生涯は平凡といえるものではなく、それ自身が波乱に満ちた成功物語なのだけれど、それだけで城山氏が描きたいと思ったのではなかったのだ。

城山氏の作品には一貫して烈しい男の主張がある。多くが経済小説とか、政治小説とか言う枠に押し込めてたるんだような解釈をしていたようだけれど、そんなものではない。一見平凡な政治家型経済人石坂泰三にあっても、当時の最高権力者に烈しく自己を主張し(それはD・マッカーサーであったり、水田蔵相だったり、田中首相だったりするのだが)、時間に遅れてくれば許さない、決して媚びることのない芯の強さがあったことを氏は作中でさりげなく賛美する。
権力に媚びない。それはいわば多くの志高い男たちがやろうとしてなしえなかった(困難な)夢であり、ロマンなのだ。城山氏の伝記的作品はそんな男の理想像を実在した男たちに発見した驚きを元にその事跡をなぞって生き生きと再現してみせることでなりたっているのだ。

昭和十年前後の激動期に相次いで国家の枢要を担い、生命を賭してその責務を全うしようとし非業の死を遂げた男たちの伝記「男子の本懐」の浜口雄幸、井上準之助、「落日燃ゆ」の広田弘毅。この連作はS20年の国家破滅への道半ばにあってそれを阻止するために何らかの役割を果たした彼らの全存在と凄絶ともいえる生き様の再現なのだけれど、城山氏の創作の原点ともいえる先の愚劣な戦争の源流に迫ったこの2つの作品世界を成り立たせている男達の凄さ、立派さが氏を強く惹き付けただろうことは想像に余りある。

浜口首相(S4〜5)は民間銀行あがりの辣腕井上蔵相と組んで当時誰もがなしえなかった国家的大事業金本位制への転換(復帰)を行うが、不運な世界大恐慌に遭い、台頭してきた国家主義と無法な軍部の圧力もあり、二人相次いでテロルの犠牲になってしまう。その要因は幾つかあるけれど、直接的なきっかけは軍部の巨大な予算要求を(金本位制への復帰という大前提を口実として事実上)阻み続けたこと、更にはその後の日本と日本国民を旧軍部の玩具にさせ、破滅へ導く原因を作った、いわゆる統帥権干犯問題に彼らが敢然と筋を通したためだった。
その殺伐とした世相の中、広田弘毅は外交畑で地道な仕事を続けていた。浜口、井上の死後も軍閥による公然たる政治への干渉や五・一五事件などテロが相次ぎ、そのとどめとして二・二六事件が発生した(軍若手将校グループに率いられた千余名の将兵により首相官邸などが襲撃され、高橋是清大蔵大臣など5名が犠牲になった日本近代最大のテロ事件)。広田はその省内での高い人望からこの時期(S8年から)に外務大臣を2期勤め、「私の在任中は戦争はない」と宣言してその軍部の挑発にも屈しない協和外交を強く推進してきた実績を買われ、更に困難が予想される首相就任の要請に(決死の覚悟で)応じた。その最初の仕事が二・二六事件の後始末、粛軍だった。
粛軍は広田の采配のもとに陸軍内部の権力闘争もあって想定外の厳しさで実行された。それは以後の政治シーンの中にテロルが見られなくなったという“進歩”にはなったけれど、半面軍自身でけじめをつけたという自信から軍部の陽動的な政治への関与という面はむしろ強くなった。広田内閣はそのために一年持たず、自身の予算案も成立することなく総辞職することになる。一旦は野に下った広田だったが、後継の近衛内閣に自身3度目の外相として関わることになる。
この(満州事変勃発から満州国の承認を経た、国際連盟脱退直後に外相を任された時から始まる‘3338年の間)時期、日本政治外交の中枢にあった広田の最大の努力は軍部の暴走を極力抑えることであり、また彼らのしくじりの後始末に強烈な責任感を持って奔走する。その懸命の努力も最後の外相の時に起こった盧溝橋事件に続く日中戦争勃発を抑えられなかったことで職を辞した。(更に南京での虐殺事件も彼の在任時に起こり、これらの不運の重なりが戦後の東京裁判A級戦犯の罪を問われる直接の要因になる)。
その後請われて内閣参議、重臣会議のメンバーに引き入れられてアメリカとの開戦に関わり国家崩壊へ続くその中枢の光景を当事者として目近かに眺めつつ、天皇と一体化した軍部の跳梁の前に自身さしたることも出来ないまま終戦を迎える。いや、終戦後もその“国家責務”は更に理不尽な形になって広田にとりついてくる。

極東戦争の戦犯容疑者として他のいわば広田の敵役だった軍の最高幹部たちとひとくくりにされて収監され、取り調べられる日々。どのような辛い気分で日々を過ごしたのか、その理不尽を自身の責任のもとに認め、何一つ自己弁護せず慫慂とその極刑を受け入れる広田自身に化身したような城山の抑えた簡潔な描写はかえって鬼気迫るようである。

城山はこの時代、ひたすら他国との戦争を回避すべく、話し合いに徹して最後まで諦めなかった稀有な政治家、信念のひとの清冽さ偉大さと、その死をもって守り通したもの(それは彼がかつて裏切られた異様な権威体制というべきもの=天皇 だったが)との対比を鮮明にしたことであらわになったむなしさのすべてをここで活写し、問わず語りに鋭い批判を加えたといえる。
もうひとつの鮮明な対比は悲運の広田と、彼の同期の外務官僚吉田茂の対照的に幸運な、ある意味愚劣ともいえる行動、そしてその戦後の成功を批判的な描写で成立させている。

やりきれない物語ではあるけれど、その刑死直前まで皮肉とユーモアを忘れない人間広田を余すところなく描ききって後味はよかった。




196)レコードとレコードプレーヤー

 

レコード(あるいはレコード盤、音盤=ディスクともいう)はエジソンが発明した音の振動の形をそのまま一本の長い溝に刻み込んで記録するというごくシンプルな原形を留め(円筒が円盤になった位の変化はあったが)た世界最初の、そしてソニー社が開発したCD(コンパクト・ディスク)が出現するまでのほぼ百年間、ごく最近まで栄えた唯一の音楽記録用メディアだった。

そのメディアから記録された音を再生するレコードプレーヤーにしても、基本は自在なアームに取りつけた細い針をその溝に沿わせて、その振動を増幅して聞くという、至ってシンプルなものだ。もちろんその最盛期(今から20年ほど前?)には周辺の補助装置も含めて原音に近い音を引き出すという目的に近づくために当時の先端技術を駆使した、洗練を極めたものになったのだけれど。
たとえば、レコード盤(だけ)がまったく現代の人類文化から隔絶した場所(時間的に、地理的に)に行き着いた時、それを手に取った者はかなりの確率でその「変な円盤」の意味を理解し、それから本来の音声を引き出すことが出来るのではないだろうか。もちろんその原音に近い音を彼らが聞くことは出来なくとも、最低限の目的は達成できるのではないかという気がする。


初期のSPレコード(78回転/毎分 のやつだ)の時代のレコードプレーヤー(蓄音機)は、盤の溝に沿わせた針の振動をそのまま”てこ機構”で増幅し、音を鳴らせていた(電気的な増幅装置=アンプはまだ発明されていなかった)。ビクターの商標にある、犬が耳を寄せているラッパはその音を更に大きくする機構のひとつだった。
小林秀雄が若いころモーツアルトのシンフォニーのレコードを何度も何度も繰り返し掛けて聴いたのも、宮沢賢治べートーベンのチェロソナタ曲を好んで聴いたのも、そんなシーンだったはずだ。

LP
レコード(33.5回転/毎分)になり音溝もそれら同士の間隔もずっと小さく狭くなって、そんな機構では音が満足に鳴らせなくなったのだけれど、それでも静かな場所でレコードを掛け、ピックアップの傍に耳を近づければ、ごく小さくはあってもそこに刻んである音を直接聞くことが出来る。レコードとレコードプレーヤーの親密な、シンプルな関係を実感することが出来るはずだ。



レコード盤とCD(コンパクト・ディスク)の間にテープ(磁気テープ)の時代があったとする考え方もある。薄く塗り込めた磁性鉄粉に音の形を磁力の変化として記録させるやりかただ。磁気テープの録音方式は同じくソニー社が完成させたオープンリール方式が先行し、後にそれを改良した、オランダのフィリップス社が開発したいわゆるカセット方式がある。
別にソニーを悪くいうつもりはないけれど、音楽の入った磁気テープを別の星の似非人類社会に放置して、彼らがそこから音声出力を引き出すことが出来るかどうかは、はなはだ疑問だ。テープと音楽との間には埋めがたいイメージの懸隔があるように思うからだ。

 私はオープンリールのクラシック音楽を何本か購入したことがある(数回聴いただけだが)。カセットテープには随分お世話になった。百本近い音楽テープを保持して楽しんでいた時期がある。


楽曲入りオープンテープ イッセルシュテットのL.V.B交響曲9番


両方とも現物をまだ持っているが、オープンリールはそれをかける機械(デッキ)が今手許にないので、聴くことは出来ない。もう金輪際聴くことは出来ないだろう。カセットテープは今でも聴くことが出来るが。

別に私は(CDが二代目でも、三代目でも)どちらでもいいと思うが、ただ、磁気テープが音楽記録用メディアとして一般に主流だった時代はなかったと思う(レコード会社の業務用や、放送局用としてはあったかもしれない)。音楽用の磁気テープが傍流で終わった理由のひとつは、テープによる音楽メディアの量産化、コスト削減が他のメディアに比べて難しく、普及に限度があったということがあるだろう。振動に強いのでカーオーデオに重宝された位だ。ヴィデオ用としては光メディアが大勢の今でもなおかなりの支持があるようだ。

レコード盤が撤退したのは間違いなくCDの優位性の故だった。コンパクト・ディスクの名の通り小さいし、扱いが便利だ。総合性能としては抜いていた。レコード盤以上にCDも量産に適していた(双方樹脂を材料にして金型で成型
----レコード盤はスタンピングというらしい-----する)が、この二者(レコード+テープ VS CD)は音楽を記録する方法に根本的な違いがあった。コンピューターやセンサーなどの進歩に伴った技術革新によって実現した情報(この場合音声信号)のデジタル化だ。
(もっとも、CDが出る前にデジタル技術を採用したカセットテープと録音機も実用化され市販品もあったが、CDの勢いを削ぐことは出来なかった)。


別にソニーを悪くいうつもりはないけれど、音楽CDを別の星の似非人類社会に放置して、彼らがそこから音声出力を引き出すことが出来るかどうか。彼らがデジタル型コンピューターの知識を持っていなければ、音楽CDの虹色の外観と音楽との間のイメージの懸隔を埋めることは不可能ではないかと思うのだ。

ここでへたくそな技術小史をでっちあげようとしているのではないけれど、私が生きて眺めた時代にまさに身近かで進行したこれらの変化、トレンドを思い返してちょっと感傷にふけっているわけだ。


私は生まれてから45歳くらいまでレコード盤の恩恵をこうむった。50歳から半信半疑でCDに転向した(これは世間よりも少なくとも十年以上遅れていた。デジタル音楽という人工的なものが良い音だとはどうも信用できなかった。基本的に私は新しいものに懐疑的なのだ)。

音楽のデジタル化自体には従来方法に比べて再生音楽の音質向上を促す要素はない(量産化、コピー化の時点で品質の劣化を抑える利点はあるだろう)。ソニーはむしろLPレコードの最上音質に近づけるよりも、人間の感覚限界を口実としてCDの性能に枠をはめた。もちろんそれはコストの面からの要請だったし、どうしようもない流れだったのだろう。
私個人としてはそのあたりが気に食わなかった。だから世がCDばかりになってもしばらくCDを聴く気にはなれなかったわけだった。

ちなみに45から50過ぎまではもっぱらコンサート会場へ足を運び、生音楽をせっせと聴いていた。




長い前置きになった。

45歳くらいまでにぼちぼちと買ってきた二百枚を越えるLP、EPレコードが以後役立たずのままそっくり日常生活の場にのさばっていたのだけれど、最近(というよりかなり以前からだが)妻がそれらレコード盤の整理を強く要請するようになった。
無理もないことだった。

私はCDをほとんど古本屋やリサイクル店の棚から見つけてくるので、まったく系統だったコレクションにはなっていない。しかし、ある程度の数量が確保されれば、統計学上の法則が適用されるらしく、それなりに(演奏者の贅沢を言わなければ)聴きたいクラシック音楽の大方が揃うという事態になってきた。それでようやく最近では、懐旧のLPレコードコレクションを捨てても良いか、といった心境になってきたわけだ。

しかし、いざ捨てる段になって、それら青春の懐かしい顔を、カール・べームやらバーンスタインやらカラヤンやらの「名盤」を眺めると、やっぱり惜しくなってきた。井上陽水やらかぐや姫ABBA、荒井由美(現在の松任谷由美、つまりユーミン)の初期のアルバムなどは今でもCDで復刻されているのだろうけれど、古CDとしてはまずお目にかからない部類だ。EP(45回転の、いわゆるドーナツ)盤にも数は少ないけれどその時々の懐かしい顔がいくつもあった。これらを何らかのかたちで残せないものだろうか。

レコードそのものは捨てるにせよ、捨てる前に中身の音楽情報を(出来ればジャケットなどの映像も含め)CDにコピーするということは出来そうだ。現代のモンスター・サーバント、パソコンは万能コピー機でもあるのだ。そのためには(PCのほかに)どんな機器がいるのか。少なくともレコードプレーヤーは必要だった。

以前も書いたと思うが、我が家で愛用していたレコード盤音声再生機、いわゆるステレオ装置(松下電産のテクニクスSC1600)はほぼ8年前にその寿命を終えている。現役時代に2回そのベルトを交換したレコードプレーヤーのターンテーブルは、人形制作のためのろくろ台に流用してしまった(笑)。

しかし、私はずっと以前(28年ほど前だ)事故で死んだ弟が愛用していた単品のレコードプレーヤーを引き継ぎ、多くの非難に耐えつつ後生大事に抱えていた。テクニクスのダイレクトドライブ(特殊な低速回転モーターで直接ターンテーブルを回すやつ)SL-1200だ。





これでレコード盤から音をピックアップし、パソコンに取り込んで音楽CDを作ってみようと思った。

実は数年前にも同じことを計画し、試みたことがある。このプレーヤーの出力端子を(やはり中古で買った)ミニコンポ(ソニーのVACS)の入力に接続した。とりあえずレコードを(直接)楽しもうとしたのだけれど、蚊の鳴くような音しか出ず、断念した。
しかし、プレーヤーそのものは故障しておらず、出力もあるという自信は得ていた。これは使えるはずだ。
メーカー品のパソコンではマイク端子のあるものがあり、生の音声をデジタル化(A-D変換)してくれる機能があるらしい。以前交際のあった友人はこの機能を利用して自分のレコードをCDにしていた。私もその2,3をいただいたのだが、音質は良くなかった。多分、この機能は音声録音、特にメールなど自分の会話を先方へ送るための状況設定のもとに考案されたもので、クラシック音楽のCD化など忠実な音質再生を志向するものには向かないのだろう(私が最初に買ったW98のIBMパソコンには音声翻訳ソフトがあって、やはりそのためのマイクジャックがあった)。

パソコン専門店へ行き、CREATIVE社サウンドブラスター=デジタルミュージックLxなるものを見つけた。これはプレーヤーなどのアナログ信号をデジタル信号に変えて、USB接続でパソコンに送り込む機能を持っている。¥5200 で親切な販売員はこれがかなり大きいシステムメモリーを食う(128Mb以上、340Mb以上のハードディスクメモリーも)ことを強調し、トラブルを想定して領収書の保管を勧めてくれた。
ともかくこれを購入し、プレーヤーとパソコンの間につなぎ、ついていたソフトをインストールしてレコードをかけて見た。ほとんど音が出なかったが、すべての段階でボリューム全開し、フル出力にすると、一応の音が出ているのを確認することが出来た。
要はプレーヤーからの出力が小さいのだ。更にネットを探り、イコライザーアンプの存在を知った。

市販のアンプ入力で受け入れるソース(MDドライバーなどイヤホーンが鳴らせるレベル)は100mV位である。しかし、レコードプレーヤーの針から微小な音声信号を拾うカートリッジは出力が桁違いに低い(わがテクニクス260MM=ムービングマグネットタイプで2mVほど)ので、途中で増幅しなければならない。それ以外にも、レコードの溝幅の関係から低音部の振幅を抑えてあるので、これを矯正して高音から低音まで全体に均し(equalize)てやる必要もあるという。
このイコライザーアンプは従来からレコードファンの勘所であり、高級なものは伝統的に現在は稀少な真空管などを使った非常に高価なものが多い。私は嫌な予感がしたが、ネットを調べて幸い思ったより安価(¥7000)な既製品 オーデオテクニカ社AT-PEQ3 を見つけて購入した。これをプレーヤーとサウンドブラスターとの間に置いて、増幅した信号をAD変換することになる。

以後更に細かいことで曲折はあったけれど、どうにか古いレコードをデジタル化し、CDへ書き込んでいく目途がついた。今、私の非力なパソコンのハードディスクには懐かしいLPアルバムのwavファイル群がにょきにょきと林立し、壮観ですらある。それにしてもこのファイルはひとつひとつが巨大で300Mbは優にあり、早めにCDへ追い出さねば現実として私のパソコンはパンクし、システムダウンしてしまう危険が迫っているように思う。




(195)浅草物語

 

22歳の時だったか、同い年の悪友3人で上京、東京見物をした。泊ったのは浅草寺雷門の近くの安宿で、その夜は誰が言い出したか良い目をしようと賑やかな街へ繰り出して、いわゆる暴力バーに引っかかり、なけなしの3万円をふんだくられた。帰りの汽車賃はかつかつ残ったようだったが。
いわばそれが私のけちっぽい「浅草物語」なのだけれど、今度観た劇団民芸「浅草物語」作小幡欣治 演出高橋清祐 の感想を書こうとしてそんなわかげの思い出が蘇った。


100本近い台本を書いた練達の作者は初めて自分の故郷である浅草を舞台にして、そこで生活するひとびとの哀歓を、ローカルなデテールにノスタルジックな想いを込め、人生こうもありたいと願う気分を思い切り羽ばたかせて楽しい人情劇をつくりあげた。

舞台は日支事変勃発のころの賑やかな浅草、一代で大きくした店を60で長男(三浦威)に譲った酒屋の大旦那鈴木市之進(大滝秀治)は其処を追われるように出て一人で気侭に暮らしつつまだまだ気力充分、子供達も知らない繁華な地を財産に持ち、店子となったキャバレー「モロッコ」を営む20も下の女主人鏑木りん(奈良岡朋子)に出遭い惹かれて世帯を持つ願望を膨らませる。
うわっつらだけをまた聞きして身勝手な浮かれ気分(としよりの世話をしなくて済むかも)半分、祝儀に寡婦になってひとり嫁ぎ先の稼業の蒲団屋を守る長女くみ(日色ともゑ)の提案で婚礼布団3点セットまでこしらえた子供たちだったけれど、よく当人から聞いて見るとその女は吉原の花魁あがりだという。家業に悪いという長男を先頭に家族の大反対に遭い、しかも長女がさぐりを入れたら、父の思いとは裏腹にそのもと花魁(これも?付き)は騙されかけた家出娘をかばい、追いかけてきたやくざ2人を店から貫禄で追い払うようなしたたかな女、役者が数枚も上手で、大家の気分を損なわないように気を遣っていたことは認めるものの、そんなじいさんなどと結婚をする気は全くないという。結局傷心の父は長女が引き取ることになって話は終わったかに見えた。

常識的にはそれで2人の間はおしまいなのだけれど、それではドラマがなりたたないので、
女の目下の弱み、生まれてすぐ引き離された実の息子が成人してその婚儀に招かれ、それは断ったけれど、兵役に取られるまぎわに一度なり会いたいという子の母を思う気持ちもあり、どうにも思い切れないという筋から、大旦那自身もその出生によく似た経緯があったことで二人の間にまた親しみが生まれるという展開。結局それもあいまいなまま劇は終わるのだけれど、なんとなくうまくいきそうな、温かみのある結末である。こんなしめくくりが露骨にハッピーエンドにするだろう商業演劇とも違うのだけれど、喜劇とされる所以なのだろう。

作者の生家の業だったという蒲団屋の内情(安物の綿を真綿でくるんで商品にする「あんこ」など、私も聞いたことがある。たしかに、私の家の蒲団はあんこばかりだった。)やら酒屋が水増しして儲ける「金魚」などそんなこともあったのかとなかなか面白い。

しかし、この劇の風俗描写で最大のポイントは、やっぱりもと女郎といわれたひとたちの世間相場だろうか。東京も浅草といえば歓楽街の象徴ともいえる地域で、そんな開けた商家のひとびとでも娼婦あがりの女に対する偏見はさほど世間並みに変わらなかったのだと思うと、最近の芸能界の入り乱れ風紀の紊乱だってこれを安心する(保守派としては絶望する)のはちと早すぎるということなのかもしれない。もっとも、浅草っことしても「吉原」というのはただ単にそばにあったというだけで、其処自体は極めて特殊な別世界だったということはいえるのだろう。そんな思想の崩壊が最近とみに進んでいることは否めない事実であることは確かであるにしても。もっとも、これは劇とは関係ない。

還暦を過ぎた男の20も下の女(それも美女)とのおいらくの恋は世間的には喜劇以外のものではないし、どんなに美化しても限界がある。無慙なものといえるかもしれない。そんなところ、特に倒れた大旦那が退院の日も迫り絶望していた病室へ、そのひたすら待っていた女が見舞いに訪ねてきた場面などの嬉しさと恥じらい半々を、ちょっと老けすぎの感は否めないにしてもさすが名優大滝秀治は見事に演じたことだった。








194)連想

 

最近、政治のシーンを2つ体験した。ひとつは参議院の憲法議案審査特別委員会のTV実況で、共産党の何とかいう若手の質問にまともに応答える様子が感じられない総理大臣のなんとも不真面目な態度である。私たちには聞こえないが、議案策定の一味でMとかいうタレント議員と私語を交わしながら聞いているのか、それともその終始にやけっぱなしのタレント議員の質問者への野次に雷同して喜んでいるのか、そんな感じにも取れる画面が映っている。私は放送の最初から見なかったから、これは後から知ったのだけれど、この二人はこの数分前に八百長ともとれる質疑応答を終えていて(それはこの委員会に総理が出席した目的のほとんどすべてだったらしいが)、実に気分よくそのあとの「どうでもよい」数人の野党質疑を流していたのだ。私は不愉快になってその全く実質のない質疑を観るのを途中でやめた。

もうひとつは、更に数週間以前のことだけれど、統一地方選挙があって、わが地方でもその嵐が吹き荒れた。まさに嵐、騒音の嵐だった。朝7時から、夕刻の8時近くまでスピーカーを前後につけた車がひっきりなしにわが家の近くを右往左往して自候補者の名前をがなりたて、お願いコールを繰り返していった。あれは何だったのだろうか。
TVはスイッチを切れば音はやむけれど、この戸外からの暴力的な騒音は防音室などない普通の家に居る限りカットするわけにもいかず、耳を塞いで耐える以外どうにも逃れることは出来ない。

前記のTV中継を観ることが出来た理由でもあるのだけれど、私は先月来会社を退職して曜日を問わずいつも自宅にいるという新鮮な体験を始めていたわけで、その“新鮮な体験”をめちゃめちゃにしてしまったこの選挙運動の“賑やかさ”は勤め人、特にわれわれ工場務めの人間にはびっくりするような経験だった。びっくりしたというのは、もちろんこの地方選挙のやりかたの理不尽な実態のひとつに触れたということだったのだが。

このようなナンセンスな、いやそれどころではなく、世間に迷惑を撒き散らす以上のものではないこんな稚拙な選挙運動を十年一日のごとくに続けている日本の政治活動に変革の動きはあるのだろうか?

 

久しぶりに新幹線の旅をした。そのついでにキオスクでたまたま求めた「城山三郎の昭和」佐高信 角川文庫 を読んだ。様々な新鮮な驚きがあり、非常に感銘を受けた。
事前の期待以上だった。





経済小説でスタートしたユニークな小説家であった城山氏は、後年何人もの現役総理大臣と“さし”で真剣な対論をした希少な論客であり、真の文化人といえるひとだった。
氏が今の総理大臣とそれをするとしたら、どんな議論をしただろうか。
私には余り興味はない。もちろん城山氏に責任はないだろうけれど。

もっとも、私はこの最近逝去された大作家の勤勉な読者ではなかったし、このような巨匠の全体を文庫本一冊で概括してしまうのはまことに失礼なことで、いずれ丹念にその膨大な作品群を読まねばならぬと思いつつ、まだほとんどはじめてはいないのだけれど、それらのお断りを前提として、上記の締めくくりとしてこの中の内容の一部を引用させていただこうと思う。それは「音にこだわる」という章である。

静けさは、基本的人権のひとつといっていい」と氏は書く。<そこから文化も生まれる。住みよく美しい環境づくりに、静けさは不可欠のものである。それを勝手に犯すことは、誰にも許されないはずである。---

氏は音楽を流している店へは決して近づかず、家人にもそれを禁じたという。

私もそれには心底共鳴できる。最近のマンガ古書店でしきりに音楽をながしているのには閉口する。閉口する以上に、生理的に我慢できない、ともかく出来るだけ早く出て行きたいのが正直なところだ。

もっとも、氏が湘南の自宅から緊急避難したというサザン・オールスターズのライブ公演は、むしろ聴衆として参加したい私には避難する理由にはならないだろうけれど。

 





193)遷骨

「遷骨」というらしい。

死者が残した遺骨(遺体を火葬したあと燃え残った骨灰の一部を厳選して現世に残した故人の身体の遺物、形見。大抵は故人を祀る墓の中に収納する骨壷に入っている)を(何らかの理由で)別の墓に移すことである。
墓自体をそのまま引っ越す(「遷墓」というらしい)時も、同様に一時的ではあるが遺骨を墓から出す必要がある。いずれ遷骨が必須なのだ。

亡父が丹後の海沿いの故郷に40年前にこしらえた墓を、事情があって私は現在住む家の近くへ移すことにした。
これは15年前に死んだ父が生前私に望んでいたことでもある。いわば、遺言でもあったのだけれど、私は墓参はそれなりにやってきたものの、長い間そのまま放置してきた。神戸に実の姉が居て墓の世話をしてくれたことから、それに甘んじていたということもある。しかし、姉も老い、任せられないようになってきたことで、私はようやく動かねばならぬと思ったわけだ。

遷骨を決定して2ヶ月、この連休明けに私はその故郷へ戻り、そのためのいくつかの手続きを済ませた。
わが家族の菩提寺で行ったいくつかの宗教上の儀式もそれらの一連の作業の一つだった。
遷骨に際して必要な儀式の一つは「おしろ抜き(お精霊抜き?)」であり、この儀式のあと、私たちは墓の中の個人の遺骨の入った壷を取り出すことが出来た。

骨壷(最も古いものは70年を経過しており、新しいものでも13年以上経っている)は大小6つあり、私の手許に在った記録(遺牌)に残る故人の体数と一致した。
今次戦中に生後数日で死んだ私の薄倖の兄、30年前に27歳で事故死した弟を含み、祖父母と父母を併せた6体である。

兄の死は私の生前のことだけれど、それ以外の故人の死はすべてここ50年以内のことであり、私は5回の身内の葬儀に関わって、すべて鮮明に記憶している。

2度、ないし3度の事実上の喪主をつとめた私は「葬式の名人」というべきかもしれない。

私は同行した妻とこれらの6体の骨壷を予め用意していたボール紙の箱二つに分けて持ち、JRを乗り継いで九州の我が家へ持ち帰った。
それぞれ結構な重さであり、乗り換えには多少難儀したが、途中何事もなく、遺骨移送作戦は成功したというべきだろう。

もっとも、この儀式ひとつで墓を移す行為が完了したわけではない。他にもいくつかの手続きが必要なのだ。墓を移すということは、結構面倒なことなのである。

遷骨に伴って、遺骨の容器、いわば故人の住居である墓本体の移設という問題がある。

墓を移動するのはタブーだという地域があると聞いた。中京地域の知人の言葉である。

これを私の地域の詳しい人に聞くと、そうでもない、と言った。

新しい墓をこちらにもうけ、以前の墓を「おしろ抜き」したあとに毀すという方法もあるが、墓石の業者は、例え「おしろ抜き」を終えたものであってもこれをを毀すということを非常に嫌がるという(単なる作業ではない法外のコストが掛るという事だろう)。
現在の墓をそのまま移して使う場合、移送距離は700キロ近くあり、新規に作るのと余り変わらぬという見積もりもあるが、当の墓は亡父が作ったものである。さほどのものではないけれどやはり父の心が籠もっていると考えねばならないだろう。毀すよりも移してそのまま再使用したほうが故人は喜ぶのではないか。

墓はこの場合、御影石で構成された結構大きい構造物であり、素人が簡単に移動できるものではない。これは専門の業者に依頼した。一度解体したあと、それらを新たな目的地に運び、再び組み立て、据えつけて遺骨を再収納するのだが、墓というものどこにでも置けるものではなく、予め墓地に定められた目的地を選定して借用なり占有しておかねばならない。
我が家の近くに風光明媚な個人営業の霊園があったので一区画借用をお願いし、一応の快諾を得たのだが、持ち込む現状の墓をそのまま置きなおすことはできず、金の問題もありさらに様々な問題を解決する必要があった。これらは先月中には解決したが、実際の墓の移送はこれからである。

また、遺骨を新しい場所へ納めるためには、「改葬許可申請」という事務手続きも必要だった。故郷の役場で、故人一体ごとに一部づつ書類を作って申請しなければならない。
なにぶんにも70年を超えるわが家族の歴史に関わることであり、それぞれの故人の本籍と死亡時の住所、死亡時日と火葬時日などを正確に記入する必要があった。
今、私の家族の本籍は九州に移っているが、それ以前の故郷においてわが家族は、私の記憶の範囲でも3度引越しをしている。本籍も動いた可能性は高い。
故人のそれぞれの本籍と死亡時の住所は、私の記憶ではかなりあいまいだったので、役場で大過去に亘る戸籍記録書類を請求して調査し確かめて、いちいち記入したわけだ。
この許可証が発行されて私の手に入るのは来週になる。墓自体の移送と、再設置は更に後になるから、すべてが終わるのは来月以降になるだろう。

言わずもがなのつけたしだけれど、この作業の途中で発見した事実がある。

私の祖母が今年、ちょうど50回忌を迎えていたのである。

思えば祖母の死は私にとっては初めての肉親の死、身近な死に直面した最初の体験だった。

だからだろうか、なお様々の場面で記憶に新しいのである。

私が小学校6年の冬だった。その年は身辺にいくつもの大事件があり、落ち着かなかった。

通っていた学校が放火で全焼し、数倍の距離を歩いて仮校舎へ通う毎日だった。

父が転勤し、更に一里離れた隣り町に引っ越した。私は転校しなかったから、通学は更に遠く辛くなった。

転勤して一年、私たちは生家へ戻ることなく更に別の家へ移り、その後生家は取り壊しになった。
それは以前からの計画にあったはずであり、家人が引越しをそれに関連づけていたことは間違いないだろうけれど、これは我が家族にはグッド・タイミングだったと思う。

そんな中での祖母の死は最初の引越しの直後だった。

父は名前の通った企業の社員だったけれど、三十過ぎての中途入社で給料は安く、一家三代同居の七人家族であり、客観的に見て平均以下の貧乏家族だった。数年前の事業の失敗でかなりの借金も抱えていたから蓄えはゼロに近かったようだ。
祖母の死に伴う法律的な手続きは一応終えたようだけれど、告別式などいわゆる葬儀一切を省略し、一家協力して祖母の遺体を父が借りてきた大八車に載せ、ひそかに火葬場へ運び込んだ。

このようなうろんなことが出来たのは、一家が引っ越して間もない時期であり、近所との付き合いが殆どなかったことがあったのだろう。

もちろん隣家や近所が我が家の変事をうすうすであれ知っていたことは間違いないだろうが、一年ほどでそこをまた離れたこともあり、このことはさほどわが家族を後々まで困らせることにはならなかったはずだ。

それとも、当時はこういった「密葬」は世間で稀ではなかったのだろうか。一般には例えその家族一家が「村八分」になっていても、葬式(と火事)だけは近所の協力があるというから、やはりこれは例外的なことだったのではないだろうか。


生前の祖母の記憶は私には希薄だけれど、ただ一度、小学校入学時だったか(あるいは五年生の修学旅行の時か?)半紙に包んだ小銭を小遣いにと私に呉れようとしたことが思い出される。それは(無慙にも)私の手に渡されるまでに母によってカットされ拒まれたのだけれど、その額が(幾らだったかは知らないけれど)当時の貨幣価値でも殆ど無効なほどに小額だったらしいことは確かである。母がその孫思いの姑の前でそのことを嘲笑気味に言い、拒む口実にしたことを私はうっすらと記憶しているからだ。
私がその場でどんな感情を持ったかは覚えていないけれど、今思えば随分残酷な場面だった。さぞ祖母は悲しい思いをしたことだろうと思う。母は歌や芸能が好きな、感性の豊かな人間で、私たちには優しかったけれど、また癇の強い面もあったことを私は様々なシーンで記憶している。

私たち家族は随分貧乏だった。母はもちろん大家族の切り盛り役として大層苦労したと思う。夫婦間も貧乏が主因でうまくいっていなかった。しかしそれ以外の姑と嫁という関係は(少なくも母の立場では)問題はなかった。祖母も祖父(既に会社を退職して無収入だった)も母には少なくも権力は及ぼさず、優しかった(と思う)。
今のような国民年金などという生活保障制度のなかった時代(いわゆる「国民年金法」は昭和34年、つまりこの祖母の死の翌年成立した)、経済力ゼロ以下の老人たちは現役世代の身うちにすべてを負い、結果として全く無力だったのだろう。もちろん例外もあっただろうけれど、わが家族においては彼らの次世代に対する優しい態度だけが印象に残っている。

そういったことを思うとき、私は今度の遷骨と墓の移動の機会に優しかった祖母の回忌供養が重なったことの偶然と、それらをあわせて執り行うことの意味が増してくるように感じられるのだ。

寂しかった密葬の時から半世紀、貧乏で苦労した貴方がたのお蔭様で、少しは私たち家族も余裕を持てるようになりましたよという、そんな感謝の意をこめたささやかな儀式と報告が、ひょっとしてその墓の住人たち先祖のひとびとのこころに伝えられただろうか。







(192)東京原発2


前回原発の危険についての映画のことを書いたが、それと前後して日本の原発管理に関してのトラブル隠しが相次いだ。それについてのいくつかの論評も各紙に出ていた。

それらを読むにつけても、原発を動かしている日本の現状に危機感を持っている人間が少ないことに驚くのである。

著名な女流作家氏は「ここ当分は(原発の)お世話にならねばならないのだから--。」という表現だったけれど、ともかく現状是認という考え方だった。

例によって体制べったりの大衆全国紙Y新聞は、原発を地球温暖化対策の一環としてなお重要視している。これからも新規に建設せよという積極的な立場だ。原発が環境に優しいというのはまったくの詭弁なのだが、分かっていない。

行き詰まっている高速増殖炉の開発を民間へ投げて競合させ、三菱重工業が受注したという記事も最近見た。

溜まりすぎた史上最悪の危険物質プルトニュームの処分に行き詰まっての悪あがきなのだ。先進の西欧各国が技術的に諦めた危険極まりない幻想的装置に日本はなおも固執し、巨額の資金投入(これが自己目的なのだろうが)を継続していくようだ。

日本では国家的な巨大プロジェクトの方向転換は困難だというひとつの典型がここにもあるのだろう。金の亡者の船頭たちは沢山居て、舵取り役の不在という情けない日本の現状は、破産しかけたこの国家を見れば誰かが何とかしなければ(誰が、といっても、政治家という国家リーダーに決まっているが)という危急の問題なのだが。

これらの問題は全部関係しあっている。

原発を止めねばならないことは自明なのだが、その無駄になることが分かっている分野への相も変らぬ巨大投資(再処理、MOXなど、増殖炉以外にもいっぱいある)がのさばり、近未来のエネルギー開発のための先行投資を情けないほどにか細いものにしている。太陽発電の補助金だって止めてしまった。これでは日本の未来はないだろう。前回紹介した映画「東京原発」でもその分かり易い説明があった。

ここでは、原発にはどんな問題があるのかということをまとめておこうと思う。

 

原発に固執しなければならないという主張のポイントは以下の通りだ。

1、原発を止めたら電気が足りなくなる。

2、原発のコストは石油による発電よりも低いし、ウラン燃料の資源も豊富だ。

3、原発は安全である。

これらの主張は既に1980年代の終わりまでにはっきり否定されているのだ。

1、に関して言えば、電力需要は日本では既にピークに達しており、真夏の甲子園大会の時も原発を動かさなくても予備の石油火力を総動員させれば充分対応できる。むしろ電力各社は電力余りに困り果ててエコキュートなどばかげた新規民間電力需要を掘り起こしている。
ただ、今すぐ全原発を停止するのは非現実的かもしれない。石油をそれだけ大量に継続的に未来にわたって浪費することは出来ないからだ。それに代わるエネルギー源を開発し、確保しなければならないけれど、現状で原発関連に固執しているとそれが出来ないということだ。

2、についても、燃料の濃縮ウラン価格は石油に比べてその上昇率が際立っており、ことに最近では中国が戦略的に資源を買いあさっているために更に上昇している。ウランは石油なんかよりも資源が偏在し、寡占化が進み、しかも枯渇が進んでいるのだ。そして、これが一番の問題点だが、原発のコストは燃やした後の核廃棄物の始末について全く加算していない。核廃棄物、特にプルトニウムなどを含む高レベルのものの始末はまだどの国も成功していないし、これからどれほどコストがかかるのか、誰も計算できないという。これを入れれば、現状のトントン(と発表されている)がはっきり石油なんかよりもコスト高になることが明らかなのだ。

3、どんな設備でも人間が介在するので完璧に安全ではない。原発がことに危険なのは、一旦大事故が起こるとチェルノブイリの例で実証されたように地球規模で悲惨な被害を蒙るということ(日本で起こったら全土で人が住めなくなるといわれる)だ。これは放射能の拡散が避けられない原子炉の宿命とともにその基本構造的なものによる(何年分ものエネルギーを予め溜め込んだ状態で運転するために、状況次第でそれらが全部燃え出す=連鎖的に反応する=いわゆる核の暴走という危険を排除できない。つまり比ゆ的に大型核爆弾を抱えて運転しているというわけだが、チェルノブイリではまさしくそれが起こった)こと、必要なメンテナンスが内部放射能のために充分に出来ないから、老朽化すれば事故の危険もそれだけ高まるということがいわれる。

ちなみに、チェルノブイリ事故の時、旧ソ連の原子炉は欠陥があり、日本はそのタイプではないから問題はないという公の発表があったが、それを言った体制側の技術官僚が事故前には「ソ連の炉は最新式であり、最高の技術で開発されたものだ」と絶賛する発言をしており、しかも事故の後にも内部文書では、”細部まで改良を重ねたよく出来た炉だった”との言葉が記録されている。原子炉自体には責任はないということの傍証だろう。ただ、”どこの炉でも同様だがやはり暴走事故は想定されてはいなかった”とも認めている。ミス操作があったともいわれたが、当事者たちは皆死んでいて、裁判も公表されず今もはっきりしない死者の総数などとともに事故の真の原因は不明なのだ

ノーモア・広島、長崎 というのも重要だけれど、こういった身近な原発問題を蒸し返すのも必要だと思う。少々古いが私の読んだ原発関係の本を紹介しておく。

ネット上にも沢山の関係サイト、反原発サイトがある。時間があればついでに立ち寄って欲しい。

チェルノブイリの現状ルポ サイト




(191)「東京原発」


嫌なことに自ら直面する勇気を持つ人間は少数者だ。

その嫌なことに責任を持っているものでなければなおのこと、見て見ぬふりをするのは成り行きだろう。しかし、その嫌なことに、誰もが嫌でも直面せねばならない時期が近づいているとすれば、見ない振りをするのは偽善であるばかりではなく、無責任きわまりないということになる。

地球温暖化現象を直視し、勇気を持って旗を振り上げたアメリカのゴア氏はまさしく勇気ある責任者だろうと思う。

嫌なことの代表的な社会問題が「原発(原子力発電所)問題」。


この2つの問題は今奇妙な関係にある。

原発が二酸化炭素を排出しないから環境に優しいとかいう屁理屈でまた復活をもくろんでいる輩もあって、多少ややこしくさせているのだけれど、これはいわゆるためにする似非議論であり、この問題は既に結論が出ていると私は思っている。



原発(原子力発電所)問題」、原発推進の愚を正面から取り上げた映画をDVDで見た。


2004年公開 山本元監督・脚本  役所広司 段田安則 平田満 岸辺一徳 吉田日出子 などそうそうたるキャスト。「戦慄のパニック・エンターティンメント」の惹句に嘘はなかった。面白く、ためになる深刻な社会告発ドラマだった。
皆に見てもらいたいので、いつものようなネタばらしはしない。
必見だけれど、公開時はさほど話題にならなかった。私も気がつかなかったほどだ。マスコミは何をやっているのか!体制側の陰謀なのか?残念だ。

原発はまことに危険な社会の時限爆弾であり、それも核爆弾そのものなのだ。海に常時大量の温水を垂れ流して熱汚染し、猛毒(プルトニウムなど放射能性廃棄物)を撒き散らしかねない設備が環境に優しいなどとどうして言えるのか。猛々しい!

原発は世界から一刻も早くなくさねばならない。

既にドイツなど先進の賢明な国々は既にそのプログラムを作って一歩踏み出している。
先進国の義務として、日本も早く他の後発の国々に範を垂れねばならないのだが、国の指導者たちは問題から目をそむけたまま、成り行きに身を任せようとしている。

おろかで、勇気のないやつら。

この現代最大の嫌な問題。原発の危険性を早くから告発し、過去数十年来ずっと声を上げ続けている広瀬隆氏もまた勇気ある日本人のひとり、代表者だろうと思う。
氏のノンフィクション「東京に原発を」は首記の映画の原案だ。1979年3月に起こったアメリカのスリーマイル島原発事故を受けてその3年後の1982年3月に出版され、その4年後1986年4月26日に起こったチェルノブイリ原発事故から一年後に発刊された「危険な話」とともにどんなスリラーよりも怖いドキュメンタリーとして誰もが読まねばならない名著だと私は思うけれど、その告発は果たして充分有効だったのだろうか。


(集英社文庫) (新潮文庫)


原発は日本において以後も増え続け、ようやく最近建設が止まった、と思ったら、またぞろ復活がもくろまれている。暗愚ブッシュもからむ米のウランマフィアの手先になりさがった日本国内の巨大な利益共同体は彼ら自身のちっぽけな利しか見えていないちんけな悪、全く懲りないやつらなのだ。


最近の当局が見せる姑息で悪辣な事故隠しを見るにつけても、かように危険な原発は世界から一刻も早くなくさねばならないことは明らかだ。

チェルノブイリに続く大事故の日が迫っている。日本でそれが起こったら、わが国は全土が放射能汚染され、それこそ廃墟になるしかないのだ。その現実を直視しなければならない。山野が荒廃することは巨大ダムなんかの比ではない。あるいは温暖化の問題よりも火急的で深刻なのであり、少なくも両方とも現代の文明を見直さねばならない根の深い、難しく複雑な問題であるために、出来るだけ早く取り掛かり社会思想の転換が望まれるのだけれど。

これはチェルノブイリ事故にみられるように、一国のみならず、世界規模が影響を受ける政治の問題なのだ。


こういう真摯な映画が作られたことで、まだ日本にも希望があるとは思うけれど


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