(191)「東京原発」へ飛ぶ



190)妻と社長と九ちゃん

 

劇団青年座第188回公演直方ユメニティ 3/23。
去年「菜の花ラプソディを観たが、あれは「青年劇場」だった。観る直前まで同じ劇団かと勘違いしていた。世には随分多くの劇団組織があるのだ。失礼なことだった。しかし鑑賞後、名前同様よく似た傾向の劇団だとも思った。ソフトな人情劇風社会派とでもいうのか、これは戯曲の内容からの印象だけれど、取り上げるテーマは、この青年座の前回公演が以前無名塾で見た「深川安楽亭(いのちぼうにふろう)」だったということで、これもちょっと見当違いなのかもしれない。

何にせよ、劇団というものはどんなテーマを持った劇でもそれなりにこなせるという技術、実力を持つことが理想なのだろう(観客がつくかどうかは別にして)。シェィクスピアであれ、現代劇であれ、喜劇でも重厚な社会劇でも、観客の要望があればやっていくべきなのだろう。例えばプロのオーケストラがバッハでもマーラーでも平気で演奏するのと同じように。もちろん構成員の個性にもよるだろうし、可能なレパートリーの数もオーケストラ(の持つ楽曲)などとは比較できないだろうとは思うけれど。

それで表題劇。鈴木聡 作 宮田慶子 演出 面白い表題は、昭和文具という一族経営の創業社長春日浩太郎(山野史人)とその若いホステス出身の後妻佐和子(増子倭文江)、そして社内でさほどの能力もなくひとり浮いた存在である総務課長54歳でまだ独身の森島三郎(岩崎ひろし)、若くして禿げたために(毛が3本)オバ九の九ちゃんというあだ名を賜っている。この3人(それぞれ好演)が劇の主人公なのだ。

昭和文具は社員と地域、そして顧客ともども家族同様に見做し、広い敷地をイベント広場にして地域の住民にも解放し、春は花見、夏は盆踊り、秋は運動会、冬は餅つきなどと称し、更には主要な商品だった算盤の私塾教室なんかも開いて近隣の子女の便宜を図ることで会社の利益を皆に還元しつつ業績を伸ばし、繁栄してきた(この設定が素晴らしい)。いわゆる伝統的日本型家族経営の見本のような会社で、それを長い間連綿と実践して来た浩太朗社長の人柄を若い妻佐和子も九ちゃんも慕ってきた。

世はは変革と競争の時代。ワンマン社長も寄る年波には勝てず、アメリカに留学させていた息子昭一(横堀悦夫)を跡継ぎにという意図から呼び寄せ、取締りに据える。この息子が存外なやり手(やりすぎ?)であり、外資系の会社から優秀な社員を沢山引き抜いて来たり、企業コンサルタントを雇ったりして親父の思いとは裏腹にずんずんグローバルな社内改革を推し進めていく。
社の幹部はきびすを返すようにして昭一次期社長になびき、彼を中心にして結束し、頑固一徹の親父は次第に疎外され、しかし同じく総務課長の閑職でそれらの動向についていけない九ちゃんとはよく気があって、いつも身辺に置いて体のよい雑用に使っている。
会社なんてものはしょせん人間の集まりだよ。

優秀なやつばかりだったらぎすぎすして居心地が悪い。

君(九ちゃん)みたいな奴がたまにはいるから会社も悪くないところだと思える--
佐和子も息子昭一のいびりに耐えながら、それなりの存在感を見せつつも、3人三様ともども現実主義の会社幹部連中との溝に悩んでいる。
妻が固く言い渡していた禁酒を破った社長と九ちゃんの花見での企みの破綻、また社長の“ばつ2”娘美奈子(椿真由美)との淡い恋、つかの間の楽しい夢と失恋などのエピソードが絡み、いよいよ昭一の強引な社長就任、それに伴う本社家屋とイベント広場の売却などが進められる間にも、会長へ押しのけられた浩太郎の突然の死で劇は急転、その通夜で喪主を辞退した佐和子の籍がなかったこと、故人への愛情が金銭ヌキの本物だったことがあきらかになる。
そんなことも知らず相変わらず後妻への悪口を漏らす昭一社長への幹部連中の追従べんちゃらが度を過ぎて行われているのを眺めるうちにも、亡き社長への九ちゃんの思いと鬱屈が限界を超え、辞表をポケットに忍ばせながら自身の会社での立場を自爆させるクライマックス--
----”変わらねばならない”って?(世間の)みんなが変わるから変わらねばならないと思っているだけでしょう!

社長は自分の考えで、一番いいと思ったところで時計を止めたんです。

”花見が古い、運動会が古い”って言われても、そういう会社がいいと思ったから社長は---。」
ここでで我々はこの破れかぶれ的な昭和の回顧的反乱が、現今はやりであってゆき詰まり気味の金権的現実的世界標準個人主義(いわゆる小泉流?)を一挙に超越できるかもという一縷の希望を認識させてカタルシスを満足させるのである。

一人の(魅力的な)人物像を描き出す上でその故人の葬式、ことに知人が集まる通夜という場は実に格好の舞台になるのだけれど、この劇も実にドラマチックに盛り上げて感動的な舞台を作り上げている。

自爆した負け組九ちゃんの同期生で今は取締りに出世した勝ち組田所部長(田中耕二)はネットで立ち上げた”ラーメン好きHP”では結構会社の批判を繰り返す複雑な役どころであり(ネットの匿名性は万全なのだろうか?)、最後に九ちゃんと仲直りすることで劇全体をまとめ救っているのかもしれない。






(189)ドリームガールズ




米のメジャーな人気歌手、人気俳優が何人も出演してショー(劇中でのステージ)を演じる、いわゆるザッツ・エンタ−ティンメント形式の音楽劇。深刻なセリフがすぐそれ自身聴き応えのある歌唱シーンになっていくという、これはやはり一種よく出来たミュージカルなのだろう。それも今が旬の美人歌手ビヨンセ・ノウルズ、大御所のエディ・マーフィー、実力派ジェィミー・フォックスなどが四つに組んでのシリアスなアメリカン・ドリームを繰り広げる。エディ同様に汚れ役ではあるけれど、それ以上に重要なバイプレーヤーとして存在感を見せた今年度アカデミー助演女優賞のジェニファー・ハドソンなど皆それぞれ歌唱力演技力に実力充分の俳優たちが揃ったからこその充実した二時間二十分になった。

深刻なセリフ、シリアスなドラマとか書いたけれど、これはいわゆる美男美女が軽薄な恋愛劇を繰り広げて様々ありきたりのしがらみとエピソードを通過し、最後はめでたし、というような物語ではない。私は全く門外漢なのだけれど、これは黒人が彼らだけの社会でほそぼそとショービジネスをやっていた‘60初めの時代から、様々な苦しみと努力、更には白人の向こうを張ってギャングたちの力をも借りながら権謀術数を繰り広げて白人たちの世界へ打って出、かれらを圧倒し、世界のメージャーへと躍進していく(例のM・L・キング牧師の演説レコードなども織り込まれた)過程を、事実に基づいて描いた感動的スペクタクルなのだ。

そのひとつの偉大な指導者であり旗手、辣腕のカーセールスマンからのしあがったカーチス(J・フォックス)の強引なやりくちと人柄をグループや周囲の黒人アーチストたちが誤解しまくることでこのストーリーのシリアスなドラマ性が生まれてくる。

バックコーラス「ドリーメッツ」として出発した3人組の実力をめざとく認め、最初の愛人にもなった中心のエフィー(J・ハドソン)をリードボーカルから格下げしてディーナ(ビヨンセ)を主役へ据えるという過酷ではっても理にかなった決断。斬られたエフィーの嘆きと号泣が激しくも悲しい圧倒的な歌唱場面になって胸を打つ。
真の指導者はいつも周囲の無知な駒の感情を逆撫でし、自身辛い目にもあいながら自己の目ざす方向へ進めていかねばならない。人生においては実力必ずしも目的に合致した実力ではないという残酷な現実を私たちはもっと冷静に見つめ、理解していかねばならないのだろう。


それにしても最初のころはただの平凡なコーラスガールに過ぎなかったディーナが、次第に認められ、リードボーカルとして新しいグループをまとめて飛躍を遂げる頃には、見違えるように燦然と輝く超美女に変貌していく、このあたりのドラマチックで自然な流れは見事である。いや、ビヨンセは素晴らしかった。私たちにはやはり彼女は(ルックスを別にしても)エフィーの歌唱よりもよほど魅力的だと感じてしまう。音楽性とは何か?ソウルとは?黒人音楽というものをしっかり理解出来ない我々の限界なのかもしれないけれど。




彼らが創造した音楽が軟弱な白人歌手の歌として盗作されて歌われる。そんな犯罪まがいのことが黒人歌手同士でも行われることになり、彼らの地位の向上が理解できる。ディーナはとうとうハリウッドからも(妖しい役ではあるが)主役級の誘いすらかかることになる。私には必ずしも悪役として描かれたとは思えないカーチスから独立した彼女たちの未来はどうだろうか。




(188)国家の品格

 
異様な大胆破廉恥犯罪が最近よくニュースになる。普通の若者がひったくりやら万引きを平気で繰り返すということもよく聞く。昔は聞かなかった。
今の日本のモラルがどんどん悪くなってきていることを実感する。

もっとも、凶悪犯とか刑事犯が増えているという傾向はみられないという。
素人が身の程知らずにいちげんの犯罪を行う(したがって洗練や仁義に欠ける)ということが多いらしい。
身近にあった交番が最近廃止されたということもあるし、治安が目立って悪くなっていることもないらしい。ま、私のような地方の田舎に住むものには分かりにくいことかもしれない。
しかしTVなどを見れば、ホームレスや路上生活者が私の都会生活時代(40年近く前、8、9年前の2回)に比べて格段に殖えていることが分かる。格差社会なのだ。極端な貧乏が増えたのだ。

教育現場の荒廃は中でも最大の問題かもしれない。


国家の品格新潮新書 2005.11 初版 07’1 41版 という本が書かれた動機はそんな社会現象に危機感を持ったことによるという。この生得のエリートたる国際数理学者の著者によれば、こんな現象は先進国の共通した悩みであるらしい(これは一応“ほっとする”情報ではあるが)。

著者藤原正彦氏の分析に寄れば、これは世界経済が米国発のグローバルスタンダードで一元化されはじめていることが最大の原因なのだという。極端な例として世界の金融市場がデリバチブなどという手法のせいもあって、ほんの一部の大金持ちに牛耳られて危機的状況にあることがあげられている。
グローバルスタンダード。要は小泉イズム、何でも市場原理でやれば社会は活気付き、繁栄に向かうという、あくまで論理的な合理精神に基づく自由主義、実力主義、民主主義である。このやりかたが行き詰まってきたことが最近の先進社会の荒廃の現象なのだと。

確かにその通りだ。要は世界規模で強者が経済的に、政治的に、暴力的に存分にのさばり、やりたいようにするというシステム(ま、これは米国が世界に押し付けたシステムというよりも、米国の凶悪化肥大化によって世界が必然的に、進化論的にそうなってきたということだろう)なので弱い国、弱い人間たちが搾取され尽くし、疲弊するのは成り行きだ。しかも強者の論理以外何の道徳律もないわけだから、犯罪が増えるのもあたりまえということだろう(米国のやっていることが犯罪だという考え方もある)。それに対応する法律の整備が急がれるのだが、強者は自分の手足を拘束する規制を嫌がって成立を遅らせる。これらも当然強者の論理、ダブルスタンダードでなされているのだ。

現行の西欧始源米主導の自由、平等、民主主義の考え方がいかに問題の多いシステムであるかと氏は分析する。それらが戦後の日本を、米国社会を駄目にしてきたと。

たとえば、ひとりの自由(したい放題)は周囲の人間を不自由にすることになる。万民が平等になるということはありえないし、民主主義は市民全体のレベルアップが前提となるので、百年河清を待つようなものであり、結局いわゆるポピュリズムになることを避けられない(今次大戦前でも連盟枢軸の双方が民主主義体制だったが、あのような戦争を防げなかった。これからも民主主義では戦争はなくならないだろう)など。

ここまではいい

ではどこに抜け道があるか。真のエリートによる大衆指導、(つまり集団哲人政治?)が理想に近いという。戦前の日本にはそういったエリート養成機関があったというのだが、やはりあのようなばかげた戦争は避けられなかった。)


さて、氏が繰り返す言葉として、論理的合理的精神というものの限界と、それだけで事を進めていくと上述のように間違うことになるということで、この考え方の先に後述する日本的武士道精神などがあるのだけれど、この飛躍する前の考え方そのものに私は至って安直な我田引水的非合理的精神が感じられてどうも納得いかないのである。

論理的な考え方そのものには元来何も問題はないはずだ。
人間はもっともっと、徹底して合理的に、論理的にならねばならない、と私などは思う。今の世界に蔓延している閉塞感は、なにも論理的に行き詰まった結果ではないのだ。論理そのもの、論理の使い方に欠陥があり、論理の前提となる出発点を含めて間違っているから多くの問題が噴出しているのだと思う。


第一、論理が正しくなければその過程を含めて他者を納得させることは出来ないだろう。

米国の力の論理はその間違いの最たるものであり、間違いが他者に見えるからこその混乱なのではないか。そのような分かりきった間違いをそのままにしておいて世界の舞台へ武士道精神を持ち出してもことは全く解決しないと思うがどうだろうか。

氏がもうひとつ力説する、重要なことは論理では説明できないから、これらは押し付けねばならないというのは明らかに論理の破綻というべきもので、これが教条主義でなくて何なのだといいたいところである。

全世界の指導者がこれで悩んでいるのだ。

「殺すな」

「姦淫するな」

「盗むな」

「神を敬え」

四番目は余計だが、昔の賢人の言葉、これだけのことでも人間は守れなかった。
人間が賢くなりすぎたからだ。少なくも世の中の多くのひとたちを納得させられるだけの理由、論理でこれらの命題を補強しなければならないし、それはなされてきた。これからもそういった努力はつづけねばならない。武士道精神しかりである。それが国際化というものではないか。


氏の主張を続ける。これからはグローバリズムでなく、ローカリズムでゆかねばならないという。
各国がその国に適した価値判断で運営していかねばならない。
日本については明治以前からある日本古来のものの処し方、論理的ではない武士道精神で代表される情緒と形を重んじる考え方で社会を処していけば突破口が開ける、というものだ。その普遍的な価値は世界に通用するものだとも。例を挙げれば、単なる実力主義でなく、家族主義的な年功序列型のほうが会社経営には優れているだろうと。

日本が本来持っている世界に冠たる文化、情緒と形を重んじる独自の考え方は行きづまった世界を必ず救えると著者は主張する。愛国主義ではなく祖国愛(ナショナリズムでなくパトリオティズム)でゆくべきだとも。

氏が日本を持ち上げる姿勢は凄まじく、日本人ならば誰もが思わずほろりと涙をこぼし、国粋主義者になってしまうほどだ。いわく日本の美と自然情緒の感性は世界最古で普遍の価値があり、独創的であり、それらを身につけることで国際人としての資格が備わるのである云々
戦後とみに低落の一途を辿ってきた日本の品格は著者に寄れば、まだまだ捨てられたものではない。ひとつは美しい美しい四季からなる自然、もうひとつは神や仏や自然にひざまづく心、そして役に立つもの、金銭などを低く見る心、それらを論理的な考え方の根底に置いて世界へ対処していけば、必ずや尊敬され、指導的立場に立てるだろうという。農村の美しいイギリスが日本の半分のGDPでありながら世界で政治的に指導的立場にあるように。

日本人を勇気付け自信回復の一助となる一冊であることは確かだろう。そういう意味で昨今の右傾化に沿った毒のない時流ファッション的読み物であるとして差し支えあるまい。

私も賛同したいことは、やはりこれからの日本の教育には国語、数学、そして情操教育が最重要だという主張だ。更に、どのような方法があるか分からないけれど、国家的事業として超エリート教育は絶対必要だろう。国の世論をリードしていくジャーナリスト、マスコミ関係者には特に志の高いエリート人間たちが必要だろうと思う。 




(187)墨攻

 

香港映画「墨攻」を観た。原作は日本発のコミック!森秀樹 久保田千太郎の全11に及ぶ長編活劇を私は夢中で読みふけった時期があった。これは10年以上前のビッグ・コミック連載の人気漫画なのだった。香港の映画人がこのコミックを読んで映画化を企画したというのだけれど、これには更に原作があって、同名の小説(酒見賢一)‘91年刊 新潮社を私は最近読んだ。これは映画を観る寸っと前の体験だった。

結論を先に言っておくが、この種のものではあまり例のない、信じられないことだけれど、映画、コミック、小説の三者三様の面白さ、それぞれの味を生かした秀作、傑作になっていて、どれも体験するべきだと思った。強いて言えば、中でもやはり映画の持つスペクタクルな説得力は他の何者にも勝るということだろうか。何にせよ舞台は古代中国で日本、香港、中国、韓国の映画人の合作(こういうことが現実に起こっているということが、嬉しくなってくる)、グローバルな香港映画制作陣の手馴れた語り口まとめかたは中でも特筆に価する。ともかく(他の二者に比べてべらぼうな)ひととカネがかかっているわけだし。

紀元前の古代中国、伝説の戦闘集団「墨家」があった。彼らは極めて優秀、実戦部隊はもちろん、シンクタンク的な頭脳集団という性格もあり、当時の小国が争い群立した戦国時代にあって恐れられ、また群小国家から頼りにもされた。彼らは特殊な哲学「兼愛」を信奉し、戦いにあっては攻めるよりも守りに徹するという方法を取った。つまり専守防衛(どこかで聞いた文句だ)。

墨守」という古い言葉の方が有名である。多分、この言葉から思いついたのだろうが、酒見賢一の秀抜なファンタジー小説(内容の殆ど全部が作家のフィクション)の設定が冴える。しかし、なぜ小説の題名(そして以後の各作品の題名も)が「墨守」でなく「墨攻」なのかという疑問は当然出てくるが、それはこの際問わないで置こう(ま、題名としては支離滅裂ではあってもパンチがある方を取るということだろう。これはこれで成功している。彼の出世作「後宮小説」といったたぐいのノンセンスな面白さではあるが、このほうがもうちょっと哲学的かもしれない)。

名将の誉れも高い巷淹中(アン・ソンギ=韓国)率いる十万の趙軍に攻められた孤城都市梁国は兵人民あわせても四千。救援を墨家に仰ぐが、やってきたのは革離(アンディ・ラウ=香港)という若い戦術家たったひとりだった。国王梁渓(ワン・チーウエン=中国)は不満だったが専守防衛で1ヶ月も城を守り抜けば敵は退くと言う男の説得力に掛け、幹部大将軍、王の息子の梁適(チェ・シウオン=韓国)などの反対を押し切って彼に全権をゆだねる。
革離はただちに城郭の大改造を含む様々な攻城に対坑する備えを実施し、その公正さと叡智、無私で無欲、夜昼を問わず働き続ける勤勉さで全軍のみか城内の人々の信頼を一気に得てしまう。やがて趙の大軍が現れるが、数次にわたる猛攻撃も革離の提案した様々な防城の工夫と城内総員の死力を尽くした防衛によって退けてしまう。国主の側近で高官の娘逸悦(ファン・ビンビン=中国)は近衛騎馬隊長だったが、革離の人となりに次第に惹かれていく---
連戦の大勝利に人民の革離への人気が高まり、おさだまりの上層部の嫉妬心から城を追放された革離の最後の大どんでんがえし(これはコミックより)。最初は非常な反感を抱いて遠ざかっていた梁適の革離への接近と死(小説の反対)など映画としての独自性もよくこの活劇の物語性を高め、納得のいくシナリオだった。「兼愛」、敵の侵略から守り抜くことで両者ともに最小限の犠牲にとどめるという革離の反戦思想もよく理解できるものだったし、美女騎兵逸悦の活躍などこれらの小説、コミック双方の「墨攻」からの見事なアレンジメントが映画の優れた面だったと思う。革離のアンディ・ラウはじめ皆実に適役でよかった。

 コミック「墨攻 1巻

以下は蛇足である。映画はほぼ小説と同じ枠の物語りをすっきりと描ききったのだが、コミック「墨攻」ではこの梁城の巻は4巻まで。以後は小説に数行触れられた墨家の内紛と矛盾をとっかかりにして更に大きなスケールで続いていくのである。映画でも続・墨攻が待たれる所以だろう。



(186)間人がに

 

男であることの醍醐味は酒、女、賭け事だとどこかに書かれてあった。
私は酒は程ほどに好きだが、日夜問わず呑みたくなる(実父は中毒的体質だった)ほどではないし、呑んでいいときもめちゃ呑みはしない方である。あまり強くないということもある。

女についてはひとなみかどうか、ほどほどなのかどうかここでは言及しない。
賭けごとには近づかない。というよりも勝負事には才能がないことを自覚しているので興味を持たないことにしている。
だから、私は快楽追及において禁欲主義者ではないけれど消極的な、控えめに言って徹底した人間ではないと思っている。こんな人間が文芸などの道にに深く入れるわけはないのだが、このことについても今回はあまり言及しない。

しかし、最近私はいわゆる湯の快楽に目覚めつつある。
湯、温泉、つまり入浴、風呂の快楽である。これについてはいつだったか読んだ和辻哲郎氏の名著「古寺巡礼」の最初のあたりに、西洋人の事務的なそれに対する日本人の風呂好き(享楽的と書かれてあった)が指摘されてあり、これは至言だと感心した記憶がある。

もっとも、つい最近まで、私自身は風呂を面倒な事務的習慣としか考えていなかった。身辺に余裕が出て家族と愉しみで旅行することが年に数回に及んで、とうとう大きな湯舟(出来れば温泉、もっと贅沢をいえば露天風呂)にゆったりと浸る快楽に目覚めてしまったようだ。
妻を含めて女たちの風呂好きが理解できるようになった(若い男女の世代も、横着が身についているにもかかわらず風呂が好きなようだ。これには正直いって理解できない面がある)と言うことかもしれない。

近隣に一町一品というに等しいスパ(公共スーパー銭湯、あるいは冷泉沸かし湯準温泉)が多く出現し、機会が増えたのも理由としてあげられるだろう。多い月は週一回から少なくも月一回のペースで金(¥300800)を払って入湯しているのが現状だから、家の湯にも満足に入らなかった数年前には考えられなかった湯三昧である。

人生の快楽にはもうひとつ、食道楽(今はグルメ=食通とかいうらしいがこれらはちょっと違う)がある。これも、家族旅行で宿泊先の過度に贅沢な夕餐をいただくのは一面まことに楽しいことではあるのだけれど、これは私自身本音をいえばいつもかなりの罪悪感が伴うことなのである。いわば、本当に楽しんでいるわけではないのだ。

つまり、まだ私は食道楽の何たるるかを、あるいは今風に言えば「グルメ=美食」の楽しさをまだ分かっていないということだろう。現に一人旅の時はいつも一番安いビジネスホテルに素泊まりし、近くのラーメン屋でまずいと分かっている餃子定食などを夕餐に済ませるような習慣を墨守しているわけであるから。

風呂も美食も男の豪快さとは異なり、どちらかといえば女の道楽といえるのかもしれないが、有名な道楽者の小原庄助さんは連日の朝風呂で破産したということだから、そうばかりもいえないだろう。

ここまではまくらである。


この二月初旬、妻の実家から現地でCMされ話題になっている丹後半島の「かに」を食したいがどうか(企画して連れて行ってくれ)、という誘いが来た。私は上記のように食道楽ではないし、それに「かに」は美味ではあるが手間ばかりかかって得るものは少なく、好みとはいえない。ただ、妻は大層好んでいて、よくなべに入れて自分で飽くことなく最後までせせりついばんでいる(私はもっぱら豆腐や糸こんにゃく、ちりだんごなどの消費を担当する)。

彼らの総意はよく理解したので、実家の情報にもとづきサイトで調べ、彼らの目的する「かに」は「間人(たいざ)がに」だということが分かった。冬の味覚の王様ズワイ蟹を水揚げ漁港のそばで、新鮮なままを味わおうという。丹後半島の日本海側にある最近売り出しの小さな漁村の名を冠したブランド品。それが昨今なかなかの人気、経験者によれば味も良し。ともかく甘くて量的にも申し分ないという。
老舗の福井方面の越前がにブランドなどとも比較して、間人がにが廉価なことも確認した。

難は間人が交通に至便とは言いがたいことで、冬の山陰につきものの降雪が心配だったが、ともかく私としては温泉に入れるという条件の元に宿泊先(かにを食わせてくれるところ)を選定し、家族もろともマイカーで訪れる計画を立てた。
結局、雪は降ったものの積もらなかったからラッキーといえたが、天気には恵まれなかった。間人は敦賀から4.5時間、舞鶴からも2時間かかる。関西方面からは高速道路が伸びつつあり、道は更によくなる方向だけれど、私は例によって何度か道に迷った。やはりカーナビが必要だろう。
足のことはそれくらいにして、本題に移ろう。かにのフルコースはともかく素晴らしかった。以下に内容を記す。

カニスキ、カニしゃぶ、焼ガニ、焼甲羅みそ、カニ刺し、さしみの4種類、カニ雑炊、

カニ天ぷら、カニ酢、ゆでガニ(丸1匹付)


カニ3匹半使用


かに食の難点は殻から身を取り出す面倒さなのだが、席では仲居さんが数名つきっきりでこれらの段取りに関わってくれた。さしみ、かに刺し、カニテンプラ、かに酢を味わっている間にカニしゃぶが可能となり、やや遅れてカニスキも炊き上がる。それらを味わっている間にも席のそばで炙られていた焼き甲羅みそ、焼きガニなどが香り豊かに続々と目の前に並び、私たちは生まれて初めて体験するかにづくし、豪華な味の饗宴に心身からとろけてしまった。
とうとうゆでがにまでは食べきれず、おみやげに包んでもらうことにして、最後のなべ定番かに雑炊で末尾を飾ったのだが、おみやげ以外にも食べおおせなかったなべの中の残りかにの身を仲居さんは丁寧にせせりだして雑炊に混ぜてくれた。このサービス精神には脱帽であった。

冬の味覚ずわいがにはやっぱり王様というに値する。私は年来の見方を転向することにした。

もうひとつのポイント、食前食後に入った展望温泉もなかなかのものだった。日本海の波しぶきが音とともに窓辺に漂ってくるような見事な景観が楽しめた。夏は海水浴客が水着のまま飛び込んでくるという立地の良さだ。

間人がにをたっぷり味わえる私たちと縁のあった温泉宿は「漁火亭」栗山千秋似の美人女将の印象も良い土産になった。3月一杯はかにシーズンですと。



(185) オセロー

初めてナマのシェイクスピア劇を観た。幹の会 + リリック 訳小田島雄志 演出平幹二郎 2/5 直方ユメニティ。
商業都市国家ヴェニスが地中海の覇権をとなえた16世紀、ムーア人の将軍オセロー(平幹二郎)は元老議員の重鎮ブラバンショー(坂本長利)の反対を押し切って押しかけた美しいデスデモーナ(三田和代)を妻にすることを決心した。彼の部下で旗手のイアーゴー(平岳大)は自分がなると思っていた副官の地位を同僚キャシオー(大滝寛)に奪われたことに不満を持っていた。彼は将軍の妻に横恋慕するロダリーゴ(渕野俊太)を使い、またキャシオーの酒癖の悪さにつけ込み、一徹な将軍をうまく騙してと新妻との間を裂くとともに副官の地位を得ようとする。そのたくらみはうまくいき、オセローと妻との関係は険悪になっていく。あくまで夫に心を繋ぎとめている哀れな妻を、オセローは憎さ余って絞殺してしまう---

こういった古典劇は筋が判っている分、劇の進行自体を楽しむことよりも、いきおい主役や好きな役どころ、クライマックスなど見所がどんなふうに演じられるのかという期待が大きいのはたしかだ。もちろんわたしなど初めて観る素人観劇者には、定評のある重鎮、圧倒的な大役者である今回の主役のオーラをただ陶酔しきって愉しむという観劇方法は間違っては居なかったと思うし、事実楽しかったとは言っておく。平幹のオセローは素晴らしかった。その貫禄、台詞回しの輝かしさ、などなど---

ただ、舞台全体としてはちょっと物足りなかった。上記の通り、私はシェイクスピア劇は初めてだったし、「オセロー」のすじもさほど熟知しているわけではなかった。それで、初心者としてはやはりオーソドックスな劇を観たかったというのが正直なところであった。

今回の演出の新奇なところはいわゆる準主役の悪役「イアーゴー」に集中している。彼は舞台となっているヴェニスの植民島キプロスでなく、もっと西の、さる無名の島という設定から、スペイン人の傭兵あがりの、それも27,8の若者ということになった。この重要な役に抜擢された平幹の息子岳大は187の長身、見事な身体で気が向くとフラメンコを踊りだす。これが荘重なシェイクスピア悲史劇のカラーにうまく馴染んだかどうか。

オセローはヴェニス海軍であまたの実績を積み、市民に人気があり総督の信任も厚い大将軍である。もちろんムーア人として下積みの苦労を積み、実力でのし上がってきただけに人間としても魅力があり、重厚な人格もあいまって元老院の重鎮の娘デスデモーナの心を強く惹きつけたのだろう。しかし、そんな歴戦の勇士、人格者がどうして若い部下の讒言に簡単に惑わされ、最愛の妻を殺すまでに錯乱してしまったのか。

もちろん若者の「純粋で初々しい目」が大将軍の心のすきををついたという解釈はあるかもしれないけれど、それが劇の中におりこまれていたのか、どうか。劇冒頭の妻エミリア(西山水木)の不倫を覗くイアーゴーの心の葛藤の場面は唐突であり、理解しにくかった。

やはり劇オセローはこの最も台詞も多い悪人の人間性をもっと説得力強く描くことにこの悲劇の深さ、面白みもあるのではないか。そんな意味で、ずっと昔TVで見た記憶のある日下武史、それに平幹との共演歴のある江守徹、村井国夫などで観たかったと私は思ったわけだ。


他にも不満はパンフレッドの高価なこと。普段は¥600くらいだけれど、¥1200サイン入りは¥1500!)でちょっと2の足を踏んだ(結局買ったけれど)。ま、観劇券(¥4000しか払ってない)の安さに免じて許すけれど、これはやっぱり商業演劇の範疇なのだろう。

もちろんこの劇が現実として全国ツアー150回公演という大成功を収めているのが、華やかな父子の共演という話題性のほかに新しいスター性のある役者の誕生に立ち会いたいという観劇ファンの気分もあるのは確かだろう。そんな気分に水を注す気は毛頭ないし、以上の感想が恵まれた二世誕生のエピソードかなどと「緑色の色目を使う」下司のかんぐりと思われる向きもあろうかと思うので、以上はスルーされても可である(今頃言っても遅い?)。

 

 






(184)「憲法九条を世界遺産に」

 

話題のベストセラーで、既に20万部以上が出ているという集英社新書('06.8 初版)。TVの「太田総理---」というトーク・ヴァラエティ番組(の九条議論、採決)も偶然見ていたし、太田光氏がどんな主張を持っているかということは大体知っていたのだけれど、この本は彼のストレートな主張だけではなく、本屋で覗いてみると「中沢新一氏という中堅の学者とのまじめな対話集」ということのほかにも、「宮沢賢治の思想」なども絡めて論じられている気配があったので興味をそそり、とうとう買ってしまった。

一読、宮沢賢治(の好戦思想?)についてはさほど詳しく、深く論じられているわけでもないが、アメリカ占領軍の思考の中に建国以前のアジア系原住民の平和思想がひそんでいて日本の平和憲法に影響を与えた可能性など、中沢教授による大田思想の理論的バックアップという面が多いこの本は、まあ一般反戦平和思想のある意味実践編という面があって、単なるタレント本というレベルからは抜けているとは言える。
ざっとネットをグぐって見れば、この本の内容を取り上げてブログが沢山あるから、具体的にどんなことが書かれてあるのかはそれらを読んでいただければ結構かと思うが、「不戦じゃあない、非戦と言い切るべきだ、」と太田氏が言うあたり、鋭いものを感じた。その他私が引用したくなったところは次のようなところである。

太田------天皇制も憲法も常に議論の対象になるのは、本質が似ているからなのかもしれませんね。どちらも人間の本質を問う問題なのだと思います。九条に関して言えば、もしかすると日本人はまたひとをころすかもしれないという、自身への疑いがそこにある。言ってみれば、あの戦争はあの時の正義がひとを殺したわけです。だからこそ憲法九条で絶対人は殺しませんという誓いが必要なんで、九条を抱えていることで、今自分が信じている正義は違うかもしれないと自分を疑ってみる。そういう姿勢が必要じゃあないかと思うんです。極論すれば、憲法九条を世界遺産にと言い切ることも、どこかで疑問を感じながら言わなければいけないのかもしれない。 
「九条があるおかげで、戦争を否定することがいいのかどうか、逆に改憲論者の意見も出てくるわけです。沢山の意見が出て迷い続ける。実はその迷いこそが大事なんではないか。」

中沢「まったく同感です。日本国憲法(九条)は矛盾をはらんでいますから、それを抱え続ける限り迷って当然です。
「日本国憲法から矛盾を取ってしまうと論理的にすっきりして国家の本性にあった憲法が出来るでしょう。そうなると、今度は問いかけということは難しくなる。矛盾がなくなるということは問いかけがなくなるということだし、問いかけがなくなるということは日本人のこころを貧しくするでしょうね。」


護憲派といわれた旧社会党などの勢力が昨今急速に衰えて、改憲派が半数を突破しそうだといわれる現在、この「太田総理のマニフェスト」が私たちにとって力強いものになっていることは確かだ。かのTVショウでのアンケートでも太田氏に賛成する勢力は圧倒的な割合になっていた(ま、シナリオがあったかどうかは別にして、ムード的にも結果には必然性があったのだろう)。
改憲論者安倍総理(この時は多分小泉総理の時代だった。首相主催の観桜会で太田氏が体よく首相に肩透かしを食らったエピソードも苦く面白かった。)もこの事実は軽く受けとめてはいないだろう。国民的なムード作りにおいて、彼らタレント組の力はあなどれない。もちろん、わたしたちは双方の論戦をムードで判断するべきではないだろう。本当はどちらが日本の、世界の人間たちの未来にとって為になるのかということを一生懸命考えていかねばならないのはいうまでもない。

この議論は当然ながら平和か、戦争かという単純なものではなく、単に日本一国の問題にとどまらずおそらくそのとき時の非常に複雑で微妙な国際情勢と利害関係がこれらに絡んでくるのだろうとは思う。
とはいっても、話をことさらに複雑化させ難しく考えるのは何であれ間違いのもとだ。わたしたちは既にこの平和憲法を自分のものにした時からも既に60年を過ごしている。その間、この憲法によって何が日本に起こったのか、この憲法によって日本にどんな利害がもたらされたのかを検証しなければならない。

日本が丸腰になることが本当に極めて危険なことなのかどうか。むしろ周囲の疑心暗鬼を誘う必要以上の戦力増強の方がむしろ危険な状況を引き込むだろうことは容易に想像できるのだ。
今日(‘07・2/9)も新聞には石油景気で潤うロシアが2015年までに23兆円を投じて軍備増強をはかるという記事があった。こんな馬鹿大国に日本がどう腕力で対抗できると言うのか。半端でない平和思想で相手を納得させるしかないのではないか。


こんな本がベストセラーになるのは日本がまだ精神的に健康だという証拠なのだろう。もちろん憲法九条をこれほどまでも過大評価して、「世界遺産」にまで祭り上げるのはどうか、という気分はある。軍隊を持たない国は珍しいとはいえ、日本だけではないし、これはある意味日本を特別視する特殊な民族感情、優越意識のひとつなのかとも思えるほどだ。私たちはこの「特殊な」憲法とその精神をむしろ平常心でもって世界へ広げて普遍化し、世界標準へと常識化、常態化させていく義務を負っているはずだ。そしてそれこそがこの憲法を有効にさせていく唯一の方法なのだ。




(183)ダーウィンの悪夢

最近評判のドキュメンタリー映画。久しぶりの福岡KBCシネマで見た。

アフリカの一小国タンザニアで最近起こっているひとつのグローバリズムに関連した事象に着目した映画人が、現地にじっくり腰を据えて撮り続けたルポである。

世界有数の淡水湖ヴィクトリア湖の湖畔で漁業を営むことで、以前は貧しくとも一応の平和な生活があった村が「転落」を始めたきっかけは、その湖に何者かによって放流された巨大肉食魚「ナイルパーチ」の思わぬ増殖、繁殖だった。
湖の在来種は小魚が多く、藻など植物性の食性があって湖を浄化していたが、彼らが巨大肉食魚の餌になって絶滅に瀕するようになると、湖は汚れはじめ、更に多く魚の種類と個体数を減少させる悪循環に陥った。

村人の漁業が衰退するまず一歩である。

一方で殖えに増える「ナイル・パーチ」の食材としての価値に着目したヨーロッパ人が、これを漁民に獲らせて湖畔で加工し、巨大輸送機で北半球へピストン輸送するビジネスが始まった。工場の経営者は白人で、原資は国連の世界銀行から受けた。
美味しい白身の魚は衛生的な工場で三枚におろされ、その身だけが冷凍されて「文明国」へ送られる(日本へも)。その美味しい部分は高価なので現地民はとても買えない。ただ、身を取ったあとごみとして廃棄される骨と頭が捨てられる途中で現地民に「比較的安値」で横流しされる。それら残渣からこそぎ落された部分が米と混ぜて彼らの食餌に供され、頭は焼いたり煮たりされたあと、商品として内陸部へ売られていく。これも極限のビジネスとして定着しているようだ。



湖畔の飛行場に発着する巨大なジェット輸送機の頻繁なこと。そのパイロットたちに群がる(高級)娼婦たちは見目も良く、まだ現地民の中ではましな生活を送っているらしい。漁民たちやその間に生活する寡婦の娼婦、孤児を含む子供たちには既に生活といえるようなものはな

く、エイズの蔓延が日々彼らに死の影を落としている。

湖で鰐に襲われ、片足を失ったものもいる。医師がいないので病気になったら苦しんで死ぬしかない。専門の歌い手たちが聖歌を歌う葬儀が何度繰り返されたことか。父や母をエイズで失った子供たちが自分で稼げと家を追い出され、夜の街頭をさまよう。食品工場の夜警を日一ドルで請け負い、毒矢を持って徹夜の監視を続ける男は、自分の安サラリーを愚痴り、戦争の再発を願っている。“戦争はいい。政府に雇ってもらえ、給料はこんな仕事の比ではない”。

戦争の影はここにもある。ヨーロッパから日々飛来する巨大輸送機が片道便のはずはない、とインタヴューアがパイロットに疑問をぶっつける場面が何度も見られた。実際、内戦状態のアンゴラなどへの武器弾薬がひそかに降ろされたこともあったらしい。
しかし、それはまた別の話だ。エイズ、貧困、戦争。アフリカの3重苦であるが、いまのところ、この地域はともかく平和で、それだけがこの映画のささやかな救いになっている。

しかし、教会の牧師自体がエイズに対するにコンドームを宗教上の禁忌にするという馬鹿さ加減はどういうものだろうか。キリスト教もイスラム教の狂信者を非難できない非科学的な面があるのではないか。映画はひたすら淡々と彼らの言動を映すだけだけれど、その事実描写の生々しさがかえって重く胸をうつ。
 
夜のストリートの子供たち、若い女たちにも当然ながら向上心はある。ただ学校に行きたくてもそんな場は与えられない。巨大魚輸出は国の収入にはなっても現地の貧富の差を広げるだけで貧しい人間には何の見返りもない。先進国はこの場合も資源をさらっていくだけで、搾取の図式、弱肉強食の図式は従来どおりなのである。

現地政府の無策、国の後進性をあげつらうだけでは解決にはならないだろう。国連も白人の観点から脱して実効性のある援助を目指すべきではないだろうか。




(182)平和について

 

昨今の憂鬱感が何に由来していたのかが、わかった。

ニュースである。

年初の総理大臣の抱負で、「憲法の改正」がスケジュールになっていた。
防衛庁が、年初から「防衛省」になった。こちらは小柄な老人が新しい大臣の椅子に嬉しそうに座っていた。
彼らは何を考えているのだろうと思う。それらに明確な説明がなされないのだから、余計にかんぐりたくなる。

このふたつは関係があると思う。

大きなトレンドが感じられる。

「憲法の改正」では必ず「9条」が取り沙汰される。これ以外のものは単なる付けたしかここをいじるためのカムフラージュに過ぎないだろう。この「他国との紛争に暴力を用いない」という(軍ひいきにはまことに不都合な)特殊な一文をいじくって自衛隊(軍隊)の用い方をより自由にさせようとしているのだ。そうすることで他国へ出て重火器でドンパチが出来る。もちろん犠牲者も双方に出るだろう。自衛隊を自衛軍と呼べるようにしたいというのも「悲願」らしいからそうなるかもしれない。9条には、暴力装置としての軍隊は持たないと明記しているのだが、それもまったく現実にそぐわなくなっているのでついでに撤廃するだろう。それらのまず一歩として、自衛隊を大きな顔でのさばらせるために庁から省へ「昇格」させたのだ。

上記の解釈はかんぐりすぎだろうか?私はそうは思いたくはないのだが、論理上どうしてもそうなってしまうのだ。中国だって韓国だって前首相の靖国参拝以上の実質的「軍国主義復活」の気配を警戒するだろう。当然のことだ。
別の解釈、たとえばそれらの動きが世界の平和に寄与するという論理がなりたつ(そんな意見も実際にある)のなら、彼らはそれを筋道立てて説明する義務がある。国民にも、近隣国にも。
暴力に暴力で相対することは何の解決にもならない。むしろ傷口を広げるだけだと思う。これは2000年前にイエスが言って以来の常識だと思うが、常識がまだ充分常識になっていない喧嘩好きの階層があるらしい。たとえば軍隊が一国の必須の装飾品だと考える支配層の政治家だ。もちろん軍を含む暴力団体関係者は言うに及ばないが。

日本の指導者たちが進める憲法改正と自衛隊の増強の動きを、多くの反対論者がアメリカの要請の線に沿って追随する(あるいは彼らの暴力行為に実質加担しやすくする)ための一歩であると論じているが、私は(そうかもしれないとは思うけれど)そこまでかんぐらなくても、充分日本は危険な線へ踏み込んでいっていると思うのだ。平和とは逆の方向へ、である。


今、自衛隊はまがりなりにも暴力装置としての機能を憲法によって封印されている。これは長い世界の歴史にも例のない凄いことだ。イラクへいっても、そのために他国の軍隊に守られて平和的な役目を遂行するだけでいられた。いわば非常識な、漫画的な状況だったのだけれど、軍隊を派遣した他国は皆羨望の目で日本の自衛隊を見ていたはずだ。一桁以上安全なイラク派遣任務だったのだから。

しかし、誰も日本を非難はしていなかった。出来ればあんな国になりたい、と他国は思っていたはずだ、それも本音で。

しかし、なぜこんな圧倒的な好位置を日本の政治家は放棄しようと思うのだろうか。

私が思うに、日本人の一部、外国の要人と交際のある政治家たちがこれらの状況に肩身の狭い思いをしていたのだろうと思う。

なんでジャップ野郎だけがぬくぬく手を汚さないでエゴを通しているんだ!そんないわれのない非難を受けているような惨めな気分になっていたのだろう。外国の要人の中にも性格の悪い、僻みっぽい者はいるはずだから、面と向かって皮肉られたものもいたかもしれない。

そんな目にあった不幸な日本の政治家の中でも思慮のない単純な一部のものが、よし、こんな惨めな目に遭わないで済むように、わが国も(軍隊を持っている)他の普通の国のように憲法を変更し、戦争をやれるようにして彼らを見返してやろう、と思ったとしても不思議ではない。いや、こんな子供っぽい政治家がいるかどうか、いたとすれば不思議なのだが。更にそんな政治家に影響される中央の見識のなさがなお不思議なのだが。

もちろんこんな個人的感情で一国の政治が左右されてはたまらない。いやしくも一国の未来に影響を与える政治家たちは、もっと筋道だって冷静に考えてもらいたい。日本に軍隊は不要なのであり、居る事自体が憲法違反なのだ。それで戦後60年を生きてきたのだ。

他国がこんな「特殊な」日本を模倣しないのは、日本が間違ったことをしているからだろうか。そんなことはない。日本が軍隊を持たないから兵器産業が育たず、輸出も出来なかったことが今の好結果になっているのだ。
世界的に国対国の戦争が激減している「平和な」現在でも、アメリカをはじめ殆どの国で膨大な税金を食う軍隊を廃止出来ないのは、ただ、それ自身が惰性で居座りを続けているという、構造的な問題なのだ。雇用している兵士の失業問題からはじまって、経済に深く食い込んで、むしろどうしようもなく肥大し続けている国が多い。日本の郵政問題なんかの困難さとは比較にならない深刻なものなのだ。おまけに現状維持をきめこむ圧力団体は暴力のプロだから始末に負えない。更に、その関連産業で汚いけれどおいしい貿易商売も出来るので余計にやめられない。これらの悪循環が現在の内戦頻発やテロ対策にも影を落としているのみならず、資源浪費や環境汚染にも激しい悪影響を与えているのは周知の事実なのだ。
んな悪循環に日本が巻き込まれないためにも自衛隊を元気にさせることは避けたいのだ。

これらの問題を一挙に解決するには、日本が先頭に立って世界的な軍縮を旗振りするしかないだろう(軍縮!懐かしい言葉だ。いわれなくなって随分たつ。)。まず超大国が核を凍結し、核クラブが同時に核放棄し、次いであらゆる武器輸出をやめることが先決だ。ブッシュには出来ないだろうが、息の長い運動を続けていかねばならない。ロシアはある意味で最も醜悪な武器輸出国だったが、今は石油やガスで儲けているので武器の商売をやめさせる好機だろうと思う。フランスもドイツも商売熱心だが、プライドが高いのでこれらのことは比較的容易だろう。
世界各地の内戦やテロルは先進国が供給する武器弾薬が手に入らなくなったらやがて根ぐされして根絶するだろう。それまでは自己責任にして放って置くしかないのではないか。国連も今度の事務総長では何も出来ないだろうから諸悪の根源であるPKO活動を広げることが出来ず、かえって好結果を招くだろう。

日本の従来のいきかたは絶対正しいのだ。それを一線の政治家たちは世界に宣伝説明するべき義務を負っているが、私が見聞するかぎりそんな行動を起こしている政治家はいない。もちろんアメリカを含む世界中の大国から、多くの武器商人から狙われるだろうが。
彼らはそんな圧力に耐える度胸がないし、平和についての見識がないのだろう。むしろそんな世界の悪しき風潮の尻馬に乗っているだけでいい気になっているのだ。
「憲法改定論者」はそんな行動が世界の暴力シーンへ日本人を好んで引きずり出し、悲惨な結果になるということが理解出来ない無能者なのだろうと思う。

‘07の書初めに変な愚痴をぐだぐだ掻いてしまった。




(181)‘06から ’07 へ

 

年末年始はさぼった。

休暇が会社人生で最長(11日間)だったこともあるだろうし、それでいて旅行宿泊など決まった大きな予定が皆無だったこともあるだろう。定年退職(3月)を控えてなんとなく気力が低下気味だということもあるだろう。おおみそかは山で初日の出を見ようかとも考えたけれど、結局TVもほとんど見ずに早々と布団へもぐりこんでしまった。ラッキーだったのは、ちらっと家族の見ていたTVを覗いて、たまたま例の過激ダンサーのシーンが見られたことだけだった。でも、あれ、本当に肉襦袢だったのだろうか。本物に見えたよね?どっちでもいいけどNHKは信用ならないからなー。

元旦は恒例の映画鑑賞だった。家族は皆「エラゴン」を観たけれど、私は観る気にならなかったので、余り評判よろしくないけれど、気になっていた「親愛なるベートーベン」を観た。あーあ、観ない方が良かった。先達の言うことを素直に信じればよかった。ともかくイントロからして支離滅裂、何がなにやらわからないまま私の心の中のかけがえのない巨匠が散々侮蔑され、汚辱され、こき下ろされて死んでしまった。なぜだ!なんのためにかくも偉大な名前をあれほど並以下の悲惨な小人物にまで引き摺り下ろさねばならなかったのだ。私は確信しているが、大ルードヴィッヒはあれほどがさつな我侭人間ではなかったと思う。どれほど史実を丹念に調べて作られたものかわからないし、中にはいいところもあったけれど(アパートの住人の中には、巨匠のピアノが聴けるから他のいろんな面倒事を我慢して住んでいるという穏やかな老婆もいたという。感銘を受けたのはそんなところくらいだ。)、やっぱりこれはひどい映画だった。第9シンフォニーの初演の大成功でクライマックスになって、それで終わりにしても良かったのではないか。もっともちょっと単純ではあるけれど、まだその方が後味は悪くならなかっただろう。

正月4日は下関美術館ロダン展を観に行った。
彫刻は好きだ。非常に分かりやすい芸術だと思う。何よりも直接的な肉感がある。どれほど長い間見つめても観足りないというものもたまにはある。ロダンはそんな像を沢山作った。彼の独創でもないと思うけれど、彼は一度に腕や体の一部分を機会をとらえて(同じものを)いくつも作り溜め、必要に応じてそれを他の作品に組み合わせ、新しい像を作ったという。ブロック工法とでもいうような方法は彼が大変人気作家で、多くの注文をこなす必要からも編み出されたものだったのだろう。もちろんタブロゥなどと違い、彫刻、特にブロンズ像などは最終的な像が出来るまでにはいくつもの特殊で煩瑣な職人的技能が必要であり、彼もチームを作って作品を「量産」していたようだ(一時期の手塚治虫を思い出した)。そんなこともあるのだろう。この巨匠の作品は幸いあちらこちらでいろいろ見られる。京都の博物館には「考えるひと」があった。上野にある「地獄の門」をじっくり観て見たいと思うけれど、まだそんな機会はない。今度さわりを見せられて改めてそんな気になった。
圧巻はやはり「パンセ」だったろうか。悲運の女彫刻家の顔が白い大理石で奇蹟のように彫りだされている。美しくも悲しい表情をロダンはどんな気分で刻んだのだろう。それにしても西洋人の彫りの深い顔は彫刻向きだと思う。

この年末年始で読んだ本といえば本多勝一著日本語の作文技術朝日文庫。どうしてこんな本があるというのを今まで知らなかったのだろう。どうして日本はこんな本を今まで持てなかったのだろう(本多氏によれば私のこんな文章は翻訳調悪文だといわれるに違いないが)。氏の論理的卓越性とでもいうべきものがよく表れた著作だ。日本人で文章をしっかり書きたいと思うひとなら、中でも最初の4章、更には句読点の論理的な用い方が明らかにされている4章だけでも絶対読むべきだと思う。

本多氏の著作は余り読まなかった。べトナム戦争のルポ、中国のルポ、アイヌのこと、未開人やアラブの砂漠での体験談などしか読んでいなかった。あ、それから「アメリカ合州国」特に南部のルポも新聞で読んだ。
余談ではあるけれど、どうして氏はよく好んでケバいポーズを見せるのだろう。こんな純粋に技能的なハウツーものの本にも結構そんな氏の姿勢、思想のようなものがちりばめてあって、私など面白くも思うのだけれど、人によっては趣味が悪いと敬遠される向きもあるのではないかと思う。

 

 

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