激白(121)ダ・ヴィンチ・コード へ進む

(120)花よりタンゴ

地方にいてはなかなか享受する機会のない文化活動、それでも最近は立派なホールが小さな自治体にも完備されて、一流の音楽家たちの公演がひんぱんに聴けるようになったのはうれしい。私の印象では、それでも大都市と隔絶したものがあって、それは演劇だろうと思っていた。都会に住んでいた独身のころは、何度か機会があって観ていたが、九州ではすっかり遠ざかっていた。プレイガイドのマガジン「栗報」を主催しておられる大阪在住のメール友達に情報をもらって、わが町でも「珍しい」一流劇団の公演がもたれることを知らされ、早速観劇としゃれこんだ。

もっとも、紆余曲折があった。しょっちゅういくコンサートとは少なからず勝手が違い、一般のチケット販売はなく、観劇を目的とした団体「市民劇場」に入会し(入会費2500¥)、1年以上継続することを条件にして、ようやくチケットをゲットすることが出来た。思ったほど高価なものではなく(年6回公演で月会費2000¥、つまり観劇1度で4000¥)、これで中央の一流の舞台が鑑賞できるなら安いと思ったわけだ。
それが「花よりタンゴ 演出栗山民也」だった。井上ひさし氏の主宰する「こまつ座」のヒット作、というより代表作なのかもしれない。新聞の劇評も昔ちらと読んだ記憶があるし、好評だったと記憶している。もっとも、筋も知らなかったし何も先入観はなかった。

戦後すぐの銀座裏、戦争で何もかも失ったもと華族の4人姉妹が唯一つ残った親の家をダンスホールに改装して当面の糊口を凌いでいこうという。そこに現れて彼女らのゆく手を塞いだもと使用人の地上げ屋、闇タバコ売り、郵便配達夫、花売り娘などもからみ、終戦直後の日本=東京の様々な風俗紹介と、個性豊かな姉妹それぞれが直面する社会の雨風に、不発焼夷弾の事故まで飛び出すのだ。
当然ながら戦争で幸せになったものはひとりもいないし、時勢で進駐軍のいいなりになる新政府も不幸な人間たちへのしかかって更なる犠牲を強いる。戦争批判と愚劣な戦後政治への批判もこめられている。

もちろん井上ひさしの語り口は喜劇調で、人間賛歌ときまっている。皆それぞれに戦後社会の混乱をけなげに生き抜こうという姿勢は共通で、随所に歌われる戦後の巷間を彩った懐かしいメロディの数々、踊られるタンゴも堂にいって愉しい。2幕6場の2時間半をたっぷり楽しませてもらった。
ヒロインのしっかりもの月岡の長女蘭子こと旺なつきさんはもと宝塚弾薬、歌も踊りも一級で魅力的に抜きん出ていたのは当然ながら、他の妹役女優さんたちも良かった。多分、このヒロインにからむ憎まれ役でありながら主役でもある高山金太郎こと小林勝也氏が惜しむらくは弱かった。劇ではぎらぎらした41の男ざかりが還暦そのままの薄い頭ではしらけるよ。もっともっと若つくりして、若い女どもにも魅力的に見えるようにしてくれなければ、なかなかこちらものっていくことは出来なかったのだ。

何にしても、舞台というまったくストレートな、原始的でありながら多次元的な大衆芸術は、成功のためには様々な要素が絡んでくるわけで、はすにかまえた私のようなひねくれものを完璧に酔わせることはなかなか難しい。多くは俳優そのものの個人的肉体的要素と、その日のアドリブ的な出来不出来に関わる事が多いのであり、それがこんなミュージカルという形式であればなおのこと、俳優の力量が問われることになるのだろう。もちろん、しっかり観劇経験を積み、舞台演劇という形式に慣れて、ひたりこんでいけたら、また見方も変わっていくのだろう。2ヵ月後にはまた違った舞台が見れる。楽しみが増えた。



119)こんなものを買った

荻昌弘氏のビビッドで理知的な映画評論が聴けなくなって久しいけれど、この一代の才人が専門である映画以外にも、その広い趣味の世界で愉しい著作を残していることを知っているひとは少なくないだろう。私が知っているのは音楽とレコード、音響機器に関する「ステレオ 毎日新聞社S42.8
版」
、料理とグルメブームの先駆をなす「男のだいどこ 文芸春秋
S47.6初版」の二つである。それぞれ趣味で書いたとはとてもいえない大変な薀蓄がこめられている。料理に関しては、私はまったく門外漢であり、まだろくに満足のいくコーヒー一つ淹れられたことがないのだけれど、そんな私が読んでもこれは面白いエッセィ集だった。「ステレオ」については、結構関心が深かったし、社会に出て自分の経済力が許す範囲で贅沢がしたいという気分から、いろんな参考書を読んで自分なりのシステムを夢想していた時期があり、その中の参考書のひとつとして本屋で見つけたのがこの本だった。もちろん氏のように2日をあけず高価なLPを買ってくるという氏の真似は当時も(もちろん今も)とても出来なかったし、そのときに7年月賦で買ったナショナルのテクニクスは先年音が出なくなって軒先の花壇になったあと腐れてしまった。
荻氏の書いていたのは、いわばレコード道と言うべきもので、レコードをかける以上、(あのビクターのロゴの犬のように)真剣にそれに耳を傾けるべきで、間違っても何かをしながら、それを聴いてはいけない。つまり、ながら族にはなるな、という精神があったようだ。氏のこだわりは結局、こころをこめて良い音で聴くということに尽きたので、たとえばオートチェンジャーとかいうものにはまったく関心がなかった。あのころでもガラードとか、グラモフォンとかいう会社ではLPを何枚も続けて演奏できるプレーヤーはあったはずだ。私はそんなものにもあこがれていたし、アメリカの映画に出てくる「ジュークボックス」なるものが自宅に置けたらどんなにかいいだろうと思っていた。確か、村上春樹の「1973年のピーンボール」には沢山のジュークボックスが並んでいる無人の部屋のイメージがあった。私はその中にありったけのLPレコードをセットして、好きなときに好きな音楽が即座に聞ける空間の構築というような夢想をしたものだ。村上春樹はビートルズを聴きながら「ノルウエーの森」なんか書き散らしたのではなかったろうか。
もちろん、萩氏は聴きながら別のことをするというようなことが体質上出来ない人間だったからだけれど、レコ−ド道とはつまるところLPレコードという使うほどに目に見えて損耗してしまうメディアに対する必然的な対応だったということだろう。世はCDの時代、これは何度かけても理屈の上では磨耗することはない。CDなどの発明によって、LPレコードとともに、レコード道ももう過去の遺物になったということだろうか。
世はまたハイテクの時代、マイコンは不可能を可能にする魔術を簡単にやってのけた。この「激白」の最初に書いたように私はカー用の十連奏CDチェンジャーを2台合わせて愉しんでいるけれど、やはり20枚ではちょっと物足りないと思うようになってきた。もっと多連奏にしたい。先月たまたま覗いたリサイクルの店で、私はナショナルのカラオケ機LX−V500下図右)を発見した。CD51枚が装填できる本機はリモコンつきで、この51枚のCDを自在に遠隔操作して連続演奏できる。これだ、と私は直感した。新品定価は11万7千円して手におえないけれど、店のそれは新品同様で2万8千円という。もっとも、映像も取り込めるという機械には専用のメディアはついていなかったが、これは安い、と私は思った。


アンプがなければ音が出ないということで一緒にやはり中古のソニーミニコンポVACS(図左)をつけて合計4万円也!。これらは今私のデスクの下に鎮座してながら族の主役を担っている。あのビルゲイツの豪邸のオーデオシステムにも限りなく近い私のチープなシステムは、VACSの3連奏のCDとあわせて合計74枚のCD、おおざっぱにいって300曲のクラシック音楽を自在に呼び出して演奏できる、なかなかのすぐれものなのだ。

(118)かっぱ

以前この欄(24.かげぜん)で紹介した年長の畏友F氏が、このところ「かっぱ」に凝っておられる。
百メガを超える、多くの楽しい画像資料を含んだCD書籍作品「かっぱの世界」も最近編纂され、一部お送りいただいたのには恐縮した。うかつにも私はそれまで氏の深い真意を知らず、噂を聞き、へーかっぱねー、意外だなー、なんで?位の皮相な思いしかなかったのはまったく失礼なことであった。F氏は折口信夫に学生時より私叔されてあり、民俗の研究家であったのだ。いや、それは知っていたけれど、それと一見唐突に出現した「かっぱの世界」が私の中でドッキングするまでにはしばらく時間が必要だった。

F氏はそのCDの最初の段「かっぱ考」の前置きでこう述べておられる。

 

河童伝承は分類上、民間信仰中の霊異(心意)現象、信仰伝説中の妖怪に位置し、
精霊と神と妖怪の諸相にわたっている。これは民俗学上極めて重要な研究課題で、
水陸の信仰のうち領域の一半を占める水の信仰が、これに凝縮されていると言っても過言ではない。



氏の労作をパソコンでひもとけば、いかにこの愛すべきキャラクターが昔から日本の多くの地方、津々浦々に棲んで人間たちと豊かな交流を続けてきたかがわかる。日本の昔語りににぎやかな彩りを与え続けてきたのがかっぱだったのだ。日本独自の妖怪であると思っていたけれど、中世に迫害されて山野に隠れ棲んだ宣教師(確かに、西洋人は頭頂の薄い人間が多い)から連想された可能性もあるという説が面白かった。
かっぱといえば清水崑氏(最近は小島功絵師)描く好色美女かっぱ



などをすぐ想像してしまった私などの貧しい俗物的世界認識からそろそろ卒業しなければとは思っていた矢先、「九州河童紀行」という本を


見つけた。
F氏の感化もあって、半信半疑ながらちょっと覗いているるうちにとうとう読破してしまった。実に、九州にも河童にはまり、河童に憂身をやつしているひとびとの多いことに驚いたのである。いや、九州こそかっぱ先進の地、かっぱ発祥の地と目されるめんもあるらしい。ま、それはさておき、多くの村おこしに最近にいたるまで引っ張り出される、かっぱとはそのように魅力のあるものなのだろう。

九州河童紀行 葦書房 福岡市」は表題こそ九州だけれど、内容は九州にとどまらず、芥川龍之介の作品や火野葦平(彼は北九州の出身ではあったが)の作品などにも言及して全国版の趣きもある。葦平の河童を私は読んでいないけれど、徳川夢声も同席した天皇(もちろん昭和)へのご進講にまでかっぱが大量に持ち出されたというから、葦平の河童への情熱はまことに強いものだったのだろう(彼には43編のかっぱものがあるとも)。

「九州河童紀行」この中でも圧巻はやはり熊本は八代に、千五百年以上前に上陸したという、三千とも九千ともいわれるかっぱの大群(軍)の物語<九千坊伝説>だろう。何人もの著作者がこのなぞめいた故事に触れておられるが、いずれにしても、それが大陸や半島での戦乱の結果であれ、食いつめもののボートピープルの命拾いの美談であれ、かっぱとみなされるばかりであった以上、少なくも日本本土への、血に飢えたやつばらどもの侵攻などではありえなかったろう。串山弘助氏も書いておられるように、海外の人々と倭族とのこころあたたまる平和友好のエピソードとして楽しく想像したいのである。




(117)バイオ・ハザードU

時間つぶしにひさしぶりに映画を見た。しかし、シネマコンプレックスとはよく考えられた娯楽施設だ。映画好きにはたまらない場所だろう。ともかく、いくら想像してもあのさして大きくもないビルの中に十以上もの劇場が収まっているのが信じられない。つまりはコンプレックス(複雑な、理解しがたい)ということなのだろう。その劇場群に沢山の新作映画を詰め込んで、豪華メニューよろしくずらっと並べて、さあ、どれでも、お好きなものを、どうぞ、という自由さ、選択の幅のあるのがいい。もっとも、時期によっては同一の(人気)封切り映画がいくつもの劇場を独占していることがあるし、それに、数だけいくら沢山ならべられても、私のように気難しい人間には、どれもいまいち観る気が起こらないという事もあるのだけれど。
実は今回大雑把に見当をつけて、「華氏911」がかかっているかも、と思って行ったのだけれど、ひとつだけだった上演劇場では、30分前に最終上映が始まっていた。残念。事前調査をしっかりやらなかったつけだ。途中入場も考えたけれど、ま、またどこかでやるだろう、と思い、TVCMでもやっていた「バイオ・ハザードU」を観ることにした。これは前作「バイオ・ハザード」の続編なのだろうけれど、私は見ていなかった。

 ミラ・ジョボビッチ-in V・H・2

だから、筋が理解できるか、少々心配だったのだけれど、ま、それほど複雑な話ではなく、うまく前作の筋も取り込んであって、心配したほどではなかった。ヒロインのミラ・ジョボビッチ、彼女はこのコラムでも取り上げたリュック・ベッソン監督(彼女のもと夫君だと)「ジャンヌ・ダルク」で1度観ている。あれもよかったけれど、彼女が美女だとは思わなかった。「火刑台のジャンヌ」は確かロッセリーニいや「イングリット・バーグマン」正統派美女中の美女だったと記憶している。映画は美女を観るというのが私の主義なのだけれど、ジョボビッチは、醜女とはいえないけれど、正統派どころか、ともかく美女とはいえなかったし、私好みの女でもなかった。
ミラ・ジョボビッチ-in ジャンヌ・ダルク '99

いずれ、私は女優を見るためにあのヴィデオを借りたのではなかった(はっきりいって、「激白(77)」を仕上げるために、資料として観たのだ。)。もっとも、いつも大抵そうなのだけれど、私は映画のヒロインを好きになったし、これはこれで、いいかも、と思ったのだった。

だから、「バイオハザード」であの彼女が主演していることを意識しなかった。第一、CMに出てくるぎらぎらしたアクション美女にはまったく「ジャンヌ」の面影はなかった。気がつかなかったのは当然だった(わかって居れば観なかったかもしれない)。
しかし、「バイオ・ハザードU」はよかった。ミラは美しかった。2人いる女戦士の中でもメインの美しさ、強さだったし、第一、このアクション映画の主役は徹頭徹尾ミラなのであり、他の怪物を含む男どもを寄せ付けない最強のヒロインなのだ。この設定は私にはしびれた。

もちろん彼女は並みの女ではない。危険な人工細菌に冒され、そのために異常体質になり、悪徳巨大バイオ企業の私設警察(用心棒)として肉体改造された半人造人間なのだ。しかし精神までは改造(洗脳=マインドコントロール?)されていなかったところがミソであり、自分の属する企業に敢然と反旗をかかげて対抗する。この企業はまったくのわるであり、都市ひとつが自分の開発した細菌で冒されてめちゃくちゃになると、小型核爆弾で都市全体を破壊し、証拠隠滅してしまう。(こんな筋も今の時勢では現実に起こりうることなのかもしれないが、娯楽映画として世界の健全市民が楽しめるものかどうか。どうも疑問に思う。ま、これはひとりごとだが。)
SFX
CG?)は、それこそ想像できるどんな映像でもつくってしまうという凄いことになってしまっている。ヒロインが高層ビルから垂直に走って降りてくるという非現実も、あっけなく映像にしてしまうのには驚かされる。しかし、われわれにその映像を、確かに現実に起こっているのだ、と錯覚させなければ、心底驚かせても、陶酔させなければ、それはやはり失敗だといえるのではないか。

たとえば、同僚だった男性のなれのはての殺人兵器、奇怪で醜悪な怪物とわれらがヒロイン、たおやかな(比較すれば、だが)美女が素手で闘い、結局勝利する最後のクライマックスにしても、最後までわれわれの感覚(視覚)がついていけない速さでことが終始するというところなど、どうもリアリティに欠けるところが多すぎた。
最近のSFX、 余りにも奇想天外な設定とアクションは、この映画でも、やりすぎだ、と思わせるところまできていると私は感じたのだけれど、どうか。




116)敬老の日

職場(10人)で最長老になった。所属している会社の設立(親会社から分離‘70)から34年たったし、その当初からいる人間は(職場内に)私一人になった。定年まではまだちょっとあるが、それまでどんな顔をして居座るのがベストなのか、これまで考えなかったけれど、やはり他のメンバーからの圧力は高くなって当然だろうし、覚悟が必要だろう。
全体に高齢者の多い職場ではあるけれど、20代前半の人間もいる。その最年少の一人に私の仕事のひとつを引き継ぐことになった。私以外誰もがやらなかった仕事で、これをやり終えなければ私はやめることはできない。私自身が開発したものであり、この工程がかかわる製品は、十数年来会社の看板のひとつだ。今私が会社をやめれば、億単位の売上げに穴があくことになるはずだ。この引継ぎには数ヶ月かかるはずだし、じっくり時間をかけてトランスファーしていくことになるだろう。
つまり、ありふれた人生のひとこま、交代が始まったのだ。定年と世代交代は古来から続けられたことだ。私は老いた。老いが進まないうちに交代の作業を終えれば、若者がその代わりをしてくれるだろう。そのために、私は自分のなしえなかった夢も含めて、次のランナーにバトンを渡そうと思う。
彼のことはほとんど知らない(が、近年の厳しい就職戦線を戦っている若者のひとりであり、私よりも素材として、意気込みとして優秀であるらしい。そんな気配もある)。が、それでよいのだろう。私のいうことを充分理解し、そのスキルと精神を100パーセントものにし、更によりよく発展させていってくれるだろう。そのあとのことは私のコントロール外のことだ。
私が仕事人間といわれたこともあるのを、このサイトの読者は信じられないだろう(今はもちろん違う)。それはよい。私は老い、職場をリタイアする時期が迫っていることを実感したのが、上記の具体的なスケジュール作成を上司から命じられたことからだった。

もちろん私に老いの実感はない。まだ老眼鏡をつけずに細かい実作業(上記の仕事も、ミクロン単位の手作業が含まれる)ができるのは、比較的若い50歳前後の同僚(全員老眼鏡をつけている)の驚異(と羨望?)でもある。しかし、さすがにこの数ヶ月、視力が弱ったという実感がある。ともかくルーペが必要不可欠なツールになった。
それもよい。この視力減退は、最近の習慣になったやばいネットサーフィンの結果だろうよと鋭く指摘するご仁もおられるのである。
わが畏敬するメールグループの総帥から先日受け取ったものがある。アメリカ人の学者の著書からの引用だそうである。

あるアメリカの学者が精神的な老化の指標として
 
次の15の徴候をあげています。

(1)最近のことを忘れてしまう。昔のことは比較的よく記憶して 
いる。
 
(2)急ぎの用をしなければならないとイライラする。
(3)すべてのことに対して自己中心的になる。
(4)過去のことを繰り返し話す。
(5)よくグチをこぼす。
(6)目のまえで起こっていることに興味をもたない。
(7)他人にわずらわされず一人でいたい。
(8)新しいことを身につけにくい。
(9)騒がしいことに神経質になる。
10)知らない人と付き合うことを好まなくなる。
11)世のなかの変化についていけなくなり、疑い深くなる。
12)自分自身の感情にとらわれやすい。
13)過去の自分の苦労話をしたがる。
14)新しい計画を立てることができない。
15)つまらないものを収集して喜ぶ。

一読、愕然としたのは、あまりにもわが身に親しいことばかりだからである。
わずかに(4)、(6)、(14)が自信を持って当てはまらないといえるのみだ。
あとは、すべて、どうも自分のことをいっているらしい、と思わざるを得ないことばかりだ。
/15とは、8割ということだろう。
グループの先輩諸氏が4割とかいっておられるのに比べて、あまりに悲惨な結果ではないか。
老いは確実にわが身を侵食しているのだ。他人に倍するスピードで。
気づかなかっただけなのである。



(115)道徳

「倫理」というものについて触れたことがある(15「永井荷風の偉大さ」)前田秀樹「倫理という力」の感想という形で書いていた。今読み返すと実に稚拙なもので恥ずかしい限りだけれど、今度梅原猛氏の「道徳」(朝日新聞社刊)を読んで、上記の著書の高度な内容を改めて思い知った。いや、大梅原氏の著書がよくないというのではまったくない。「梅原氏の授業」と副題のあるこの著は、本来が中学生を対象とした内容なので、もちろん平易に書かれたものであるけれど、程度の低いものではまったくない。
氏はこの著作について、「“あえて恥をしのんで”(氏独自の道徳を)語った」と書いておられるが、そのようなことはない、氏以外にはなしえない見事な仕事を成し遂げられたものと思う。このような著作は戦後50年間まったく現れなかったものであり、貴重なものだと思うし、教育関係の方にはおおいに読んでいただき、現場の授業に役立ててもらいたいと思うものだ。氏の道徳思想に全面的に賛同するものである。
氏の道徳授業で最もすばらしいのは、やはり、道徳というものがよってたつ足場(道徳とは何か、なぜ必要なのか)といえるものを、深い歴史的、科学的な根拠をたてて順々に解き明かしている最初の部分だろう。これによって最近のさかしい子供おとなたちを納得させ、引き込んでいくのだ。道徳教育を単なる教条主義にしないところに氏の工夫があり、説得力が生まれるのだろう





思えば、私は学校で「道徳教育」なるものを受けていない。戦後の教育関係者(日教組など)の多くが「道徳教育」は必要ない、と公言してきたことは事実であり、私もそんな風潮に知らず染まっていたようだ。「道徳」は人間に自然に備わっているものであり、殊更に教育で刷り込むものではない、というような考えをもたされてきたような気がする。もちろんそれは革新行政の府だった私たちの地方での特殊事情だったらしいことをあとで知るのだけれど、他県の「道徳の時間」を持ったところでも、事情は大同小異、多くは大した授業を受けてはいなかったようだ。戦後の日本には中身のある道徳教育は存在しなかった、と梅原氏も述べておられるとおりである。結局、そういった隙間というか無の空間が肥大した結果「殺人はなぜ悪いのか?」というようなくだらない議論が活字になってまかりとおる社会になったということなのだろう。未成年者たちが軽々と無意味な殺人をおかし、中央官庁のエリートが恥ずべき汚職をなす異様な社会になったというべきだろう。これを現代先端文化の爛熟現象とかいうなら、これこそ末期の社会なのだ。日本という爛熟社会はもう末期に達しているのかも知れないし、そんな兆候もいくつも見られるのだけれど。
しかし、もう遅いという言葉は禁句である。これからでも遅くはない。しっかりした思想で固められた道徳教育を日本ははじめなければならない。それにしても「」とは言ったそうだけれど、梅原氏もまた深い仏教への造詣からこの「梅原道徳教育」を書かれた。自利他利の心を表わした四弘誓願で本書は締めくくられている。


衆生無辺誓願度(生きとし生けるもの(衆生)をみな救いたい)
煩悩無数誓願断(いろんな欲望を断って、立派な人間になりたい)
法門無尽誓願学(様々な教えは尽きぬほどあるが、みな学び尽くしたい-−無理かもしれないが)

仏道無上誓願成<仏教でも何でもいいが>極め尽くして最高の境地に至りたい)







(114) 広島

日本の夏は敗戦記念の夏、ヒロシマの夏でもある。
日本が今まがりなりにも平和国家を標榜していられるのは、やはりひどい敗戦を経験し、とりわけ原爆を2発も蒙ったということに起因しているのは間違いない。
広島、長崎の篤志家たちがこの悲惨な運命にも自暴自棄にならず、アメリカへのゲリラ行動などに走ることもなく、これらのことを深く考え、自分たちのこととして受け止め、次いで平和について深く考え、その思想を展開させて平和への運動を粘り強く継続していることには敬意を表したい。



この章を書くために
ヒロシマのHPを覗いて知ったのだけれど、例の「慰霊碑」の言葉
「安らかにお眠りください 過ちは繰り返しませぬから」
は前述の思想の表明だったのだ。憲法9条とともに日本人が忘れてはならない誇るべき思想なのだ。
大江健三郎の「ヒロシマ・ノート」を苦しみながら読了したのはいつ頃のことだったろうか。大抵は忘れてしまった。原爆のこと、あの戦争のこと、関心はあったけれど、その後もさほど深く考えたことはなかった。先日の仏像展で山口に行ったとき、美術館の外で「原爆展」なるものをやっていた。路上に20点以上の写真、新聞の切り抜きなどの展示物が並べてあって、中にはいつぞやの東海村で起こった臨界事故の被害者のデスマスクなんかがあって、やりきれない気分のまま¥500のテキストの押し売りを不機嫌に断って逃げたのが気になっていた。
今度の帰省の途次広島に寄り(8/11)、初めて
平和公園を歩いたのは、偶然だろうけれど、先日の経験が関係しているといえなくもない(贖罪?無意識の?)のだろう。PM5時を過ぎて、資料館へは入らなかったけれど、後から調べたら、まだ開いていたらしい。ま、それを知っていても入らなかったかもしれないが。
平和公園は(多分、資料館を除いて)広く、爽やかで清潔な空間だった。設置された多くの彫像はそれ自身眺めて美しく、魅力的だった。被爆した時のままで凍結された
原爆ドームすら、それ自身何世紀も経た古代の遺跡のような一種の美を見せていた。
もちろんそれは大きな錯覚であり、われわれはその負の
世界遺産をもっと強い想像力で見つめねばならないのだろう。つまり、59年前のあの時の阿鼻叫喚を思い起こさねばならないのだろう。このドームの下、建物の中に居て上空500メートルで炸裂した核爆弾の光と衝撃波で一瞬に命を落としたひとびとひとりひとりの姿を想像しなければ、ここに来ても何も見ていないことと同じなのだろう。それは辛いことだけれど。

広島は緑の多い美しい町だった。被爆直後から育ったに違いない大きな樹木が路傍にたくさん茂っているのには驚かされた。多分、自然の生命力というのは我々が考えるよりもよほど強く、したたかなのだ。そんな強さを見習って、ヒロシマを象徴とする日本は、これからの恒久世界平和を作るための運動をリードし続けていかねばならないだろう。



(113)周防国分寺仏像展

98から’99にかけて、私は京都近郊の工場に単身赴任した。家族サービスなどという煩雑な瑣事から開放された私は、休みのたびに京都や奈良、大阪近辺をうろついた。行くのは寺や神社が多かった。実は社会人になった最初の5年間をやはり大阪に近い会社に就職しているけれど、そのころ身辺に居た1年年長の同僚が寺社めぐりをしているという話を聞いても、へー変わった人間なんだな、と思い、決して真似をしようとは思わなかった。もっとも50を過ぎてからそんな趣味が突然起こったというのも事実ではない。観光、名所めぐりをすると寺社が多くなるのは日本では自然のことだと思うし、京、奈良とくるともうそれらを避ける方がなにかわざとらしくなるだろう。ともかくそれで当然出会うことの多い仏像に関心がゆき、好きになったということだ。
 
‘98の京都時代、余暇は車が使えなかったので、いつも公共交通機関と徒歩だった。確か田辺町の観音寺まではJR無人駅を下りて田舎道を1時間以上歩いたような記憶がある。あそこの十一面観音は見事だったからそれなりの収穫だったのだが。京都の底力を見せ付けられたのは、工場から歩いて行ける古戦場天王山の近く、さほど有名でもない寺院「宝積寺=たから寺」でびっくりするような見事な観音像が拝観できた(その他にも京都国立美術館に預けてある巨大な閻魔王などもこの寺の所有である。まさに宝寺。)ことだった。
九州に居る今も機会があれば仏像を拝観するようにしている。もちろん九州の地にも良い仏像は皆無ではない。一昨年の大分国東の旅では思いがけず鄙の地でいい仏像にも出会った。しかし、やはり仏像は京都、奈良だ、と思う。九州には寺の数自体絶対数が少ないし、たまに古刹へ伺っても、すぐそこの本尊などを拝観できることは余りない。

そんなことで、仏像には飢えていた。今度山口美術館で首記の仏像展が催されたとのことで、ハイウエイを飛ばして拝観してきた。見事な、質量ともに立派な仏像展だった。久しぶりの眼福、心身で堪能し清められた気分だった。ちょうど若い学芸員氏のギャラリートークにも出会い、ラッキーであった。
私も今回知ったのだけれど、これらの仏像の大部分は近世まで代々地を治めた大内氏、毛利氏など有力者たちによって、珍しくその寺域がよく保存されてきたことで著名な周防(防府市)にあった国分寺が伝えてきた、平安時代からの貴重な古仏なのだ。現存する金堂は近世のものだけれど、傷みが激しいので今度5年余をかけて建て直した。その金堂に安置されてあった本尊である薬師仏(これは1度失われ、オリジナルとしては左手だけが残されてあった)、脇侍の日光月光菩薩、四天王像、12神将などなど実に揃っており、何度も戦火災厄をくぐりぬけて現在までこの仏像群を伝えてきた幾多のひとびとの努力、けなげな心意気を思い、涙する気分だった。
私が一番気に入ったのは右脇に立たれてあった日光菩薩様であった。
ななめ左下からの眺めが一番良かった。
重文の不動明王立像を隠し撮りした(撥あたり?)。
金堂の仏像群はさすがに保存状態は良かったけれど、2階にあった県内の協賛参加仏像の中には痛々しく手足が失われ、黒く焼けたようなものもあった。金箔の剥離やら変色は多くの重要な仏像群に見られた。

もちろんないものねだりで思うのだけれど、日本の仏師はどうして自作の年月の経過による変化、古色化に無関心なのだろうか。どうして何の対策も打たないのだろうか。それが色即是空たる日本人の思想なのだといわれればそうなのかもしれないが、美しかった菩薩様、りりしかった如来様の尊顔がオリジナルの顔料や金箔を剥落させていくのを見るのは、私など俗物には辛いものだ。もっとも、東南アジアでのそれらのように厚化粧で彼らを彩るのもまた問題ではあるが。



112)選挙

政治観というのは宗教とさほど変らず、当人が生まれた場所、家族の拠ってたつ環境などに大層影響されるものであるからして、正しいこと、悪いことは一概に規定できないというのが常識だろう。多数決の原理が適用されるのもこのあたりに理由があるのだろうし、これらを気軽に話題に出して議論することの危険、くだらなさ、面白みのなさもこのあたりにあると思われる。もちろん、これは一般論であって、われわれ好事家が話柄に乗せて大いに議論できる政治テーマもあるはずだ、と思う。たとえば道路公団民営化にしても、郵政事業の改革にしても、近辺に土木業を営む知人とか、特定郵便局の職員氏とかがいらっしゃらなければ、遠慮なく大所高所に立った議論をすることも可能だろうし、悪いことではないだろう。もちろん自衛隊員諸氏の目の届かないところでは、有志間で自衛隊要不要論を戦わせることも同様、有益であると思う。

今回も国政選挙があり、国民はみな(自分の利益的立場も含めて)なんらかの意見を表明(投票)せねばならない機会があった。この機会に暇な日本国民は皆大いに語り合い、議論しあって切磋琢磨し、自分の意見を磨き上げ、あるいは転換したりして、より正しいと思われる意思表明をしたのだろうか。
いや、そうでもないらしい。狭い社会の範囲ではあるけれど、私の見る限り、そんな議論はあまりなかった、と思う。投票には行ったらしいが、多くはTVを主とした候補者連や政党、有識者、ニュースキャスターの論議などを参考にしたようで、身近かな知人同士で政党のマニフェストが話題の俎上にあがることは余りなかったのではないか。
もちろん、私の目の届かないところで激しい時局論争などがあったのかもしれないけれど、あったとしても、それらはごく少数に留まったのではないだろうか。
ただこれだけのことは言えるだろう。選挙へ行くにはいっても、彼らの意識の中では、今回の選挙での選択は、(自分の意見が国政を左右するかもしれない、いや、自分の意思の方向で政治が動いて欲しいとかいう切ない願いで行ったとかいう)大きな問題なのではなく、多分、選挙当日の(投票直前)数時間あるいは数分間頭を支配した(多分些細な、といっては言い過ぎかもしれないけれど、彼らの当面する個人的な悩み、思いなどの中では比較的小さな)問題だったのだ。選挙期間中にそのことが彼らの話題にほとんどのぼらないということがそれを示しているとはいえないだろうか。
彼らの政治に対する考えの多くは、こういったパターンではないか。遠くの、自分たちとは身分違いの(高貴な)政治プロフェッショナルが自分たちには理解できない(高度な)思考能力で我々の国のありかたを思いめぐらせ、彼らなりに一生懸命、ベストを尽くしてやっている。だから、(当面の当事者である)彼らに任せておけばいい。
そういった態度はとかく現状維持、保守的傾向から一歩も出ないし、選挙というものがこの国で単なる儀式的なお祭りにとどまってしまう主因なのだろう。しかしそうではないのだ。この国に発達したマス・コミの多くの仕事を参考によく耳目を開けばわかることだ。中央官庁やら国政とかいう場でのプロフェッショなる諸氏のいかに人間臭く、本当に胡散臭く、いかにいいかげんで自分と仲間たちの利益にかまけているかということを(ま、全部が全部ではないようだけれど、それが少数派であれ、警戒を怠れないことではおなじことだ)。

私の棲む地方を地盤にする、大臣を歴任したある有力政治家の拠点廻りに立ち会った知人が言っていた。何か気の利いた政論でも聞けるのかと思ったが、短い意味不明のヨタ話ししかなかった、と。
国民をなめた態度ではないか。それともそれだけの人間なのか。

握手だけで伝えられる情報はあまりないはずだ。

選挙はそんな彼らが安閑とマイペースではいられないためのシステムなのだ。政治に無関心な若者が増えていることに満足感を持っている保守政治家やらキャリヤー文官武官は多いだろう。彼らの思い通りにことが進められるからだ。そんな国にはしたくない。政治家も以心伝心でなく、しっかりした言葉でみなを納得させねばならない社会、時代にしたいと思う。

 




(111)海のサブー

小さいころの記憶はまた、格別なものがある。それはそうだろう。彼の無辜の白い脳漿の、まっさらな画用紙に最初に描かれた絵は、それがどんなものであろうとも、鮮烈な印象を残してその記憶の底に永く留まるだろうことは疑うべくもない。まして、その絵柄が先にもあとにも例のない凄絶なものであったとしたら、それが当人にとって幸せなことであったか、または不幸なことであったかどうかは別にして、その印象が彼の人格形成に、人生に少なからぬ影響を及ぼすであろうことは想像するまでもないだろう。
このコラムの最初の方にも書いた「山川惣治」、戦後しばらくブームになったこの絵物語作家は私の幼、少年時代の心にそのようにして深い傷を負わせていった。私の創作欲の源を考える時、「山川惣治」は非常に重要で、大きな位置を占めているように思う。私における原体験という意味からもこの作家に比較出来る他の重要人物といえば、あと一人、手塚治虫くらいのものだろう。
ともかく「山川惣治」。彼の多くの優れた作品群のなかでも、私がまず最初に出会い、記憶に深く残っている「海のサブー」は、私の記憶によれば講談社の月刊誌「幼年クラブ」に連載されてあった。貧しかったわが家でこれを毎月とっていたのかどうか、近所の友人から借りて読んだのかどうか、どうもはっきりしないのだけれど、ともかくその連載物語の内容を(たぶん連載2回目から)切れ切れに読んだようだ。その挿絵の絵柄の多くも今なお鮮烈に覚えている(いや、いた、と言わねばならないだろう)ことは確かである。
山川氏の作品のいくつかは、復刊されたりして何度かその後も世に出ている。私はそんな作品のうち「少年王者 1,2,3 集英社S52年」と「少年ケニヤ 1〜20 角川文庫S59年」は改めてゲットした。それぞれリアルタイムで胸おどらせた作品だったから、懐かしかった。幸運だった。しかし、一番欲しかったのは「サブー」だった。そしてそれは復刻はされなかったようだ。
インターネットをやるようになってからも、この強力な情報ツールを利用して、私は山川惣治、特に「海のサブー」についての情報、出来れば、おそらく当時出版された単行本の出物を意識的に探していた。といっても常時見張っていたわけではなく、検索のテクニックもうまくなかったから、おそらく機会はあっても見逃していることが多かったのだろう。というのが、最近思い立ってYAHOO/JAPANだけでなく、ゴーグルなどに重点を移してさがすようになったのだけれど、そこで相次いで「サブー」の古書単行本に出くわしたからである。さすがに作者のサイン入り美装本(1,2)は高すぎて手が出なかったけれど、ともかく1巻と、裏表紙の剥落した4巻を手に入れることができた。うれしかった。1ページ、1ページめくるたびに昔の記憶が甦る気分だった。そう、そう、これこれといった場面が再現し、思っていたとおりのストーリーが進行していく。
なら、どうして大枚はたいて旧知のストーリー本をわざわざ買ったんだ?と読者はいぶかしむかもしれない。いや、ひとが何度となく聴いたベートーヴェンの交響曲などをせっせとホールへ聴きに行くように、ひとは思い出と記憶だけでは満足しないものなのだ。そうだろう、いくら彼がその曲を全部、正確に鼻歌で口づさむことが出来ても、である。実物を目の前にすれば、偉大なものほど新たな感動が湧くものなのである。

山川惣治と絵物語の世界」という優れた文芸研究サイトがあって、それは昨年忽然と現われ、残念にも唐突に消えてしまったけれど、また再び更に充実して姿を見せた。改めてそのカムバックをお祝いしたい。このコラムでも当HPは褒めちぎったことがあるけれど、何度訪れても感動が新たになる,

数少ない良心的優良サイトであると思う。そこでは考えられる限りの山川作品の鋭い分析、評価、見事な批評がなされてあって実に楽しく、啓発させられもするのだけれど、こと「海のサブー」に関しては、1ページが割かれてあるだけで、私としては物足りない。
それを補完すると言えばまことにおこがましいけれど、せっかく今回手に入れた資料であり、その範囲で、近じかこのHPでも少し「サブー」について書いてみたいと思っている。やはり山川作品を取り上げた「UW」のページに追加するかたちになるだろう。「海のサブー」は海洋冒険物語であるとともに、すぐれて水中フェチシズムの物語なのだ。
その第1巻、彼が漂着した絶海の孤島で恐ろしい災厄とされたどくろ岩の人食いおおだこに、美少年の主人公自らが生贄となって飛び込み、死闘を繰り広げた末にその怪物を仕留めるエピソードは、「幼年クラブ」向きとはとても思えない、至極刺激的なドラマなのであった。




 

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