(91)この1年’03年へ飛ぶ

90)阿修羅のごとく

久しぶりに映画を観た。それも日本映画だ。評判の向田ドラマ「阿修羅のごとく」森田芳光監督。
面白かった。
新作の日本映画を一応の封切り館で観るのは何年ぶりだろう。「学校」は公民館で観たから例外として、多分、「蒲田行進曲」以来ではないか(われながら古い話だ)。
もちろん、TVでドラマを観るのは日常だけれど(これも習慣としてはない、といっていい)構えてドラマ作品を映画館へ観にいくということがなかった(ヴィデオで借りて観たものはいくつかある。「死の棘」とか。)。
音楽会はよく行くのだが、映画は当たり外れが多いし、外れたときのダメージも大きいもので、慎重になる。若いころは途中で出ることもしばしばだった。
大体から洋画と違って、どうも日本人同士のドラマは苦手だ。へたくそな俳優が出ていたらなおのこと、すぐしらけてしまって見る気がしなくなる。日常の、大抵は悲劇的な、暗い、気分が滅入るようなドラマを、なぜ金を払って見に行かねばならないのか、そんな気がして行く気にならなかったというのが正直なところだ。見るなら上質の喜劇だ。そう思ってはいても、食指が動く作品がなかった。トラさん映画はずっと好きだったけれど、後になるほど、次第にわざとらしさが鼻についてきて見なくなった。
「阿修羅--」はなかなか一般に評判がよかったし、私の好きな俳優がいろいろ出ていたから、ま、だまされたと思って見てみようかという気になった。“喜劇”という認識で行ったのだけれど、それはどうか、といわれる向きもあるかもしれない。そんな体裁をとってはいても、シリアスな劇もある。ま、強いて分類することもないけれど。

ごく普通の、見かけは平凡な、どこにでもありそうな4人姉妹とその両親の、2年間に起こり、そしてなんとなく収まる様々な小事件を綴ったホーム・ドラマ。彼女たちのそれぞれの家庭の男女関係のもつれ、変動にまつわる哀楽。
思えば人間の社会生活は男女の(愛情)関係が基本になって動いているのだし、生きがいも、喜びもその安定を抜きにしてはありえない。特に女性は人生におけるその割合がどうしようもなく男に比べて大きいわけで、いきおいそれに執心するのは仕方がない。つまり「女は阿修羅だ…」というのも、至極当然のことかもしれないのだ。女の悲しさ、愛らしさ、美しさもそのことから生じるのかもしれないのである。最後近く、ドラマの主人公らしい二女黒木瞳の亭主小林薫が死んだ母の墓前でつぶやくそんな言葉がテーマになった佳作だった。
八千草薫は老いた夫仲代達也の密かな老いらくの浮気に気付き、ひとり悶々としつつ、新聞に匿名の投書までして(このひねりが向田調というか、なかなかしゃれていて、愛らしくていいではないか。)、結局その心労から倒れ、死んでしまう。ドラマではその事実(母は知っていた)が伏せられたままで、それを知らず、別途父の浮気を知った四人の娘たちは一様に驚きつつも、それぞれの性格に応じてさまざまな反応を見せる。彼女たちもそれぞれの家庭でよく似た悩み、事情を抱え、それらに不器用に対処しつつも一方では母を案じ、その事実を母から隠そうとして父母の身辺をうろうろする。
結局彼女たちも自分の身辺の修羅に対処するだけで精一杯であり、こと他人の男女関係には無力でしかなく、時間とともにそれがたけって、次第に収まり、終わるのを待つしかないのだけれど、社会的にも、家庭的にもそれぞれ立派に義務をまっとうして、常識、良識もたっぷりとある彼らの父、母にしても、この自身の愛情関係というものにはどうしようもなく成り行きに任せるしかなかったという悲しさもあるわけだ。
四人の娘の中ではやはり早くに夫をなくして生け花の教師として身をすすいでいる長女の大竹しのぶが近所の旅館の亭主をめぐってその妻桃井かおりと派手なたちまわりを演じたりして達者なところを見せ、笑わせる。仲代がおいらくの恋の相手紺野美紗子に去られて病床の妻に報告し、三女の深津絵里が冴えない興信所員の中村獅童と結婚し、小林薫の秘書木村佳乃との浮気に悩む二女黒木瞳も、プロボクサーの亭主が倒れてその看病につきっきりだった四女深田恭子もそれぞれドラマの最後には光明が見えるなかで、大竹しのぶだけはなお再婚のめどもたたず、どろどろの不倫のなかで悩み続けるというのも、やりきれないながらも気の利いたエンディングなのかなと思った。
四女の万引きのエピソードだけはどうも中途半端なものだったけれど、2.5時間足らずの中にかくも沢山の挿話を押し込みつつもなんとかまとまった作品に仕上げた監督の力量に敬意を表するものである。



(89)「天使と悪魔

メール友達に薦められて久しぶりにベストセラーという新刊を読んだ。「天使と悪魔」ダン・ブラウン 越前俊弥 角川書店12/6に購入して、12/10に読了、上下2巻はそれぞれ350ページ近く、なかなかの量であったが、あっという間に読めた。「本年度、全世界でNo.1ベストセラーを独走!」「全米500万人がはまった驚異の書」「ページを繰る手が止まらない」云々、まだまだ帯封の惹句は続く。もっとも、日本のマスコミにはまだ騒がれてはいないようだ。

映画にもいえることだけれど、世間の評判を鵜呑みにして、読んでは見たけれど、いまひとつ、あるいは、さっぱり、ということがままある。だからということではないけれど、大体から私はベストセラー、特にエンターティンメントにはあまり手を出さないほうだ。読まねばならない、あるいは読みたいけれどなかなか読めないという本が身辺にはうなるほどあるし、結局大部分は読まないまま人生を終了するのだろうという悟りきった気分にもなっている。
時間がないのではない。単なる怠慢なのだ。
そんな中でこういった本も読む気になったのは、まったくの気まぐれなのだけれど、やっぱり、それなりの評判を得た本はそれなりに楽しい目にあわせてくれるだろうという期待感がある。ハリー・ポッターは読まないけれど、「天使と悪魔」、なんだか学術的で面白そうだ、という匂いのようなものは感じ取れた。
そしてそれはあたっていたようだ。もっとも、衒学的ということがポイントなのではない。いくら作り物ではあっても、小説はやはり現実に立脚した物語、読み物でなくてはならない。そして著者はそれをよく知っている。プロローグに入るまでの冒頭に置かれた断片、「事実」、「著者注記」、そしてヴァチカン市国、ローマ市街の地図としつこいまでに「この小説はただの荒唐無稽な「おはなし」ではないのだぞ」、と念を入れるのである。これらの注釈はこの小説の根幹をなすもので、ひとつは1グラムで広島の核爆弾をもしのぐという「反物質爆弾」、そして「イルミナティ」と呼ばれる秘密結社の存在、それに加えて、ローマに存在する多くの古美術、古建築群の存在もこの小説の大きな要素になっている。

その「反物質爆弾」を発明した科学者が「イルミナティ」を名乗る何者かに殺害され、その「爆弾」が時限装置つきで、こともあろうにヴァチカンの、つい先日死去し、新しいローマ大司教を選出する「コンクラーベ」のイヴェントの只中にある宮殿の中にセットされる。
それが発火して大惨事になるか、どうかという一日の息詰まるスリルの中で、有力な教皇候補が次々に惨殺されていき、カソリック中枢は混乱をきわめる。
ハーバート大の教授ロバートは、殺された科学者の娘で自身科学者の美女ヴィットリアと協力してこの危機を救うために暗殺者の仕掛けた「イルミナティ」の謎解きに挑戦する。内通者と裏切り、陰謀、水球で鍛えたロバートの強いこと、強運なこと。チノクロスのショートパンツ姿で活躍する美女のエロチシズムのサービスも気が利いている。きわどい場面でヴァチカン崩壊の危機を凌いだあとの最後の大どんでん返しはまことに意外なもので、この長編のカウントダウン効果からくるスピード感と多くの無残な趣向の殺人、仕掛けのめまぐるしさの中でも最大の驚きを読者に与えるやまばだろう。


もっとも、私などはローマの地理にも、美術作品の知識にもうといことがあって、ヴァチカンの書庫をむちゃくちゃに破壊し、ローマを縦横に走りめぐりつつもロバートたちが明快に解いていくまことにぺダンチックなガリレオ文書の謎解きにはまったくついていけなかったけれど、それらは、ローマを知っている向きにはこたえられない観光案内にもなっているのだろう。



88)疑え、メロス

12/7の読売「空想書店」に画家の安野光雅氏が面白いことを書いていた。「『疑う力』はなぜ衰えたのか」。要旨は以下である。

間は文字を道具にしてものを考えてきた。しかし、最近は文字離れが激しく、代わって無批判で受け入れてしまう「イメージ映像」でその気にさせるようなテレビコマーシャルなんかの台頭が激しい。さまざまな詐欺まがいの犯罪にだまされる悲劇もまた多い。そんなものがのさばるのは、つまり皆が活字を読まなくなって、考えることが少なくなり、与えられる情報を疑わずに受け入れるようになったからだ。この国の未来が心配である。本を読み、考える力、疑う力を保たなければ、今や情報の奴隷となるしかない。

これには私もまったく同感である。日々実感することもしばしばだ。人間は複雑な言語を持ったことで他のライバル獣たちに圧倒的な差をつけ、ここまで高度な文化を継承発展させてきた。しかし、読書などの言葉の訓練をさぼり、その精巧な道具をなまくらな鈍器としてしか認識せず、相手をやっつけるためだけの簡単な武器、罵り傷つけるための凶器としてしか認識していない、けだものよりも劣等な人間たちは、すぐ人間文化の継承者として適当ではないということが実証されるだろう。それは、いい。自業自得というべきかもしれない。

それよりも、ちょっと気になった部分がある。
太宰治の)『走れメロス』に「人の心を疑うのは最も恥ずべき悪徳だ。」とあり、それが、あれほど嫌悪するテロリストを美化したものであることを疑いもせず、今の中学国語教科書の全てに載っている。


ちょっと唐突に現れた懐かしい小説の題名に私は一度うろたえ、ややあってのち改めてその本(現代日本文学館36 太宰治集 文芸春秋社)を書架の奥から探し出し、読み直した。なるほど、自分の周囲の取り巻き眷属を次々に殺して倦まない極悪非道の王に激怒して、殺意を得、短剣を身に帯び、王宮へ入った義人メロスは、分類上テロリストとしても間違いではないだろう。しかし、ここで王は最初から「邪智暴虐」の人間として描かれているのである。
メロスは義憤にかられて、犯行の成否もおぼつかないまま直情的に王宮へ入っていったに過ぎない。間抜けなテロリストはすぐその場で王の衛兵に取り押さえられ、即刻死刑を宣告されるのである。もっとも、ヒューマニスト太宰はそこから筋をひとひねりもふたひねりもして、メロスと、その刑の身代わりを引き受けた友人セリヌンティウス、そして極悪の王との奇跡的な愛の融和、大団円で結ぶ。
この小説は、はっきりと善悪がきわだち、極限の友情と愛のテーマを謳いあげた明快な名作であり、最後のハッピーエンドは誰だって涙なしでは読み終えないものだ。誰だって快い満足感でこの起伏の激しい物語を読み終えるはずだ。私もそうだった。何度読んでもそれは変わらない。そんな感動の美しい記憶に安野氏から冷水を浴びせ掛けられたような気分がして、私は少なからず困惑を覚えたわけだ。

確かに「人の心を疑うのは--」は太宰一流の大仰なアフォリズムであり、必ずしも面白いものではないけれど、この寓話的な物語り小説では奇妙にうまく収まっていることも事実だ。
氏が自分のコラムでのキーワード「疑う」という言葉をクローズアップするためのなくもがなの一節であろうか。ならば太宰が怒るだろう。

もちろん、安野氏はロマンチスト太宰がここでテロリスト頌歌をうたったと本気で考え、言っているわけではないだろう。しかし、そう取られかねないのは、この1940年に書かれた大人の童話が中学生の教科書に載せられること(私が学んだ教科書にも、確かにこれはあった。延々と三十数年間以上これは日本の中学生に読まれているのだ)のあやうさをいっているように思われることである。寝た子を起こすようなことにはならないか。
むしろ、無学なメロスの馬鹿さ加減にもっと着目し、更に突っ込んで読まれるべきだ、と氏は提唱しているのだろうか。ただこの感動の物語を情緒だけで、上すべりに理解するだけではだめだ、といっておられるのだろう。それには私も同感だ。そういった面からこの有名な短編小説が読まれたことは、まずないだろうというひとつのショック療法、鋭い問題提起だろうとは思うけれど。
何にせよ、音楽の教本に歌謡曲や昨今のフォークソング、ビートルズが採用される時代である。いつまでも太宰でもないだろう、とは私も思う。



(87)白鯨


久しぶりに古典を読んだ。
白鯨」、ハーマン・メルビル作(田中西二郎訳 上下 新潮文庫)。「白鯨=モオヴィ・ディック」という小説を知ったのは、いつ頃のことだったか、エイハブ船長役のグレゴリー・ペック(ミスキャスト?)が鯨の腹に大綱で巻かれて格闘しているスチール写真、ハリウッド映画「白鯨」はあまり評判のいい映画ではなかったようだけれど、あの小説を日本で有名にしたことは確かだろう。そのせいか、私はずっとこの小説を通俗的な物語だと勘違いしていた。だから、これがアメリカ文学における著名な大作で、S・モームが「世界の十大小説」のなかでこの著も取り上げていたことを知って、意外に思ったものだ。
私にはまた別のくだらない思い出があって、これもずっと以前、NHKの名作朗読の時間にこの小説が取り上げられたことがあった。「ハーマン・メルヴィル作、白鯨」という冒頭宣言が、なにか巻き舌めく不敵な声優の声で印象深かった。もっとも、その内容はまったく覚えていない。
ともかくこれは読まねばならない(なぜだろう。「十大小説」だから読まなければと思い込んだのだろうか。なんだか面白そうだ。自分にも読破出来そうな小説だ、と誤解したのだろうか。今となっては不明だ。)と思ったのだろう。若いころに(上下巻に分かれた厚い2冊、意外な長さにびびって、手をつける気にならなかったように思える。上が¥160、下が¥170。今なら¥500.を下らないだろう、文庫本は古典と決まっていた時代。)買い込んでから、随分年数が経っている。新刊で買ったけれど、読まないうちにもう油紙なんか日に焼けてぼろぼろだ。ピンク色の帯が色あせて残っている。
11月はじめのひとり旅(山陰、益田、人麻呂に関しての旅。 第三章 大いなる旅の友 参照))に持ち出して以来、約一ヶ月かかって読了した。うれしいことに、まだ裸眼でかつかつ読める。もっとも、ルビの一部はさすがに判読不能で、ルーペを使って確認したこともあった。
さて、内容だ。楽しい部分もあったけれど、メルヴィルの冗長な饒舌だけが目立った部分も多かった。正直言って、概して、結構つらい作業だった。こんなコンテンツのねたにするという目的がなかったら、途中で挫折しないまでも、もっと時間がかかっていたかもしれない。これは当初の期待とは異なり、物語文学というものではない。魅力的な主人公が登場して胸のすくような活躍をしてくれるわけでもない。感情移入の難しい偏狭な奇人エイハブ船長と、ものいわぬ怪物モヴィー・ディックとの戦いを描いた不条理の2人芝居といっていいのだろう。奇人エイハブの長々しい独白は、多分、原語で読めば荘重華麗な大文章なのだろう。しかし日本人たる私たちは(訳者の努力は認められるけれど)その文学味を十分に楽しめるというわけではないのだ。翻訳ものの悲しさだろうが、残念なことだ。

かつて世界の海を巡って抹香鯨を追いかけた捕鯨業というものが実在し(メルヴィルは青年のころ実際に捕鯨船に乗った経験がある)、その実情が細部にわたってことこまかに描写されたという、記録文学的、博物誌的な意味もこの小説には含まれるのだろう。しかし、彼が図書館で渉猟した、当時の一般的な鯨に対する詳細な知識のひけらかしは冗長きわまりなく、小説としての構成をまったく無視したもので、出版当時、不人気で売れなかったというのも理解できる。私自身はそれなりに興味を持って読んだけれど、それらの多くは今日すっかり古びた間違いだらけのものになってしまっている。たとえば、鯨は魚か、獣か?という当時の論争なども紹介されているが、こんな極端な間違いはむしろ興味をそそる部分ではあったけれど。
これを近代小説がものした新しい神話だというひとがいる(松岡正剛 立紙篇「千夜千冊」)。
我侭な捕鯨船の老船長が自分の片足を食って逃げた白い鯨を仕留めるという一点の目的のために、反対する乗組員たち三十名を束ねて私物化し、危険も顧みず執拗に追い求め、最後には船もろとも全滅するという悲劇、いや、喜劇かもしれない。物語としては単純で、利潤追求のために多くの株主の期待を背負って船出した捕鯨船「ビイクォド号」が、ひとりの狂気にハイ・ジャックされて破滅するという、まずありえない話だから、大人の童話といった趣もある。神話とされるのは、要するに筋が単純で類型的だということなのだろう。エイハブ船長という、強烈な、独創に富む悪の人物像を作り上げたということもあるのかもしれない。もちろん、エイハブを悪と決め付けるのは異論も多くあるだろう。人間の個人的な怨恨が、かくも強い持続力とエネルギーを発揮し、おのれとわが身のみか周囲すべてを巻き添えにして破壊へと突き進む、その恐怖を単純化して描いたということだろうか。もちろん古い銛やら切れた大綱やら、勇敢だった銛打ちの屍骸などをその巨大な体にまつわらせて大洋をさまようモオヴィ・ディックは悪でも何でもない、むしろ神に近い自然の象徴だろう。

ともかく大部で、本文が百三十五章、プロローグに続いて文献抄が続き、本文に入っても鯨一般について作者が調べてきた鯨に関する百科事典的知識が随所に挟まれ、しかも延々と続く。破局のあと最後は短いエピローグ。実際に小説としての筋がカタストロフへ向かってなだれのように動くのは、端的にいって最後の数章である。それはまことにすさまじい描写力の勝利というべきで、その中に彼の哲学も、小説としての面白さもあるといっていいのだろう。もっとも、それらの効果、感動を最大限に効果的にするための伏線、舞台つくりというべきもの、エイハブの所業、常軌を逸した性格と饒舌、それに捕鯨というものの微細な日常光景などが、その最後の異常さを異常と思わせないまでに、それまでの百数十章で営々と描写され尽くし、築かれてはあるのだけれど。

小説書きのはしくれとしての私が面白いと思ったことは、この奇怪な怪物主人公エイハブ船長を含めた、捕鯨船という特殊な世界を、最初から徹頭徹尾傍観者として眺め続け(つまりは作者の視点か)、最後に一人生き残ることになるイシュメェルという登場人物の設定だ。これは小説家メルヴィルの独創の中でも秀逸といっていいだろう。
小説の視点というのは、いつも作者がもっとも悩む問題点のひとつで、この「文中に登場する第3者による物語の描写」というのは、他の書き方のさまざまな難点をあっけなく解決する技法なのだ。
当初、エイハブがなかなか登場せず、においばかり嗅がせてじらせたあげくに、二十五章あたりで悠々登場するのも憎い。こういった技法にも通じたメルヴィルが、どうして読者を無視したような冗長な博物誌を文中に混ぜたのか、なぞである。あるひとによれば、彼自身によって、もっと一般受けする「白鯨」が最初に書かれてあったという。もちろん、その一般受けする「白鯨」がモームに十大小説として選ばれたかどうかというと、それは違うかもしれないのだけれど、少なくとも、モームがこの小説の冗長さを傑作の条件にしてはいないことは確かだし、それらの博物誌部分を除いたところで、この小説がなおも堂々たる長編小説であることを妨げないのだ。
ともかくイシュメィルによって次々に紹介される、エイハブ船長をはじめとする海に魅入られ、鯨に魅入られた男たち、それは二百年前にとっくに国際社会を実現していたアメリカ東海岸の港町の雰囲気からはじまり、そこで活躍していた多くの命知らずの男たち、首狩族の首長の息子(つまり王子)だという全身刺青で覆われたアフリカ人の銛打ちやら、冷静で勇敢な常識人の一等航海士、そして不幸な事故で気がふれたあわれな少年もいる。また広大な大洋の只中でたまたまわが「ビイクォド号」と出会う同業の捕鯨船の数々の、エピソードも含め個性ゆたかなこと。それらを活写する、疲れを知らないメルヴィル氏の達者な筆致は、やはり天才のものした、未曾有の傑作と言うに値する小説なのだろう。




(86)魁皇の花火

ダイエーにも通じることだけれど、贔屓の起源に身びいき、つまり身近かに存在するスターを応援するのはごく自然なりゆきだろう。
平成の大大関魁皇は全国的にも人気の面で図抜けているが、何を隠そう、わがご当地出身の最大スターなのだ。町のあちこちに大関の名前が見られる。魁皇まんじゅうもある。優勝パレードが町を活性化し、本場所がはじまると幟がたくさん市役所周辺を飾る。その十五日間は市民こぞって大関の星勘定に一喜一憂する。そんな空気なのだ。私自身とのかかわりはなお濃く、愚息の中学校の先輩で、ご近所にも本人と同窓で、帰省したら一緒に町を歩くという御子息がおられる。そんな身近かな気分から、ともかく理屈でなく勝てば気分がいいし、負ければがっくりというのもご理解いただけることと思う。
町では後援会が本場所中、大関が勝った直後に花火を打ち上げ、盛大に祝う。小さな町であり、どこにいても聞こえるほどの威力もある音花火が、普通2発、金星のときは5発、優勝決定時は更に派手に、十発以上鳴ったようだ。連敗したあとの勝利はまた、溜まっていた分をはかせるのか、やっぱり2発どころでないようでもある。テレビを見ていないときでも、この音を聞いて安心するし、その時間になれば仕事の手もそぞろで気になって仕方がない。今場所(‘03、九州場所)はかど番でもあったし、みな殺気立ってその音を待っている。
ところで、私など、音は聞くけれど、その花火がどこで、どのようにして打ち上げられているのか、まだ確認したことがない。身近のひとも、案外知らないようだ。この話をメイル仲間にしたら、「雨の日はどうして上げるのか?」と質問もきた。なるほど、豪雨のときも鳴っていた記憶があった。これは確かめねば、とずっと思っていた。十三日目、ようやくかど番脱出なった翌日の対横綱戦で更に金星をあげ、これも結構派手に(5発以上だった?)打ちあがっているのを聞き、昨日、ついに思い立って出かけた。

町の真ん中を流れる九州で2番目に大きい遠賀川の河原は公園として整備がすすめられており、いつも工事中だ。全体は実に広いけれど、このあたり、4月のチュウリップ祭り、夏の花火大会の現場にもなる、田川方面からの支流と、飯塚から来る本流が合流する中州のあたりに見当をつけて歩き回った。時間が迫り、どうもそれらしい人影も見えず、あきらめかけて駐車場へ戻ってきたら、それらしくもない場所で道路工事関係者のような小柄なひとがサニーバンを停め、車のねきでなにやらやっている。先ほども出会ったのだけど、まだいたのか、と思いつつ何の気なしにしばらく眺めていたが、ひらめいた。
これが花火師なのかもしれない。
さりげなく鉄筋用の鉄棒をまっすぐ地面に打ち込み、
それに十センチほどの直径、長さ1メートルほどの、底つきの鉄パイプをナイロンひもでくくりつけている。これが打ち上げの砲筒になるらしいが、まったく急ごしらえ以上の何者でもない。
大相撲の実況がそばの車のカーラジオから聞こえていた。
ビスケットの空き缶の中に種火のろうそくをチャッカマンで点けているが、風が強く
しょっちゅう消え、また倒れたりして往生している。
ちょっと話し掛けて、そうと確認した。
大牟田に本拠がある会社で、高田町に工場があるという。
当人は飯塚の出張所勤務で、大牟田から毎日かよっているわけではないらしい。

いつもはもっと見通しのよい場所へいくのだが、工事中で、これ以上進入できないので、ここに決めた、という。なるほど、ずっと縄が張ってあり、車はこれ以上は入れない。
いつもはもっと川の中ほど、市役所の庁舎の正面近くでやるらしい。
直前にパイプの中に火薬を仕込み、
「雷」といわれる音花火を落とし込んで、火薬の圧力で打ち上げる。
上空50メートルほどでそれが破裂する。
手のひらに余る大きさ、伊予なつかんほどのまん丸い紙巻きの玉を2つ、見せてくれた。親導(おやみち)というでべそのような短い突起があった。

雨の日は直前までパイプにふたをして中の火薬がしけらないようにするが、
優勝の決まったときなど十発以上あげる契約だそうで、
一度打ちあげたら、あと水が入って使えなくなるので、
そんなときはパイプを5、6本用意して次々に蓋を開き、打ち上げるとも。
武双山が旭鷲山を破ってかど番を脱出した。
魁皇の対戦が近づくと、花火師はナーバスになり、
危ないから離れてくれ、というので遠くに避難した。
今年は花火業界は事故が多いし、やっぱり、気にしているのだろう。
いつもは分のいい栃東戦だったけど、結局負けてしまい
打ち上げは見れなかった。
残念。
栃東は強かった。
もうあたりは暗くなっていた。
花火師は、さばさばして、あと1日や、といって帰っていった。
さあ、明日も観にこようか、どうしよう。


(85)ダイエーホークス日本一

福岡市に本拠を置くプロ野球チーム「福岡ダイエーホークス」が阪神タイガースを破り優勝した(10/27)。私も九州在住であれば、情が移るのも道理、連日の熱戦に付き合い、四年ぶりの日本一の快挙に快哉を叫んだ。敵さんには悪いけれど、やっぱり地力が違った。今年のダイエーは強かった。敵地での三連敗はあちらへのファンサービスみたなもので、文句なしの優勝だろう。あれで敵は燃え尽きたのだ。

柄にもなくTVで野球を見るようになったのも最近のことだけれど、やっぱりダイエーが強くなってからだから現金なものだ。弱いチームは見ていて辛いというのは人情だし、やっぱり、ひいきにするには強くなくては駄目だ。負けた日には気分が滅入るし。
しかし、繰り返すが今年のダイエーは強かった。見ていて安心できた。記録的にも、
百打点カルテット、チーム打率3割、最多得点試合などなど大変な記録がそれを証明した(野球は記録のスポーツだというけれど、コンピュータがなかった時代から様々な記録で我々は愉しんできた。スコアラーたちの努力を多としたい)。ともかく切れ目のない打撃で8点差をひっくり返した試合もあったし、攻守にバランスの取れたいいチームだった。しかも一人ぬきんでたスター選手というのがいない、ともかく全員野球のチームプレーに徹したプレーで試合を盛り上げた。おまけに若い、美男子が多いとなるとファンがつくのも道理だ。
一人あげよといえば、やっぱり背番号52、弱冠22才でサード、開幕直前の怪我で全休を余儀なくされた不運な4番打者
小久保の欠場を松中とともに十全に埋めた川崎だろう。あのひたむきさ、愚直なほどの爽やかなプレーぶりは、どこか往年の野球マンガ寺田ヒロオ(映画「ときわ荘の青春」に出ていた)の描いた中学生ヒーロー(「背番号0」など)を思い出す。
若いといったけれど、今年主力になった投手、野手、殆どが新人か、前年に全くといっていいほど実績のなかった若い選手たちだった。こんな事実も、思えば奇跡のようなことだけれど、ダイエーが財力を傾け、また
王監督を信頼しつつ地道に有力新人の確保補充を惜しまなかったことの結実なのだろう。
王采配は9年目、五年間の低迷を脱して、ここ四年はずっとAクラス定着、リーグ優勝2度、四年前は中日を破って日本一にもなった。そして今年だ。親会社のがたつき、中軸の故障など不安を抱えての出発から、誰も予想出来なかった今年の快進撃の結果が4-3のホームゲームで日本一とは、全く最高の筋書き、最高のしめくくりだったといっていいだろう。


福岡のプロ球団といえば往年の
西鉄ライオンズ、豊田、中西、稲尾らを擁して豪快に勝ち、連覇した、あのころの黄金時代の再現が、球団は変わっても現実となった。高校野球は最近ちょっと中休みだけれど、野球王国福岡を来年以降も継続したいものだ。

(84)庭木の手入れ

日来、近所の知人から庭木の職人の紹介をうけていた。腕のいい職人で、比較的廉価でいい仕事をしてくれるんだ。ところでお宅の庭木は「よく」茂っているよ。さっぱりと気持ちよく剪定して貰ってはどうかな、云々--。こんなコーナーをずっと読まれた諸子には想像もつかないだろうけれど、私は、ご近所では、温厚子で通っている。その定評を自ら崩す危険を侵したくはなかったので、ともかく外面はへらへらして、家族で相談しておきましょう、とかその場は言い逃れておいたのだけれど、心中、おおきなお世話、と穏やかならない気分ではあったのだ。

つまり、その時点において、私は自家に剪定師なぞ入れる気は全くなかったのだ。
確かにうちの庭木は「よく」茂っている。第一、私は[庭木の手入れをする]という思想を持たない。自分で剪定はさみを持ったことがない。もっとも、はさみを入れるに値する銘木を持たないということもある。もっとも、向かいの空き地に生えているわが所有になる若い梅の木は、最近よく咲き、実なりもよかったので、収穫後は少し枝を払ったけれど。


我が家はかつかつ建坪三十坪の家が建てられるだけの敷地で、庭らしいものはないけれど、それでも日本の平均的マイホームのご他聞にもれず、わずかな余りの土地には何本かの雑木を植えている。
この家に入った当初、たしか、
四万五千円でトラックセールの余り庭木十本ほどを半分押し売りのようにして植えていった植木屋があって、それから年二十がたっているのだから、それらはそれなりに立派な木になっている。金木犀、銀木犀、槙、柊、木斛(もっこく)、カシ、山茶花、楓などなどである。そのあともちょいちょい追加し、枯らしたりしたけれど、それらを手入れすることがなかったので、彼等はおおむねよく伸び、茂り、文字通り鬱蒼と茂って、塀の外へ盛り上がり、押し出して壮観ですらある。いや、あったといったほうがいいだろう。
そんな風景を私はよしとして何十年もすごして来た。妻は私の怠慢だというけれど、休日のたびに主人にはさみを入れられるので、終生いじけて葉の伸びる猶予を与えられないご近所の松やらかいづかいぶきなどを見ては、彼等自身やっぱり不幸なのだと思って同情を禁じえない私なのであり、彼等にだって存分に伸びる自由と権利があり、そんな機会を与えてやるべきだといつも思っていたのだ。

庭師のことををすっかり忘れていた昨日、会社から戻って車の中から見ると、家の様子がいつもと違う。変だ。なんというか、焼け跡を見るような、すさまじくも寂しい感じがした。車を置き、よくよく見て腰を抜かした。家の庭、塀の向こうにある木という木がみなまっぱだかになっているではないか!。全部の木が枝という枝、葉という葉を失い、まる坊主になってしまっている。よく見ると、数枚の葉が残ってはいるが、みな例外なく九十七、八パーセントの葉を失い、ともかく木という木の、殆ど全部の枝が幹近くで無残に切り捨てられてある。家そのものが殺伐とした裸家になりしまった感だった。
中でも無残だったのは、私の二階の書斎から見える常緑の(シラカシ?)だ
った。これはもともといつごろから生えたのか覚えがないままに現れた自生の木で、北側のわずかな土地の隙間から伸びて、伸びに伸び、既に大屋根の高さを超え、いささかのっぽの感じはあったけれど、最近では枝葉もかなりのボリュウムになって、小鳥たちがよく出入りして遊んでいた、その木が、私の背の高さで幹からばっさりと切断され、その付近からわずかにひょろっとした枝が一本、数枚の葉をつけて震えていた。

私は怒りに震えた。

久しぶりの家庭争議であった…。

しかし、いくら私が切り散らされた庭木のために絶叫したところで、
失われた木々の手腕や葉は戻ってはこない。
生命たるものの、悲しい宿命だ。

私は庭師に払う三万円が惜しいのでは全くないのである。
ただ、茂る木を見れば刈りたい、切りたいと思う庭師、あるいは庭木愛好家の病的なる潔癖心を怪しむのである。

どうして木に伸びる権利を認めてやらないのか。
どうして木が切られる痛みを感じ取れないのか。
木だって切られればやっぱり痛いと感じているに違いないのだ。
彼等も生き物なのだ。
日本にある庭木が全部つんつるてんでなく、一時の我が家の庭木たちのように存分に伸びる自由を謳歌すれば、おそらく懸案のCO2問題だってそれなりに緩和されることに疑う余地はないだろう。

日本人は植物愛好家だという。
本当だろうか?
一部のアフリカ人原住民は、森林を憎み、木という木を切ろうとするという。
そんな人間を、剪定愛好家的日本人は(無知だと)軽蔑出来ないだろう。

(83) 門司港レトロ

門司港レトロが好みで、もう四回目になる(10/12)。といっても、しばらくのご無沙汰だったので、1年ぶりに覗いてみたら、「海峡ドラマシップ」とかいうべらぼうな巨大船舶を模したたてものが出来ていた(4/15オープン)。なにはともあれ一番に寄ってみた。関門海峡にまつわる歴史的な事象をドラマに見立てて様々に色付けし、愉しんでいただこうという趣向らしい。新羅遠征途上の神功皇后(衷愛天皇のきさき)の海峡開き(地峡が割れ、動いて船が通れるようになった)から壇ノ浦源平合戦、そして最近ブームの武蔵、小次郎決戦、そんなものと竜伝説を合体させた立体ムービーが中央の巨大な繭型のスクリーンで楽しめる。その他人形競作の歴史パノラマ、海峡をリアルタイムで眺めながら船の操作をシミュレーション出来るフロアなど、また、レトロの街並みを実物大模型にしてみやげ物コーナーが出来ていた。しかし、目玉はやっぱり二階、五階(最上階)のレストランだろう。コンパニオンの綺麗なお嬢様がたも沢山そこにはいらっしゃいました。
「ドラマシップ」ドラマは大成功らしく、半年で60万人を集めたと誇らしげにかかれてあった。また、門司港駅の西には「
九州鉄道記念館」なるものがオープン(8/15だったか?)し、九州管内を走る花形特急などの動く模型、それにもちろん本物のロコモーチブもあって子供たちが群がっていました。あたかも小倉出身の漫画家松本零士(名誉館長)氏が客車内で講演をされるべく向かわれるのに出くわした。盛況でありました。

この日もレトロは沢山の人出で、それはそれで慶賀としたい。しかし、どうも手放しで喜べない気分があるのは、どうしてだろう。レトロさん、余りに成功しすぎて、ちょっと調子に乗りすぎているんじゃあないの、といいたいのは、私だけだろうか。
あの有名な
妻篭の街並みを売り出して大成功した例などはあるけれど、門司が一旦は壊そうとした明治開化前後の地味な建物群を磨きなおして観光のねたに宣伝をはじめた時は、私など半信半疑だったけれど、それがこのように成功したのは、やっぱりじっくりと本物を味わって愉しもうという大人の観光志向が日本人にも浸透しはじめたんだなーと感慨無量だった。
でも、こんなスタンスは、普通、大成功はしないもので、これだけ連日ミーはー族を呼び寄せるのは、嬉しい誤算だったのだろう。次から次に新しい企画をしなければならない皆さんの気分も良くわかる。しかし、これらは、やっぱり麻薬のような
ものだろう。これほどの投資が効果を生んで、また新しい投資を可能にする、そんなドラマシップが、果たして描けるものか、どうか。(写真 門司港駅

 やっぱり門司レトロはレトロのままでいて欲しい。私の好みからいって、せいぜい「
わたせせいぞう記念館」('02/10開館)くらいが精一杯の限度なのだ。初老夫婦だけのテーマパークというものがあっても、いいではないか。


(82)「イギリスはおいしい」

通の日本人が随分海外に出かける時代になって、外国の風光、文化そのものが一般常識の範囲に取り込まれ、珍しくもなんともないという。出版界でも、いわゆるあかげっともの(外国滞在記、異郷紀行文)が異世界発見譚として単純に珍しがられ、受けた時代は過ぎて、良く知られた外国など、よほど長く滞在して、知られざる内情をちょっとななめの視線で掘り下げるとか、新味を出さないと読まれない時代になってきている。これも世界が狭くなった現象のひとつなのだろう。
国文学者の林望氏のイギリス滞在記「イギリスはおいしい」平凡社’91年刊 の人気は、多分、日本にとっての文化先進国、経済的にはともかく、まだまだ文化的にはとても追いつくどころでなく、様々の格の違いを見せつけられるグレートな(老)大国が、意外な面でアキレス腱を持っている(ようだ)という、いわば大衆週刊誌の暴露記事に似た気分で読まれたということなのではないだろうか。
つまり、偉大なイギリス人も、食文化に関しては、実は、フランスや中国、そして日本などの特色あるものに比べて、とりたてて言うべきところのない、もっと直裁的(ありてい)に言えば、「文化」などといえるものではない、並み以下のものしか持たないという意外性の暴露。

 この本の巻頭にも書かれてある通り、このことは日本の識者にとっては(密かな)常識だったのだろう。著者は言う「イギリスの食事が、概してまずいことは世界の定評であって--」。でも、知らなかったひともまた、沢山おられたと思う、この書がベストセラーになるまでは。
もちろん、外国には縁のない私も、寡聞にして知りませんでした(「へー、そうだったんだー。知らなかったなー」)。
当然ながら、国際人であられる林氏は、この事実をまず一般常識として認め、しかしながら、云々--。というところに力点を置き、この上質のエッセイ本をまとめられたのだろう。当然ながらイギリスを愛し、イギリスに沢山友人を持っておられる著者は、こんな(不当?な)悪口を叩かれる親愛なる大国を援護し、さまざま弁護して持ち上げる目的をもってこの著作をなされたのだろう。
実際、イギリスにも美味しいものはあり(決して沢山はないけれど)、また、料理を愛するひともまた皆無ではない、ということがこの書の内容(の一部)になっている。しかし、--。

しかし、やはり林大人にとっても、結局、木に縁りて魚を求むことの愚は突破できず、「イギリス料理はおいしい」とは書けなかった。逆に、巻頭のハードパンチのあとも、イギリスの「美味しくない」料理、食事の例を、これでもか、とばかりに、それこそ延えんと書くしかなかった。これでは看板にいつわりありといわれても仕方がない(イギリスのどこが美味しいのか?)。
英国人は、やっぱりこれを読むのは辛いだろう。私だって辛かった。実際、旅行の楽しみにおいて、その当地の食事は、随分と大きな割合を占めているものだからである。イギリスには行きたくなくなったなー。

もちろん、イギリスが伝統ある文化大国であることは間違いない。氏のエッセイの後半の盛り上がりにもあるとおり、料理がおいしくなくとも、ウイットに富んだ国民性が食事時間を楽しくさせてくれるし、お酒のつまみやら、デザートやら、そしてティなんかは素晴らしいのです(もっとも、ここでお酒(スコッチ)なんかも出てくるはずだけれど、いかんせん林氏は根っからの下戸であり、酒に関する著述はありませんでした。その代わり、世界に冠たるイギリスのパブ文化の紹介はありましたが)。
最後近く、イギリスを代表する音楽家、作曲家であるH.・ファーガソン氏(1908〜)の料理通ぶりと、能楽にも堪能である著者との交流を描いた章は、中でも(この書=の前半で壊れかかった=の日英の関係修復には)最高の癒しでありました。

つまり、このエッセイは、子供の頃からバイオリンのレッスンよりもウナギのさばき方の方に興味を示した林氏のたっぷりした料理薀蓄を、イギリスを「だし」にして語り尽くした新しい形の異世界発見譚なのだろう。概してなかなか楽しく読ませていただきました。

ところで、
上記のウラというか、
イギリスはおいしくないということのひとつの
傍証のようなものが、私のメルトものメールの中に最近ありました。
先日イギリス旅行された、旅なれた若者(女性)ですが、
服飾関係のプロであられる関係からか、
ロンドンのスーパー小売業なんかを調査されてます。
ついでに覗かれた場所、
スーパーの品揃え (食品部門) 
8割が入れ物ごとレンジかオーブンで暖めれば食べられるものでした
そして残りの1割が缶詰・・・・
そして全体の1割に野菜、肉、果物、デザート・・・・
これでは、料理研究家なんていう人たちは誕生しないだろうなあ


だそうです。
ある意味、イギリスは、合理的生活最先進国なのかも---。


(81)ヒトはどこまでも機械である

朝日新聞文化欄(9/16)に生命記号論という科学の紹介のようなものが載っていた(西垣通 東京大学院情報学環教授)。「ヒトはどこまで機械なのか?」興味を持って覗いたけれど、余り得るところのない一文だった。
「心を持つロボット」という概念を記述することは,かくも難しいという見本だろう。
氏によれば、「情報の意味は文脈に応じて千変万化する」という。これはそれこそ随分意味深めいて、まためちゃくちゃな意見である。多分、氏は「情報の意味解釈はそれが使われる文脈によって変わることがある」と言いたかったのだろうが、こんな当然なことはわざわざ書くまでもない。ある意味、誰かがでっちあげた、「それが使われた文脈も含めての情報A」が情報Bというものなのだから。

氏の言う「人間の心」とは、何だろう。まさか感情のことではないだろう。感情というのは理性よりも原始的な、動物の生命維持機能の発する現象の一つなのだから、随分単純なものだ。むしろ、今問題となっている「意識」、パソコンのスタンバイ状態での「妄想」が厄介なものなのかもしれない。しかし、いずれ、人間というもの、感情に基づく「反射」を基本として動く自動機械であることは間違いない。
綺麗な女性を見れば欲しい(性欲)と思い、殺人者を目撃すればひたすら恐ろしい、逃げたい(防御本能)、あるいは正義感にかられて怒りを感じる、やっつけてやらねば!(集団防衛本能)。もちろんもっと込み入った反応をする人間もいるかもしれない(あ、あの人間は知り合いの親戚だ。やつに金を十万円貸していたが、これは早く取り戻さなければ---)。
これらにはさほど複雑ではないルールがある。だからそれらの現象を研究解析し、それをもとにして、あたかも本当に起こったような人間同士のドラマ、小説も書ける。もちろんコンピュータシミュレーションもできるだろう。ロボットへ取り込むには、学習機械の長期ランニングでOKなはずだ。だが、そんな人間社会のしがらみの中でうじうじするロボットを作って、何になるのだろう。人間の奴隷としてのロボットは、やっぱり感情などは不要なのだ。鉄腕アトムもそういっている。

氏は、コンピューターは犯罪は起こさない。ひとだけがめちゃくちゃな行動に出る。その(めちゃくちゃな行動に内在する)ルールのひとつとして情報解釈の多様性があり、生命活動の本質がある(ジェスパー・ホフマイヤー 生物哲学者)のだと言う。確かにひたすら単純な理性家であるコンピュータは固まったり、暴走して変な出力を出すことはあるけれど、確信犯的な行動は起こさない。感情を持つ人間だけが感情によって計算を乱され、間違い、儲かるかもしれない、と考えて犯罪を起こす。英雄になろうとしてウイルスを流し、逆に顰蹙を買う。母象が面倒な泥沼でもがく子象を救い得ず、かんしゃくを起こして踏み潰すのも、感情のなすミステークだろう。
感情が芸術に潤いを与え、楽しいものにするのだろうけれど、優れた芸術は一面、殆どが機械的な訓練と緻密な計算、優れた理性の結実なのだ。
受精卵から幼い生命体が発生していくプロセスは、誤解や偶然の食い違いに満ちている」と氏は書くけれど、これが何かのずさんな比喩でなければ、分子生物学はまったくなりたたないことになるだろう。われわれ生命体は何億ビットもの遺伝子情報であるDNAを日々、正確無比にコピーし続けることで生命を維持し、種を維持しているのだ
フランスのノーベル賞学者で分子生物学の創始者J・モノー氏は著書「偶然と必然」で、生物のこのシステムの、極度に保守的な安定性が数億年も同じ種のままで繁栄しているいくつかの生物のことをいっている。そしてそれは例外的なことでもないのである。発生でのプロセスでミスが起こるのは、更に、非常に稀なことだし、生物には致命的なことなのだ。種の進化がそのミスのひとつによって起こったのだろうと推測することは可能だろうけれど、まだ人間の歴史はその「進化事例の現行犯」を目撃していないのである。

もちろん、西垣氏の言う「受精卵」が、私たちを含む人間が日々このように書き、発言している文化(?)活動の結果である「ごみ」のことを意味しているのなら、それはその通りだ、といわねばならないだろう(まことにきれいな比喩ではあるけれど)。「誤解や偶然の食い違いに満ちている」」まことにその通りだ。この、やくたいもない一文のように。

しかし、モノー氏が同著で慨嘆ているように、「細胞はまさしく機械なのだ」し、その構築物であるひとは、その遺伝子情報の正確無比なプロセスからもわかるように、とことん機械なのだ。これは間違いないし、人間のからだのどこにもあいまいなものはない。ただ、それの詳細を人間がまだ知り得ないだけなのだ。

立花隆 100億年の旅」朝日文庫’02.3月刊には、すでに「超人の脳」、世界中の人間の脳をすべて合わせたよりもニューロン(脳細胞の単位組織)数の多い人工脳を造る計画がスタートするという(Jブレイン計画)。これはある意味ではクローン人間などよりも危険な計画だ。北朝鮮などでこれが稼動し始めたら、世界制覇も夢ではないだろう。
もちろん人工脳はビジネスとしても超大ものである。確実に1兆ドル産業になる、と。

 


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