激白 81.ヒトはどこまでも機械である飛ぶ


(80)ドナウ河と遠賀川遠賀川 河口付近

上記のテーマで開催された「環境フォーラム」なるものを覗いてきた(於福岡県立大)。
目玉は環境先進国のドイツから招かれたH・ヴァイカー博士の基調講演「ドナウ河の自然を守る」。氏は同国の環境自然保護連盟理事長で高名なNPO「ブント」の親玉でもある。ドイツ・ハレ大学の教授であられる島田信吾氏の通訳でヨーロッパ第二の大河(一位はヴォルガ河)の状況と河川に対する最先進の環境的な考え方を聴くことが出来た。

ドナウ河はスイス山岳地方に発し、ドイツバイエルンの森林地帯を貫流し(ドイツ国内だけで500Kmを超えるという)、オーストリア、ハンガリーを通り、更にスロバキア、ルーマニア、ブルガリアを流れて黒海へ出る。総延長2,850Km、流域面積は817,000平方キロの代表的な国際河川である。

国際河川という概念からして、日本人である私たちは想像もつかないスケールの川を想像するが、実際、ド河は超ド級の代表的な国際河川だ。もちろんそれだけ流域の住民の川への思い入れ、大事にしようという考えは徹底しているに違いない(汚れたら国際問題になる)。遠賀川は残念ながら格式でもスケールでもド河とは比べるべくもないドぶ川といっても遠からずであろうし、ともかく(恥ずかしながら)九州でも汚ない川としていつもトップにランクされるわけで、名曲ドナウ川の漣(さざなみ)として謳われた名河川とこうやって並べること自体まことにこっぱずかしいことではあるのだが。

ま、それはさておき、ヴァイカー博士の川へのコンセプトは、まず自然のままにしておく、あるいは自然に戻す、それによって川の持つダイナミック性を保ち、それによって流域の環境を良好に保つ、ということだろう。ひとくちに自然のままに保つといっても、ドナウの大河は下流域では水位の高低差は五メートルもあり、これを堤防も作らず太古のままの状態に置くとその川幅は最大数キロもの広がりを持つことになる(川底を深くする工事も1920年以来ずっと行われているという)。そんな自然状態を保ったままの流域がドイツ国内、特にバイエルン州にはなおかなり残っているというのは驚きである。
ともかく、その川の広大な川床が季節によって水流の下になったり、陸になったりするために、その自然林の帯域を含めた広い地域で地下水高の上下、出入りがあり、その「呼吸」が及ぼす水脈の活性化が、豊かな自然を保つもとになるのだ、という。いわばこれが川の持つダイナミック性の最たるものだろう。
一旦固定された直線の堤を壊して川幅を広げ、またはわざに蛇行させるようなことも、実際行われてきた。
講演では長い環境活動の成果として、ドナウ河流域の豊かな自然、戻ってきたビーバーなどの動植物、多くの魚、虫たちの紹介があった。もちろん彼等も問題は抱えている。船の航行(バイエルン州でのドナウ川の船の航行可能距離は209Km)を容易にするための堰の計画がなお進められており、「ブント」としての反対活動も続いているということである。

遠賀川の流域でも、最近では堤防のコンクリート固めをやめて、昔ながらの石積みにしたり、多少の出入りを作って流れをコントロール
すると同時に自然を取り戻そうというような運動が始まっていることは聞いていたけれど、ヴァイカー博士のかような話を聞いていると、まったく日暮れて道遠しといった感もなくはない。
こんな河川の最下流から取水して飲料としている市民の多いことを知るにつけても、少なくも、川にごみを捨てるのだけはやめよう、とバカな日本人にいって回りたい気がする。多分、遠賀川の全長(63Km)がこの三倍あって、降水量(1、600mm/年)が1/2(ドナウ流域は750mm/年)だったら、下流域の住民は皆病気になっているだろう。

講演のあと、パネリスト5名によるシンポジュウムがあった。この汚染された川を広く認識させるためにはじめたという「遠賀川手造りいかだ下り競争」が来年で25回になるという涙ぐましい運動家の話は圧巻だった。皆遠賀川を愛するひとたちばかりで、心うたれた。NPOという活動がこのときほど身近に思えたことはなかった。行政は何もしてくれないと嘆く前に、やはりできるひとたちで地域横断型の活動が必要なのだろう。V氏の提案する河川会議、流域全体を眺めるコンセプトが必要なのであり、その実行にはNPOが最短の方法なのだ。右図:遠賀川 中間市付近


79)火星大接近

が近づいているという。六万年に一度の大接近だとも。これはすごい、ぜひ見なければ、と真夜中に南東の空を見た。なるほど他の星はかすんで見えない闇夜に近い空だったけれど、中天にかかった赤っぽい星ひとつが輝いていた。用意した50倍の双眼鏡も必要なかった。金星ほども光っていたのは、やはり大接近の効果だろう(当然)。

その名をよく知っているわりには、普段の火星を即座に夜空に見つけられるひとは少ないのではないか。だいいち、肉眼では見られないことがほとんどだろう。明けの明星、宵の明星として有名な金星を例外として、一般の惑星は、素人にとって、なかなかその知名度ほどには実際の姿を見る機会はないようだ。一定の場所にある恒星は星座表などを頼りにして探すことは出来るけれど、日々その位置を変え、しかも光の乏しい惑星たちを満天のなかに見つけることは、よほど宇宙に精通していなければ、難しい。こんな大接近とかいうような「イベント」が惑星たちのブレークのチャンスなのだろう。

アストロノミー 副題天体観測基礎知識 リンダ・J・ケルセー他磯部秀三他訳 誠文堂新光社 1990」はアメリカの大学生の教養課程の教科書らしい。これによれば、肉眼で見ることの出来る惑星は金星、火星、木星、土星、時には水星も、とある。古書店でこれを見つけたときは嬉しかったけれど、当然ながら星を観測するための詳細煩雑な実務知識、局外者には面倒くさいだけの専門技能のマニュアルで、すぐ通読をあきらめた。しかし、古来の天文家が情熱を傾けてこんな役にもたたぬ知識と技能をこつこつと工夫し、培ってきたおかげで、今のわたしたちが楽しめる膨大な科学の知的資産もあるのだ、と思うと先人の偉大さに改めて頭が下がる。

 ちょっと古いけれど、内容は古くはなっていない「年・月・日の天文学」広瀬秀雄 中央公論社1973 に「螢#惑出れば則ち兵あり」という火星の章は

「今年(1971)の八月十日には火星が衝(しょう)になる---。」と書き出されている。衝、とは地球から見て火星が太陽と正反対の位置に見えることである。地球の外を回っている火星は、この時期に最もわが母星に近い位置に来るとされる。つまり、この年も火星(大?)接近の年だったのだ。「マイナス二.六等の光輝によって諸星を圧し、夜空に君臨する」と続いている。「」というのは中国の火星を指す古語で、兵乱の兆候とされた。西洋では火星は戦いの象徴である(マルス=軍神)。どちらがオリジンなのか知らないが、確かに赤い大きな惑いの星は金星などの爽やかなきらきらしさと異なり、なにか含みのある不気味さ、禍々しさを秘めているといわれるのもむべなり、である。ちょっと著者の癖にはまってしまった。暦と天文学とを表裏一体とし、豊富な文学知識を味つけにして、氏の半生を過ごされた天文学世界の興味深い歴史をエッセイ風に書きつづられた本書は、繰り返し読むわが愛読書である。ことに戦前戦後を通じた日本の天文学界の技術発展(氏の貢献
が大きい)の著述が興味深い。
(「惑」の中のは本当は「火」ですが、文字化けする(FPEにはない?)のでこれに代用しています。)

偶然なのかどうか昨夜BS2で放映されたSF名画「2001年宇宙の旅」、初めて通して観た。使命を帯びて惑星間を木星へ飛んでいく宇宙船デスカバリー号、そのすべてを制御するコンピュータ「ハル9000」が狂い、乗員と対決し、彼らを殺しはじめる。アーサー・C・クラークSF小説を見事にに映像化したS・キューブリック。小説そのものは知らないし、映画の煩雑な前後(導入部と後半部分)は私には単なるつけたしのように思える。ハルと人間たちとの息詰まる戦い、心理戦、そして宇宙空間に浮ぶデスカバリー号とその周辺を拙く動き回るスペースポッド、宇宙服を着た隊員の遊泳、それらの美しくもはかない詩的な映像を眺めているだけで、この35年前に作られたSFXがまごうことのない名作であることを、人間とはかくも卑小な、あやうい存在であることを思い知らされる。コンピューターだって、やっぱり人間から一歩も出ないんだよ。宇宙へ出るなんて、百年早いよ、君。


軍神の星大接近の今年、日本は戦後初めて国外に兵を出そうとしている。火星など殊更に出なくても、地球は通年して兵乱の星ではあるけれど、



78        バカの壁

  一時期、説得、あるいは議論というものの無効性に悩んだ。

  相当の割合いで、人間というものは、会話をする時点で自分自身の
立場しか考えていないものだということを悟った。

  書き切れないほどの実例があるけれど、ハイライトは「常務」と
社内で呼ばれていた酒好きの男との対話だった。私の職場に、ちょっと珍しい
ハイ・テクの設備を稼働させた。その導入元のメーカーが、当設備と職場を
雑誌に紹介したいから、と取材を申込んできたのだ。向こうの宣伝に使うのだ
けれど、当然ながらわが社のPRにもなる。しかし総務担当のその男は、
断れ、と言った。私の前記の説明に対して返した言葉が

おまえの言うことなど、聞かん」。

  人間同士の話し合いのなかで、こんな言い方が
あるのかどうか、という、私自身の矜持に係わる問題はともかく、
てんで、相手の話の内容など聞いていないのである。もちろん
話し相手(の地位)にもよるのだろうということは見当がついたが、
私自身が天皇陛下などに変身することは無理だから、これは類推するしかない。

  自分よりもずっと目上の相手に対するときは、彼等とて
やはり相手のことを考えざるを得ないだろうことは想像がつく。
常識人ならそうするだろう。もっとも、相手が天皇陛下なら、彼とても、
やっぱり逆の意味で”会話”など出来ないだろうとも考えられる。

  会話、あるいは議論が必要な場面では、礼節は
当然としても、会話の内容だけに集中すればいいはずだし、
言葉が通じ合う以上、誰との間であろうとも、それが成立しない
はずはないのだけれど、それが、ちがうんだなー。

  つまり、話し合いにならない。議論が並行線をたどり、
ゆきつく所喧嘩別れになってしまう。ちょっと込み入った、理詰めの
話となると、ますます受け入れがたい人間は増えるようだ。

 

  これが、いわゆる頭の悪い人間の通弊なのかと
思っていたけれど、東大生と有名教授との間にもこういった問題が
生じていて、悩みの原因になっていたのか、と知り、ちょっと安心した。
バカの壁」が書かれねばならなかった所以だろう。

 

  バカの壁」新潮文庫  養老孟司著  氏によれば、
人間の入出力制御装置である脳は、五感による入力情報
   
に対する出力である運動行動
    との間に成立する  y=axにおいて、
  はいわゆる現実によって、人によって、入力によって非常に異なる。
なるほど、こう考えれば、まことにすっきりする。私の発言した情報は、相手の持つ私に
ついての内部情報
  a’  が0(ゼロ)に極めて近い
マイナス数値のために、どんな入力
    を持ってきても、
その相乗結果である
  a’x=y  が全く無視出来る
(あるいは拒むに足る)出力になり下がっていたのだろう。残念なことだ。

 

  ま、個人的な愚痴はいい。養老氏によれば、東大生のごとき
日本の最高エリート候補生集団なら、一定の入力情報に対して
    がゼロか、
ゼロに近い(つまり無関心でやり過ごす自閉症患者とか、社会不適格者がこれだろう)
ということは有り得ないことだし、また、逆にが無限大に近く振れることも大問題だ
(一定の情報を無条件に受け入れる精神状態,カルトに入信した学生や原理主義者
のように)とおっしゃる。しかし、オーム真理教事件に係わった学生や、卑近な例では
朝一番の講義中に眠りこける受講者など、そんな例も少なくないわけだ。

 

  氏が東大生だけではない、日本の教育現場そのものに深い
絶望感を抱いているらしいことは
    第七章  教育の怪しさ  でも
うかがえる。若い人間をまともに教育するには、普通に人間がやっていることは
全部やっておけ、と広く、一応の関心(と知識)を持たせるべきだろう、
しかし、と氏は言う。彼等の一般事項に関する好奇心は概して低い。
しかも、その自覚がない。自ら関心を持とうとはせず、その一方で、
何でも知っている、理解出来る、と思っている。つまり、彼等の
    の値はゼロに近く、
それでいて、教われば何でも理解が可能だ、と不遜にも思い込んでいる。
つまり、”バカの壁”を作ってその中で安住している。

  個性教育、自然学習、理念は結構だけれど、余計なことだ。
人間にとって必要なことはまず人間を知ること、人間が分かり合うための
「共通了解」の部分をより強化していくことが、文化共同体である
日本の教育の根本的な使命なのではないか。氏は繰り返す、

本来、意識というのは共通性を徹底的に追求するものだ。
その共通性を徹底的に確保するために、言語の論理と文化、伝統がある。

第三章「個性を伸ばせという欺瞞

 

  氏の話す言葉を聞き書きのかたちでまとめたのがこの書だという。
なるほどユニークな、はっとするようなものの新しい見方、あっと膝を打つ
興味深い意見が平易な話し言葉でまとめられている。例えば、

日々人間(自分)は変わっていく。変わらないのは情報だ。」

情報、昨今ではそれこそ日々無数に現れて、我々をシャワーのように
通過し、いずこかへ消えていく情報群、こんな情景を思い浮かべれば
間違うだろう。こんなものは情報ではない、ただのごみだ、と氏は
言っているようである。氏の情報とは、情報と見做すにたるもの、
昔から真理といわれていた一連の情報群のことだ。もちろんいまでも
そんな情報は(稀ではあれ)なくもないだろう。しかし、確かに、
そういった重要な情報群も、それ自体一度発せられたあとは
変わることはない。それらに打たれ撲たれて変わっていくのは
われわれ人間なのだ。変わらねばならないのは人間だけれど、
もちろん変わらない人間たちもいるだろう。その文脈で「君子豹変」というのは、
「君子は過ちだと知れば、すぐに改め、善に移る」という意味なのだ。
同じ意味で「男子三日会わざれば刮目して待つべし」というのもある
(刮目
  かつもく  目をしっかりひらいて見る 
三日も会わなかったら、人間はどれほど変わっているかわからない(第四章
  万物流転、情報不変)。

  日本株式会社がおかしくなって、会社人たちが作る共同体は
リストラで無残に崩壊し、、あるいは外務省なんかが作る村落、
そして日本そのもの、大家族共同体もきしみはじめている。
かつては誰もが食うに困らないというのが彼等の理想のひとつの方向
だったけれど、それは達成され、理想とするものが各自ばらばらになっている。
こうしたばらばらは自由のあらわれだという意見もあるけれど、
それはどうかな、というのが氏の提議だ。

  氏は「人生には意味がある」と考えれば道は開ける、と言う。
自己実現というが、自分が何かを実現出来る場は外部にしかなく、
その完結は周囲の人間、社会との関係から生まれるものであり、
それは共同体以外にはありえない。

  大は環境問題があり、その他にも多くのテーマが
考えられるだろう。共同体自体、その中で生きる上ではお互いの依存、
貸し借りが発生し、恩義という考えも出てくる。自分を育ててくれた
共同体のために真っ当な人間を育てて後世を託すという教育、
それらは基本的には無償の行為であるべきだろう。
要は、人生には意味がある、という前提のもとに、それを考え続けることが
重要なのだ。
  第五章    無意識・身体・共同体

 

  脳生理学の権威である氏らしく、脳を都市化にみたてた
比喩など、実に面白い。氏によれば、金(かね)は人間の脳が生み出した
ヴァーチャルなものの代表だという。一つかみの欲ぼけ人間による
マネーゲームで一国の経済が破綻するような今の不健康な世界経済を
立て直すためには、兌換券の考えを取り入れるしかない、その根拠としては
もちろん金(きん)ではなく、実質の価値を持つもの、例えば石油とか、
エネルギーの単位が考えられる。

  氏の考えの底を流れているものは、西洋風の一元論
(絶対神ひとつに全てを委ねる)ではなく、日本古来の八百よろずの神をいただいた
二元論である。つねに考え、揺れ動き、一見いい加減ではあるけれど、
普遍性というものが考えられなくもない。人間であれば、こうではないか、
という考えである。
キリスト教も、イスラムもある多様な世界をまとめる唯一の思想ではないか、と。

 




77        ジャンヌ・ダルク

 

  フランス中世史の華であり、奇跡であるジャンヌ・ダルク
実に魅力的な人物である。ギリシャ神話のアマゾンがどうのこうのと
いったって、これは神話の中の想像的産物に過ぎないが、ジャンヌは
実在の女性、自らの意思で剣を取り、いわゆる西洋風の甲冑を身につけ、
長い髪をなびかせながら、劣勢だった時のフランス王(シャルル七世)を
救うために軍の先頭に立って戦い、実際に奇跡といわれた逆転勝利を
自軍にもたらした。しかし、勝利におごった自軍そのものの裏ぎり、
離反にあい、彼女はひとり敵に捕らえられ、卑劣な裁判の末、
魔女として火焙りの刑に処された。
彼女の活躍した時期、一年余、捕らえられてから処刑されるまでの期間、
また一年。花のいのちは短く、苦しいことのみの長い、芳紀まさに
十九歳でのみじめな最期だった。日本にも火刑に処された若い娘は
いたけれど、これは邪恋に狂ったすえの顛末、同情の余地もない
馬鹿娘だ。
それに比べ、恋人の結婚の懇請を裁判で一蹴し、ささやかな世間並みの
幸せを捨て、むくつけき兵士どもの中へ、ただ祖国を救うためにその身と
いのちを投じたジャンヌの清廉さ、偉大さはまがうべくもない。
こんな見事な女性、史実は他に例はない。わがアマゾニア舘主としても、
おおいに食指をそそられるのは当然である。

 

  もっとも、わがサイトがクローズアップしがちなのは、
少女めく女戦士がどのようにして当時、劣勢目をおおうばかりの
フランス軍兵士たちを引きつけ、統御し、どんな戦術、戦略をもって
見事にイギリス軍を撃破したか(これはコミックなどではない。
実際に起こった事実、どんな西洋中世史にも必ず書かれている史実なのだ。)
というだけでなく、そんな女性戦士が実際、どんな肉体を保持していたか、
美人であったのか、どうか。どんな軍隊生活を送ったのか、捕らえられた
状況はどうだったのか、その囚われのヒロインが敵軍にどんな処遇を受け、
いかなる経緯で魔女ときめつけられ、むごい極刑に処せられたかという
ことであり、いわば、三面記事的好奇心が主体となることはいかんともしがたい。
潔癖なるジャンヌファンには全く申し訳ないし、だから今に至るまで私は
何も書けないでいるのである(おそらく、そんな虚実とりまぜた
通俗ジャンヌ小説、史伝は−日本語でなければ−既に
世に存在しているに違いないけれど)。

 

  あるサイトの書き込みに、かのジャンヌ・ダルクは
捕らえられて拷問やら強姦やらの目にあった(実際は「これらは史実に近い」と
)、
と私が書いたら、いくつかの反応があった。

 

  自称フェイクインテリ氏は、ジャンヌが一時、
女性の服装で牢に起居していた時期に危ういことがあったが、
その後男装に戻ってからはなくなった(強姦が不可能になった)。
それに、処女であるか否かの検査もされて、合格しているので、
強姦の事実はないとしていいだろう、と言っておられる。
別の一人も、当時十六、七だった少女、しかも敵軍のヒロインだった
隊長格の騎士である。そんな格別重要な捕虜が、牢で強姦されるような
ことは、あってはならないことだ、との文意だった。

 

  それぞれまことに理にかなった主張だと思う。
大体が一時の興から言い出した私の不純な動機もさりながら、
ジャンヌはフランス最大の英雄(英雌?)、栄光のヒロインなのだ。
興味本位で汚してしまっては、それこそわが家にミラージュ戦闘機
飛来してパトリオットミサイルなど打ち込まれても文句は言えないところだろう。

  第一、彼女は今を去る600年前の遠いひとであるし、
ジャンヌが死後再び注目され、英雄になったのは十九世紀に
なってからで、その空白の400年間に、彼女に関する資料や伝承は、
絶えてしまったとは言えなくも、消耗し、非常に少なくなったはずだ。
ジャンヌの伝記などは本国では百冊を越えるというけれど、
その大方は近年の作らしい。ジャンヌの像が増え過ぎて、
今や交通のさまたげになっている、と十九世紀から二十世紀にかけて
活動した、皮肉家で知られたノーベル賞授賞者バーナード・ショウ
(百年前だろうが)言ったそうだけれど(彼も名作といわれる一篇の
ジャンヌ頌「聖女ジャン」を書いている)、その像は皆美女であり、
その製作年からも、彼女をよく知った制作者がそれを作ったとはいえない。
伝記や彼女に触れた書き物のほとんどは彼女が大変な美女だと
書いているそうだけれど、その証拠はないのである。

 

  多分、日本でのジャンヌものでは一番流布している
中公文庫「ジャンヌ・ダルク」’67初版、’70
  3版  村松剛著 
によれば、処女で出陣したジャンヌの貞操の危機は2回、
神ががりになってから土地の有力者に金と馬などを手当てしてもらい、
シャルル七世、当時の王太子に会いにいく、その初陣前の旅上での
付き添いの兵士たちに対して、そして捕らえられてのちの、
英国軍の牢での危機である。

  最初の旅、戦士ジャンヌとしての出発、ヴォークリュールから
王太子のいるシノンへの500キロの旅は、敵軍の占領地域を横断する
危険な旅でもあった。従者は六人、
−−主だった二人の
準騎士を除いて他の四人の男は彼女を犯そうと企んでいた。(65n参照 以下P65)

彼女の神がかりの内容は、ひとりの処女が祖国を救う、というものであり、
彼女の念頭に男は存在しなかった。既に準騎士二人はジャンヌに
心酔していたけれど、他の男共は気の進まない危険な旅を押しつけられた
ことでもあり、当然ながら余得を考えていたのだろう。しかし、その危険な旅は、
また彼等自身にとっても、いつ敵軍と遭遇するか分からぬ恐怖の旅であり、
主人を犯すというような余裕と機会は、結局なかったのだろう。
ここでもっとも年少の主人ジャンヌは、むしろ彼等職業兵士をはげまし、
勇気づけすらした。(P73,4)
 
彼等のそんな彼女を汚そうなどという気分などすぐ失せてしまったに違いない。

 

  彼女の真の危機は、やはり敵に捕らえられてからだろう。
オルレアンの大勝とランスの戴冠以後、ジャンヌはその絶頂を越えて、
自ら押し出した王の優柔不断と取り巻きの妬み裏ぎりから
もみくちゃにされていた。結局内戦(VS
  ブルゴーニュ公)での
鉄砲だまにされて公の捕虜になり、次いで英国軍に一万六千フラン
売り渡されてしまう。

  捕らえられてから、ジャンヌはひとり他の同じ同僚の
兵士たちから離され、四ケ月の間あちこちの城を転々とする。
イギリス軍に売り渡されたあと、当然ながらその占領地へ移され、
その地、ルーアンで、死刑を前提とした裁判が始まった。
いわゆる魔女裁判だったけれど、彼女は魔女嫌疑者が入る
教会の牢ではなく、敵軍の牢獄に入れられ、鎖で杭に繋がれた。
イギリス軍のジャンヌに対する憎しみがそんな扱いになったのだろう。

  予審の前に、ジャンヌは再び処女であるか否かの
検査を受ける(王太子に面接したあと、戦士デビュー前に一度検査された。)。
彼女の処女性は証明され、ベッドフォード公(イギリス軍の最高責任者)妃は、
彼女の純潔を守ってやるようにと兵士たちに厳命した。……もっとも、
命令は、いつも守られたとは限らないのである。(P161

  ジャンヌは女の服を着てから、獄中で男たちに
幾度も襲われている。牢番はもちろん、イギリスの貴族までが
彼女を暴力で犯そうとした。修道士イザンバールは彼女に会い、
その顔だちがいくたびもの暴行ですっかり変わっているのに驚いた。
彼女は泣きながら修道士に、男たちの乱暴を訴えたという。(P170〜171

  最初の裁判で、ジャンヌは男装はしないという改悛の誓いに
署名したにもかかわらず、その結果は無期禁固だった。
石づくりの城の暗い、じめじめした牢獄で一生を送らねばならない。しかも
男たちに弄ばれながらの一生である。そんな惨めな生涯を送る位なら、
誇りを守って(火刑で)死んだほうがましだと考えたとしても不思議ではない。(P171

彼女がまた男装に戻ったのは、男どもを刺激し、更には簡単に
犯されるのを防ぎきれないルーズなスカート姿でなく、
しっかり上半身と下肢を覆うことの出来る男のタイトな衣服を選んだと
いうことだ。しかし、それが彼女の(火刑台へ追いやるための)
再審のきっかけになった。
彼女に逃げ路はなかった。

 

  と、ここまで書いて、最近傑作の誉れ高いリュック・ベッソン
ジャンヌ・ダルク」'99 米映画 をヴィデオで見た。素晴らしいジャンヌ伝だった。
神がかりになったヒステリックな娘が荒くれの軍に入ってがむしゃらに戦い
(味方、敵両方と)、幸運もあって勝利を重ねていく、そんな等身大の
ジャンヌ像が終始徹底的にリアリズムで描かれていて、納得するしかない。
私のこれまでで最高のジャンヌは安彦良和−大谷暢順原作
上品なコミック「ジャンヌ」
  NHK出版T、U、Vだったけれど、
この映画はそれにも増して感動的だった。
こんな作品をみれば、もうジャンヌが果たして犯されたのか、どうかなどと
いうことなど、どうでもいいことのように思えてくる。

彼女が死ぬ前に自分を客観的に見詰め直し、
自分が死刑に遭っても
しかたのない人間だったと考えたのは、
おそらくベッソンの発明だったのだろうけれど、
それで初めて彼女に救いが訪れただろうとするのは、
全く納得のいく結末なのだ。

 



   76. サンクトペテルブルグ

 

  吉田秀和氏が朝日新聞(7/15)サンクトペテルブルグ
建都三百年ということで書いていた。以前のレニングラードドフトエスキーなど
の小説の舞台になった由緒ある町、クラシカルな白鳥の湖を踊った
世界最高の踊り子たちを擁するレニングラード・バレエ団、ショスタコービッチを
生み、あの第五交響曲を初演したヨーロッパ屈指の交響楽団、
レニンングラード・フィル、そしてナチスドイツの一年半に及ぶ包囲作戦に耐え抜いた
誇り高い町。

  私はロシアというとまずこの古都の名前を思い浮かべるけれど
、吉田氏にもそんな思いがあるようだ。いつもながら氏の、小林秀雄ゆずりの
印象派的感傷たっぷりでありながらくっきりとした文意の確かな、見事な随想文を
私は楽しく味わった。

  もちろん私はロシアに行ったことはないし、ただ、
行くならださい(らしい)モスクワよりも、この文化の香りの高い、ロシアっぽくて、
ロシアっぽくない町をまずおとずれて見たい気がする、それだけのことだ。

 

  私達は、生意気なことを言えば、いわばロシア文学
ロシア民謡で青春を過ごしたような気分があるし(大して読んではいないのだけれど)、
ソビエト連邦共和国ロシア共和国に先祖帰りしたあの衝撃的な歴史事件を、
むしろ歓迎した、というよりほっとして受け入れた気味もある。
共産党シンパの一面もなくはない(赤旗日曜版を1年ほど取っただけだ)
私だけれど、やはり「ソ連」は異様な、不自然な人工国家だという印象が
ずっとあったし、それは正しかったのだろうと思う。
やはり人間の本質は自由なのだ。ロシアはやっぱりロシアであって欲しい。
その、いろんな意味でとてつもなく巨大な、不気味なほどに荒々しい、
我々のましゃくでは計り切れない精神性と奔放さを持った不思議の国。
もちろん嫌な面も沢山あるんだろうけれど、様々な魅力にあふれた国。
そんな中からあの変に魅力的な女性デュオタレント「タツー」なんかも
生まれてくるのだろう。

  しかし、どうしてこの国は町の名前をこうも簡単にころころ
変えるのだろうか。それもいわば「すぐれてロシア的」と言われるこの国の
常識では考えられない様々な特質のひとつの現れなのだろうか。
最近見つけた日本ペンクラブの「電子文藝館」にあったロシア語通訳で
作家の米原万里氏(女性)のロシアに関する随筆「罵り言葉考」の冒頭部分。

  アンドレイ・サハロフ(砂糖)博士がゴリキー(苦い)市に
流刑になったころ、市の名称をスラトキー(甘い)に改めるべきだ、などと
いう小話が流行ったものだが、ご存知のとおり、最近現実の出来事として、
長年公式筋に「ソビエト文学の父」視されてきたこの作家のペン・ネームは、
「ソビエト水爆の父」の流刑先となったヴォルガ河畔の市の名称から外された。
作家の生まれ故郷だった市は、作家の生まれた頃も、またその作品の
中でもそう呼ばれているニジニイ・ノヴゴロドという昔の名前に戻った。

 

  ここでは、ゴーリキー市が、やはり革命時代以前の名前に
戻ったと書かれている(常識?)。ニジニイ・ノヴゴロドレーニンも、
ゴーリキーも、やはり一時期を画した英雄の一人だったのだし、サハロフ博士
「流刑」になったという町にしては、ノヴゴロド市はモスクワからさほど離れていない、
人口百万の大都市である。こんな町の名前に冠される大作家が、また
抹殺されるとは、一時期の彼の評価の凄さと、名声というもののはかなさを
実感する。実際彼等には可哀そうな気もするけれど、革命というものは
こんなものなのだろう。共産革命がこんなに短命に終結するとは夢にも
考えなかったからこそ、かくも頻繁に使われる、皆の共有財産である町の
名前を彼等の「偉大な」人格に仮託したのだろう。結果として、彼等を
必要以上に傷つけることになった。ゴーリキー、私は読んでいないけれど、
万里氏によれば、なお捨てがたい逸品が幾つもある、ということである。
名声は一時ではあっても、芸術は永遠であって欲しい。

  それにしても、この米原氏のこの文章はどうだろうか。
私の文章解読力が貧弱なのだろうけれど、三度読み返して、
ようやく一文の意味を掴むことができた。私がこの時事的な「ご存じの通り」
の知識を知らなかったということもあるだろうし、ロシア語で砂糖をサハロフと
いう(らしい)ことも、ゴリキーが(苦い)という意味を持つことも全く知らなかった
こともあるのだろうけれど、その他にも、この文には様々な事前了解事項がある。
サハロフ博士が「ソビエト水爆の父」と同義であることを知らなければ、
「作家の生まれ故郷だった市」が冒頭のゴリキー(苦い)市と同じである
ことも気付きにくいだろう。

  後世のひとは、こんな文章を、幾つもの注釈を
見ながら味わうのだろうか。

 



75・  新体操ヌー

  新体操をヌードで披露したモデル嬢が体操協会から非難されている。
運動競技を貶める行為だ、というのである。金を貰ってさせられたのだろう、とかいう
感情的で下品なコメントもついていた。

  これは人権侵害だと思う。
新体操をヌードで演じたら、なぜ悪いのか。
私も興味があって覗いてみたけれど、
綺麗なヌードだ。面白い、楽しめる企画だと思った。
まず言えること、モデル嬢は厳しい訓練を経て、
水準以上の技能を身につけたアスリートであることは確かである。
彼女が自分の綺麗な身体を一般に晒してプロの写真モデルになるのに、
誰も文句は付けられないだろう。世間は個性の時代、
自由な主張が世界を豊かにし、人間たちの生活を多彩にする。
面白い時代になりつつあるのだ。
主張の、表現の自由、信仰の自由、そんなことが叫ばれてからも
長い時間が経過した。
しかし、その平易な理想が分からぬご仁も世にはおられるのである。

  もちろん彼等、権威の立場からの主張も、自由勝手、
というその線で許される、のだろうか。私は許されないと思う。
自由な議論、討論、主張の応酬というのは、やはり同じ舞台の上で、
同じ平等な立場でいい合わねば、それはフェアではない。
権威をかさに着た上位の格段有利な立場から、ひ弱な民間の一個人に
向かって、しかも相手の人格を破壊し、侮辱するような、一方的な発言、
批判を頭ごなしにのたまう。そのような発言、行動はその力の大きさ、
影響力の強さも相まって、一個人の人格など、あっというまに粉砕されて
しまうだろう。たまったものではない。権威というものは、余程の配慮をもって、
良識に基づいて動いてもらわねばならない。
ましてそれが一時の個人感情にかられてなされては、困るのである。

  と書いていたら、7/2の朝日新聞文化欄に、マンガの
猥褻裁判が始まっているとあった。槍玉にあがったのは、「密室」とかいう
成人向け漫画(作ビュウティ・ヘア氏)だそうだけれど、昨今の性表現の拡大、
特にネットでのそれは、もう「十八禁」と書いておけば、何をやっても構わない
といった状況のような錯覚もあるほどだし、こんな時の猥褻裁判であり、
結果の如何はHPの関係で直接的に影響がないとも言えない私も興味津々ではある。

  しかし、これまで、この種の裁判は殆ど権威者の側が
勝訴しているという。なににせよ、
今では、権力が恣意的に判断することが許された最後の領域植田康夫氏)」
ということなのであり、情況は悲観的ともいえる。困ったことだ。

 

  ともあれ、ヌードが氾濫している。出版界では
あいかわらずの、美少女の綺麗ばっかり、記号的写真集から、先端では
大股開きに黒べたのだましヘヤーヌードも今や常識だ。
そんな閉塞状況に、新体操ヌードというこの運動系美女の躍動ヌードは
新鮮な切り口でエロチシズムを提供してくれるだろうと思う。
私は大層期待して本格写真集の出るのを待っているのだ。
のっけから切ない庶民の夢と希望を潰さないでほしい。

 


74.ADSL始末記

よいよADSLを入れた。フレッツADSLモア 12メガ―
常時接続、電話回線共用タイプ、早いだけではない。
これまで苦労していた電話との折り合いが解決するだけではない、
早いうえに時間を気にせず使え、しかもめっちゃ早く、おまけに割安ときては、
なんでこんなうまい話がいまごろあるの?と疑問に思うくらいだ。
しかしこれまでは、なぜか、そのうまい話のご相伴に与かれなかった。
私の地域が本局(NTTの)から3Km以上あり、効果が期待できないから、
という説明がなされていた。

辛い毎日だった。

しかし、ごく最近ここでもサービスが開始された。
早速申し込んで、2週間ほどでOKになったのだけれど、
「距離が遠いので余り期待しないで下さい」との但し書き付だった。
最初、比較的安い8Mで申し込んだのだけれど、
そんな事情から、1.5Mか、12Mにしたほうがいいでしょう、と言われ、
なんで1.5Mなのか、どうせなら思いきって、と思って
結局12Mにした。
結果、思ったよりいい。
大きな画像もあっという間に入ってくる。
30分近く掛かっていたW・バスターの更新も30秒ほどで完了だ。

やって良かったと思っている。

しかし、開通までの道のりは結して平坦ではなかった。
これまでの様々な設定や変更の実績を踏まえ、
今度も自分で接続変更作業をやり、
同梱されたCDの指示にしたがって設定を済ませた。
しかし、つながらない。
NTTのサービスに電話した。
案外スムーズにつながった(こちらは)。
電話とネットが同時に出来る利点が発揮された。
対応もなかなか親切だった。
彼の診断は、パソコンが悪い。
ADSLでは、パソコン本体のLAN機能を使う。
その機能が働いていないようだ、と言う。
LAN用のコネクターはついていた。
これまでつかっていたコネクターとは違う場所だったことは確認していた。
コネクターはあるのに、なぜそれが働かないのか?
これ以上は踏み込めないので、パソコンのメーカーに問い合わせて解決してください、
とNTTの相談員はいう。
もっともなことだった。
それからが一苦労だった。
IBMのサイトで調べると、初期の製品にはLAN機能のついていないものもあります、
とある。
私のパソコンは00、11月購入。2年半前の製品であり、さほど旧いものではない。
取り扱い説明書にもこれに関する説明はなかった。
サービスのテレフォンに電話してもなかなかつながらなかった。
つながっても、機械的な女性の指示にしたがってあちこち引っ張り回され、
最後には「ありがとうございました」と一方的に切られてしまう。
120(無料)だけでなく、有料の電話でも全く同じ対応で、
どんどんメーターだけを浪費させられたあげくに
やはり一方的にきられてしまったのには恐れ入った。

私の現行インターネット契約は30日まで。

これを過ぎると、ADSLがつながらないかぎり、ネットとは縁がなくなる。

困ったことになった。

更に念を入れてIBMのサイトを捜索していたら、
ユーザー対応Q&A、PCサポート」にあった。
Aptiva/OCN Aptiva2196−47x(私の機種だ!)にLAN(イーサネット)を使用するための必要な作業
として、「On Board LAN」の設定変更の作業手順が出ていた。
早速プリントして、やってみた。

うまくいった。

つまり、私のファミリーユースの廉価パソコンは、
ADSLなどのなかった頃の製品であり、主にビジネスで使っていたLAN機能は、
標準的に入ってはいたのだけれど
性能検査を簡略化する目的もあるのだろうが、
出荷時に働かないようにしてあったのだった。

ながながと書いてしまった。

何にせよ、ネットにかかわる技術の進歩の早いこと、
3年も経てばもう使えなくなるほどの機器のサイクルの速さ、
そんなことを思った数日だった。

ADSLは従来のアナログ回線を利用して高速伝送を可能にした凄い技術だ。
ともかく遅まきながら私もこの技術成果を享受できるようになった。

素晴らしいことだ。
でも、その技術も早晩旧式のものになるだろう。


インターネットの魅力は更に磨かれるだろうけれど、

その前に私のパソコン「Aptiva」が駄目になるかもしれないし…。



73・「ほっこりぽくぽくお聖どん」

  「大阪人は二人寄ると漫才だ」というコピーが
流れていたことがあった。藤本義一の上方TVドラマの冒頭だったろうか。
随分昔のNHKTV。さて、これは田辺聖子の在所自慢、
氏の根拠地大阪を中心にして同心円を描くようにキタ、ミナミはもとより
尼崎から神戸、堺から泉南地域、和歌山、熊野、京都、神戸奈良などなど、
お聖どんの上方縦横無尽文芸風俗うんちく散歩という大部の一冊
ほっこりぽくぽく上方散歩」文春文庫
  を読んで思い出した。
ひとりだって相当なものだ。

  上方人が大阪弁をまくしたてて不要不急の文章を綴る時、
必ずそこには巧まざるユーモアが横溢する。もちろん田辺聖子女史の
老獪で軽妙、しかも絢爛たる文章術による楽しさであることは
間違いないけれど、
これを読むうちにやはり関西に腰を据えて文芸や歓楽の情報を
盛んに発信しておられる文章家栗猫氏のメルマガ「クリホー」を思い出した。
大阪弁は私のように一度なりそこに住んだものには無条件で親しく
感じられるのは当然ながら、そうでない日本人にも理屈ぬきのおかしみ
司馬遼氏が良く使われた)で迫っていく。

  もちろんこれは聖子文学である。単なる一編の漫談などではない、
キタ、ミナミ、帝塚山、氏の出世作になった「私の大阪八景」を回顧しつつ
訪ねる福島界隈あたりは第二の「センチメンタルジャーニー」(で芥川賞授賞
として味わうことも出来る陰影の深い文学になっている。
かくいう私も数年前(聖子氏がここで歩き回った平成七年から十一年
(足掛け五年!大部のはずだ)の最後あたり関西に偶々滞在し、
(平成十年十一月〜十一年三月)この文中に出てくる文物のいくつかを
実見もしている。いや、その重なりようはかなりのものといわねば
ならないだろう。大阪キタの空中庭園、ミナミはいわずもがな、
天法山のベイエリア、海遊館、堺の晶子記念館、ミュシャのギャラリー、
宇治の源氏物語ミュージアムはすんでのところで行き損なったけれど、
奈良の新薬師寺から高畑の静かな家並み、志賀直哉旧宅など、
どんぴしゃりだ。神戸も、淡路島も行った(震災前だが)し、更に
最近凝っている佐世保へも、唐突にもお聖どんはかもかのおっちゃん?
伴って高級客船飛鳥で訪れ、弓張丘ホテルで私の発見になるルネ・ラリックのコレクション
を見るくだりなぞ、なんでー!?と叫びたくなるほどの偶然性である。
もっとも、聖子女史、自らミーハーで何が悪いと開き直っておられる位だから、
単に彼我の趣味の通俗度が似通っていただけかもしれないが。
もちろん、それらを単なる通俗と取っては叱られるだろう。
様々引用される川柳の楽しさは、またこれらが女史の専門でもある
王朝和歌の引用と並んでお互いひけをとらない。こんなところも
女史の狙い眼、審美眼の確かさなのだろう。

  いつもは座敷牢で物書きの毎日だったとおっしゃる聖子女史、
そのせいかちょっと遠くへ出られたときの紀行文(貝塚、熊野など)の
躍動するような新鮮さはまた楽しく好ましい。もちろん宝塚大劇場観賞記なども。
天子の泊まられた超高級宿(もちろん女史は格別なヴィップであられることは
疑いない)でのお話など、我々が経験しえないものだ。すでに
女史が有吉佐和子氏などずっと眼下に見て、女流文学者の最高峰に
達しておられることは間違いないけれど、常に通俗を標榜しつつ自然体で、
しかも三十年以上の長きをコンスタントに、多作戯作の姿勢を守って
おられるのは凄いことだと思う。私も聖子作品は好きだけれど、さほど
読んだといえるほどでもない。これに勢いを得て、まだ未読の、
定評ある評伝など読んでみようかと思う。

 



 72.国を守る

自衛隊員の名誉を復権する、という意味の言葉を首相が言ったそうである。
自衛隊は実質軍隊
 なのであり、これはもう一般の認識なのだ、とも。
これは、日本の首相としては初めての発言なのだそうである。
「イラク復興」に引っ掛けて自衛隊の海外派遣も決まりそうだ。

しかし、マスコミは余り騒がない。
アンケートでも、自衛隊の認知は予想以上に浸透している。
真剣に考えての認知ならいいのかもしれない。
しかし、そうではないだろう。
小泉さん自身、軽薄な、感覚主体で事を進めている。
靖国参拝を強行しているのはそのあらわれだろう。
少なくも私はそう感じている。

これでいいのだろうか?

確かに、「平和」、「平和」と言葉だけ声高にのたまったところで

平和が訪れるはずもないのだけれど。
言わないよりは言う方がよいのは決まったことだ。
「平和」は世界の人間たちの共通した願いなのだ。
金持ちにならなくてもいい。
平和でいたい。
これは単純なことだけれど、
見失いがちだ。

愛国心もいい。
民族自決もいい。

でもその上に平和があるべきだ。
この原則を見失いたくない。

誰であっても、個人を犠牲にして誰か他人への奉仕を強制させることはできない。

戦士とは勇壮な言葉だけれど、
やっぱり哀しい。

どんな国であっても、住民にその国を愛せよと強いることはできない。
「愛せよ」と言うのは勝手だが、それを強いるのは隷従させることだ。

一つの国が戦争に追い込まれないようにするには、
壮大な戦略、緻密な戦術、長い間のこつこつした努力、
歴史的な実績の積み重ねが必要なことは理解している積りだ。

日本が50年前「平和憲法」を打ちたて、平和国家としてまがりなりにもここまできた、
この歴史、実績は、様々な毀誉褒貶があるにせよ、
誰もができなかった歴史なのだ。

これを誇りにしたい。

この貴重な実績は大事にしたい。
これをベースにして、日本は世界に働きかけたい。
これは日本人なら誰もが思っていることだろうと思う。

しかし昨今の日本政治の動向がそれに添った行動だとはとても思えないのだ。

自衛隊を廃止せよとは言わない。
必要悪としてしばらくは残さねばならないだろう。

自衛隊の名称はこれでいいと思う。
早く自衛隊を国連予備隊に格上げさせたい。
武器弾薬製造を国連の下請け企業に一括してやらせたい。
世界から民間の武器売買と保持を一掃するのだ。
世界レベルで組織的暴力行為を非合法化するのだ。
まず核兵器の非合法化が先決だろう。

これらの困難な行動推進に一番適切な国は日本なのだ。

この厳然たる事実、可能性にわれわれは誇りをもたねばならないと思う。

小泉さんはノーベル平和賞を貰い損なった。

                      71    佐世保

  以前も書いたけれど、私が属しているメールの会は、
ハワイも含め、全国各地の会員31名が実働(その他に休業中の
メンバーが数名)し、毎月お互いが全員に配信する、いわゆる公海
(公開?)メールがコンスタントに千通を越える(つまり、平均して、
各会員が最低でも日に一通以上のメールを発信している勘定になる)
活発な会だ。他の会のことを余り知らないので比較のしようがないの
だけれど、わが会は本名、住所、電話番号、それに本人の写真を
メンバー内で公開するのが決まりである。
明快な条件といっていい。
私は最初、いたずら心もあって、お笑い系のタレントの写真を自分の
ものと偽って公開し、いたく顰蹙を買った(意外にメジャーな顔だったようで、
すぐばれてしまった)経緯がある。
会は年一回の忘年会その他、ローカルな交流会を含めて、当人同士で
顔を合わせる機会が、決して多くはないのだけれど、もたれる。

  私は生来の集まってなにごとかをなすこと嫌いから、
それらには敬して遠ざかってきた。

  メンバー内では、ちょっと変わりもので通っていたのではないか。

  もちろん、前記の私のデビューの一件もあるし、
ご存じ私のHPがあやしい18禁、ま、少なくも常識人ではなかろう
と思われる要素は十分にある(実際、そうなのだし)。

  メンバーの皆様はどう観じていらっしゃるのか、
私当人としては、匿名とはいかなくても(最初に出してしまったし)、
生の顔を出したくない理由はあるのである。もっとも、それは
最初から分かっていたことで、あえて自己の責任でメンバーに
参加した以上、皆と合わせるのは当然だろう、という
考え方もあるのだろうけれど、私はその考えにはずっと与しなかった
(もっとも、それを公言したことはなかったが)。

  堅い話にはしたくないけれど、本来、メール友達は
それだけに限るものだろう、と私などは思っている。もちろん、
多様な系における人間関係で、信頼できる友人というものは
貴重で、なによりも希少なものだし、きっかけが何であれ、
この場合、メールを機縁として、様々な交流を膨らまして
楽しもうという、より積極的な考えもあるだろうし、もっともなことだ。
でも、メールという世界の中で理想的に培われた友情が、
生の人間関係という、純粋でない複雑な味つけの介入で壊れる、
あるいは不協和音の発生が(必ずしもそうなるとはいえないけれど)
なきにしもあらず、とも思うのである。
元も子も失う危険性がありはしないか。

 

  もちろん、私個人として生来の面倒くさがり、ひとみしり、
という性格もある。与謝野晶子がそうだったように(ビッグネームを
使うのはもったいないことだけれど)、私も手紙で十書けることが、
面と向かえばその一割も言えない口べたである。情けないことである
けれど、お会いして気分を害されたら申し訳もないという意識も多分にあった。

 

  世保に住まわれる会のメンバー氏で会の発足以来の
最高幹事であられるG・S様のご厚意で、当地で催されるコンサートの
チケットを寄贈いただいた。

  尋常なコンサートではない。ポーランド・ワルシャワ
フィルハーモニーオーケストラが、北欧の民族派作曲家シベリウス
最高傑作フィンランディアを、しかも、聴かれることの少ない合唱付き
演奏する(指揮抜井厚
  他の演目はショパンの
ピアノコンチェルトNO.1−ピアノ=カーロル・ラジヴォノヴィテュ、
ドボルザーク新世界
  など)というのである。
これは音楽ファンならずとも聴かなければならないだろう。私は
これに釣られて佐世保へ赴き、ついに会のビッグメンバーである
G・S様とお会いする破目になった。

 

  佐世保は実に大変な町である。ちょっとネットで
確認されれば分かることだけれど、全国でも珍しい、レべルの高い
文化活動の盛んな地で、既に数度のフルオーケストラによる
本格的なオペラの自主公演、中央の作曲家に委嘱した新しい
音楽の制作(団伊玖磨の「西海賛歌」など)、もちろん、数年前に
出来た収容2千人のコンサートホール「アルカス」はワルシャワフィルを
始めとして、海外演奏家を含めた魅力的なコンサートが目白押しで
ある(私の住む町でも「アルカス」よりも更に最近完成した立派な
コンサートホールがあるけれど、既にもてあまし気味であると聞いた)。
このような土地柄から、ハウステンボスのような理想境を目指した
テーマパークの立地も可能なのだろう。ちなみに、同名の小説を
書いている芥川賞作家村上龍氏は佐世保出身である。他にも実力の
ある作家が何人も出ているはずだ(失念した)。これも一地方都市
としては珍しいことだと思う。

 

ちょっと話がよれたけれど、実は、
佐世保へのコンサートツアーはこれが二度目なの

である。昨年、市の自主公演の二作目、モーツァルトの「魔笛」。
これにG・S様が出演され、私は内緒で拝聴した。プロフェショナル歌手で
国際的なソプラノの崔岩光(サイ・イェングヮン)氏の夜の女王の素晴らしかった
こと。もちろんオペラそのもの、公演も大成功だったし、楽しかったけれど、
佐世保へ来て当のG様にお会いしなかったことは、わずかであれ、
わだかまりにならなかったとはいえないと思う。

  まして、今回はチケットを戴いてのご招待である。
ひとことなりお礼をいって辞するのは自然であり、メル友エチケットにも
反するとはいえないだろう。私はお会いすることにした。

 もちろん、わがメールの会で常に量、内容の濃さ含め
ダントツトップのメール数を発信されて、会全員から慕われてあるG・S様の
生のお姿と全人性に、私としても切なる興味があったことは確かである。

  当日(5/5)も素晴らしいコンサートだった。G・S様はまた、
市内の合唱連盟の世話人という顔もあり、合唱パートのメンバーでも
あったので、当日も私とは舞台でうたわれたそのままの舞台衣裳で
お会いすることになり、その艶美なお姿(美女であった)に、私は
予想通りあがってしまい、デジカメを取り落として壊してしまった。

 

  せめて、辛うじて事前に思いついた花束のプレゼントを
喜んでいただいたのが私らしくもなく、気の利いた事をしたことだったと思う。
もっとも、その日のアマチュア演奏者への花束が、私のそれだけで
あったということらしかったから、大層目だったことは確かで、
以後しばらく両人のことが佐世保巷間の噂になっただろうことは
打ち消し難いと思う。
G・S様には悪いことをしてしまったのかもしれない。

  だから、今回は卑小な私への反省のほか、
何の主張もないのである。

 


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