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  50.脳を鍛える

 

  東大講義  人間の現在(1)新潮社  を古本屋で見つけた。
’96年に立花隆が行った一連の講義の1〜12回分である。日本での
最高知性の一人で戦後最大の疑獄をプロデュースした辣腕ジャーナリスト、
ユニークな百科事典派として多様な先端分野での旺盛な取材活動と
その発信を続けている氏が、いわばライフワークとして、若い最高知性の
集団にその集大成の口承をはじめたということは知っていたし、
随分興味があった。機会があれば講義録を読んでみたいと思っていた。
これは、その講義の初期の部分であり、氏の言いたいことのエキスが
ちりばめられてあって、期待どおり実に面白く、インスパイヤーされる内容だった。
当然ながら私などの知らない様々な「必須のアイテム」が一杯現れ、
列挙されて、絶望的にもなってしまう(俺はこのウン十年、何をしてきた
<読んできた>のだろうか?)。つまりこれからの一般人の読書指針としても、
格好の書であることは確かだった。

 

  氏がここで未来の日本をリードしていく学生たちに
望んでいることは、つまりは先端科学にも、現代における人文にも強い、
バランスのとれた知識人になれ(それによって、日常の生活でも、
仕事の上でも本当に正確で、また創造的な仕事、判断が可能になるのは
確かである。エリートとしての彼等がそんな能力を必須としていることは
言をまたない)ということで、現代のまことに広範かつ精緻な科学技術の

発展と情報の膨大なことを考えると、なかなか一個人の知能が
その要請を満たすことは難しいのか、とも思うけれど、やはりこれは
好奇心の持ちようの如何が決定的になるのだろうと私などは思ってしまう。

 

  知性の発達の基本は、まず好奇心のありなしなのだ。
興味が持てないことをむりやり知識として押し込んでいっても、まず身
につかないことは自明なのであり、そして、何であれ、未知のものに
好奇心を持たない人間はそれまででしかない、偏狭で平凡な市民として
生きるのが相当だろう。

  もちろん、単なる好奇心だけで現代科学の先端知識を
理解していくのは、やはり並みの知性には簡単なことではない。私など、
まずどんな簡単なものでも、数式を見ただけで目が眩んでしまう
人間には不可能な要求なのだが。

 

  それにしても、立花氏の文章は明晰で、私などにも十分分かり易い。
これまで一般にはさほど知られなかった最先端の著名な科学業績
(例えば”パリティの矛盾”として知られた有名な実験の説明が、
8〜12章を使って厚く、巨細に説明されている)などを平易に、
腑におちるように叙述していく、その見事な論理性は、やはり
氏の言語的卓越、特に外国語に堪能なこと(英語、仏語、その他
もろもろ、特に氏の出身で、詩文の鑑賞にも耐えうるという
フランス語の能力)に秘密があるのではないか。

 

 49. 「アーリアンとは何か」

 

  時々経験する「超常体験」。いや、UFOを見たとか、
未来予知をしたということではない。偶然の一致というやつ。
C・ウイルソンによれば、精神力によって欲しいものを呼び寄せたのだ
サイコキネスの一種?)ということになるのだろうか。捜し物がすぐ目の前に現れる。
思考の中心にあった事項を内容する書物が簡単に見つかる。図書館などで
たまたま開いた本のページで、年来頭の中を占めていた歴史的事項に出会う、
などなど。
私には日常的なことで、やはり偶然として片付けることができないのだけれど、
読者諸氏はどうだろうか。今回もそんなことの一例だった。
「アーリアンとは何か」津田元一郎
  人文書院1990刊

 

  つまり、前回書いた「神々の世界」の主要なポイントに
なっていた主題を論じた希少な本を、「神々−−」を購入する直前に、
たまたま古本屋で見つけて持っていたという不思議。もっとも、それは
(購入した時点では)地味な内容だったこともあり、例によってつん読の
一冊になっていたのだけれど、この二冊は同時、あるいは相照らし合って
読むべき内容のものだったので、今回慌てて読んだということだ。もちろん、
それらが手元にあったからできた話であって、絶対それが必須だと
いうことでもなかったのだけれど。

 

  「神々の世界」では、インド古代(?)の伝承を記述した書
ヴェータ」の起源に関心が寄せられている。この膨大な作品はいつ
生まれたものだろうか。紀元前1200年頃か?というのが主流だという。
本当にそうなのか。実際、そう考える何の根拠もない。紀元前3000年よりも
更に古い可能性も十分あるのだ。そして、この非常に古い口承文学を
インドにもたらした「アーリア人」が何処から来たのかという論議の歴史的な
変遷が「アーリアンとは何か」の主題になっている。

 

  「アーリアン」の認識はこの半世紀で世界的にも
非常な変化をした。つまり、私などが学校で教えられた(日本での
三十有余年以前の)世界史では「アーリアン」とは「インド・ヨーロッパ語族
であり、ヨーロッパからはるばる大挙攻めてきて、インド大陸に太古の
昔から棲んでいた色の黒い原住民を打ち負かし、そこで優位を占めて
居座った「北欧系の白人族」という認識だった。だからインドの貴族階級は
白人系の気高い容貌をしており、南部に多い下層の賎民は
(ドラビダ族などのごとく)黒人系の容貌をしていると(現実として、
そのような事実はないのだが)。

  モヘンジョダロの遺跡に見られた多数の虐殺遺体は、
まさにその遠征の事実を示しているという、そんなもっともらしい
記述も私はどこかで読んだ記憶がある。

 

  しかし、これは全くでたらめな作り話なのだった。

 

  インドを十九世紀中庸に暴力で席巻したイギリス帝国と、
それに利益がらみで相応じたドイツの御用学者がでっちあげた
白人至上主義」がらみの、意識的、陰謀的なやくざ学説が「インド・
ヨーロッパ語族であるアーリア人のインド侵略」説
なのだった。その
白人たちのご都合主義から生まれた有害きわまりない毒説は、
インド人たちの階級主義に深く食い込んで彼等の愛国主義を
分断することにも成功したという。

  もちろんその中心的なえせ学者たちの名前も分かっている。
この学説を大々的に利用して史上最大の悪事を遂行したのが
第二次大戦のヒトラーナチスドイツだった。

  この説に最初から真っ向から反論を唱えた学者たちも
いたけれど、世界史の主流は彼等の大声の前に屈して、つい最近まで
この説が残っていた。もちろんインドの学界では,この説が
馬鹿げたものだというのは、戦後早くから常識だったし、
自説を曲げることの嫌いな学者たちの例には珍しく、このアーリアン
侵略説は、二十世紀の末には最終的に権威ある筋が死亡記事を書いた。

 

  日本ではどうか。

 

  「アーリアンとは何か」が書かれたのは’90年である。
その時点でこの世界の潮流がただちに日本での主流になったとは
言い難いようだ。現に著者は、海外で会う学者たちから様々この「旧説」が
日本になお主流を占めていることの愚を非難されている。教科書はもう
書き直されているのだろうか。心配である。

 

  この「白人至上主義」に無批判にのっかって内容のない
業績を誇った日本の「大学者」たちの寒い実績と実情(「岩波文庫、古典叢書」での
古典訳業など)を眺めるにつけても、「権威ある情報」「学問とは何か」に
ついて、随分考えさせられることだった。

 



   48. 「神々の世界」

G・ハンコックの新刊が出た(「神々の世界上、下」 大地瞬訳 小学館)。
久しぶりだ。この二年ほど、彼の著作の内容に批判が出ている
ことを聞いていたし、彼の新刊がずっとないのはそのせいだろう
と思っていた。少し寂しかった。

  大きな世界史的スケールでポピュラーなテーマ
聖杯アトランチスピラミッドなどの人類史の謎)を見いだし、
様々な角度からその核心へ迫っていく彼の語り口にはいつも
わくわくさせられたし、そのセンセーショナルな、刺激的な
問題提起の姿勢が、一方ではいわゆる体制側にある
保守的なアカデミズムを反発させることに
なったのは当然のなりゆきだろう。もちろん、
その当非は私などには分からないけれど。

  今度の新刊の冒頭にそれらの批判に対するいいわけの
ようなものがあって、やはり彼も意識はしているのだ、と思わせた。
繰り返すけれど、もちろん素人である私などには双方の主張の対立に
どうこう言える知識はないのだけれど、それらの批判に対するひとつの
強烈な回答のようなものが、今度の新刊自身なのだと言える。
例えば「神々の指紋」などの過去の著作から見れば、実に手堅いものに
なっていることが分かる。

 

  彼の一貫した大きなテーマである超古代文明
現在認められている人類最古の文明の、更に以前に栄え、
そして滅び去った未知の文明の存在の可能性
(何という壮大なロマンだろうか)

、それが今回でもテーマになっている。
つまりこういうことだ。

 

  例えば、現在の歴史観では「最古の都市文明」ということに
なっているシュメール、これは最初から成熟した、完成した文明として
現れている。その文明の初期からの発達段階の遺跡が見当らない。
これはインダス文明などでも同様なのだ。
一方、これらの文明に共通する神話、伝説では、大洪水によって
以前の都市が滅び、今の(遺跡の)文明はその再生だと伝える。
ハンコックは、この大洪水が、それら文明の局地的な河川洪水ではなく、
氷河時代の終篶時にあった海進(海の水位が上がる)を
指すのではないかと推理する。

  氷河時代のピーク(最終氷河極相期  LGM  一万七千年前
から現在(ほぼ七千年前に落ち着いた)にかけて、海のレベルは
約百二十メートル高くなったと推定されている。
これは(極地、カナダなどの)氷が溶けることによるものだけれど、
従来はこれが数千年かけて徐々に高まってきたと考えられてきた
(つまり年間数センチ)のだが、様々の証拠から、
数度(恐らく三度)の爆発的な海進(つまり津波、海からの高潮を
伴った洪水)があったのだろうと最近では推測されている。
つまり、失われた文明の遺跡は、その海からの洪水に呑み込まれて、
そのまま海中に隠されてあるのでは
ないか、と彼は推理する。

 

  その裏付けとして、LGMから現在に至るまでの
世界地図レベルでの海進のコンピューター地図(水没地図)を参照し、
ペルシャ湾カンベイ湾(インド北西部)が以前は陸地だったこと、
その海浜近くに存在する遺跡が海にあった旧都市の再生ではないかと推理し、
漁師たちの噂を採取しつつ、その当りをつけた海中に実際に潜り、
沈んでいた都市遺跡群を発見する(インド:ドワールカー、ブーンブハール)。
その発見までの経緯、生命の危険も顧みず、様々な障害を乗り越えて
目的を貫徹する、G・H氏のその意思力、実践力は凄い。
その冒険のために彼が何年もかけてアクアラングダイブの資格を取り、
妻ともどもトレーニングを重ねていく経緯が涙ぐましい。

 

  上下千三百ページを越える大部の著書は
冗長と言えないこともないけれど、私は退屈を覚えず、
一気に読まされてしまった。
これは見事な、自身歴史的な、説得力のある人類史転回の書だ。
彼はこの巨大なテーマ(失われた文明)において、決定的なシッポを
つかんだと思われる。G・ハンコックの名前はプラトン以上の偉大さで
人類史に残るだろう。それを意識しているかに見える彼の論調が、
これまでの著作の中では一番明快で、自信にあふれているのも道理だ。

  ことに古代地図と、現代科学の粋を集めた
水没海岸線図との比較(一万数千年前の日本地図などもある)、
大航海時代におけるコロンブスマルコポーロの帰途の航海日記
などを分析する手際の良さなど、実に詳細緻密であり、秀逸だ。
と、こう書いても、読者にはおおよその意味も伝わらないだろう。
以下に簡単な解説を付け加えておく。

 

  古代地図とは、この場合、
一万三千年前頃に書かれたと推定される
現代のそれにも劣らない精確な世界地図であり、
氷河期の世界が、その時点まで後退した海岸線が
それには精密に描かれている。
例えば、マラッカ海峡は陸続きだったし、
現在では最先端の技術で探査して明らかになった
南極の永久氷の下の海岸線すらくっきりと書かれている。

この不思議な地図の存在が、いわゆる超古代文明を証明する
有力な証拠になるのではないか、とハンコックは主張する。

この地図はどこで保存されてあったのか分からないが、
イスラムの船乗り達の手を経て、突然ヨーロッパ中世に現れ、
十六世紀をピークとした大航海時代の船乗り達に
使用されていたことが分かっており、
マルコポーロの帰途の航海、また十五世紀の明朝の航海者
鄭和の航海にも使用された形跡があるとされる。
そのころに地球規模で正確な地図を
作成する科学文明が既に起こっていたという証明は、
いずれなされるに違いない。
世界中に存在する海洋遺跡の、より精密な調査が
待たれるわけだ。

 


  47.  拝啓  巻来功士様

  初めてこのような唐突なお手紙をお送りすることで、
先生の気分を害されることになるかも知れませんが、
何卒お許しください。私は先生の「ゴッドサイダー」以来の大ファンです。
久しぶりに素晴らしい大作を堪能させて戴いています。
ミキストリ」のことです先生の異様なファンタジックの世界が
たまらない魅力です。大変な調査と研究の結果が、先生の凄まじい
独創力(夢想能力)と相まってこのような破天荒で奇怪な物語の数々を
生み出しているのだろうと思います。先生の作品の魅力はまた、
物語の楽しさに加わる眩学趣味的味わいとともに、限りなく危険な
範囲に近付きつつはらはらさせられるエロティシズム(サディすティックな)
にもあるのでしょう。何人もの華やかなヒロインの登場が私たちを
魅惑させて飽みません。

  僭越ながら二つほど「ミキストリ」に注文があります。
しかし、これらは結局先生の「美学」に負うことろのものかと
思いますので、単なる部外者の雑音として参考に留めて戴くのも、
もちろんご自由であろうとは思いますが。

    その1

  先生のヒロインは皆実に魅力的で、申し分はないのですが、
惜しむらくは今回、少しひ弱に過ぎるのでは、と思います、「ゴッドサイダー」
ではかなりバランスが取れていた(男と女が助け合った事すらあったし)と
思うのですが。例えば、「ゴッドサイダー」の水魔ブロッケル
流璃子=美しさに於て、悲劇的なその運命に於て、行動力に於て
日本の漫画史上屈指の魅力的なヒロインとされる)と今回の
ヴァルキューレ」と比べてみても、前者は霊気を何度も救っているのに、
彼女は陽介の足を引っ張ってばかりしているではありませんか。
もっと強くなってください。そしてヒーローを食ってください。

    その2

  私は「スーパー・ジャンプ」を読んだことがない
(他の下らない漫画−失礼−を沢山よまなければならない愚を
避ける為先生の作品は皆単行本になってから購入する)ので、
最近のストーリー展開を知らないし、ひょっとしたら的はずれかも
知らないのですが、物語の開始当初に華々しく登場した陽介の妻
恵子の扱いには不満です。どうしてウォーターベッドに入れっぱなしで
放っておかれるのでしょうか。当然私などは、彼女も凄い威力のある
武器を手にいれたことだし、陽介の右腕として世界中の悪魔共を
相手に戦ってくれるものと期待していたのですが。それとも、先生は
今後、十二巻以後のしとやかな復活を考えておられるのでせうか
(ひょっとすると「ヴァルキューレ」と陽介を奪い合う陰湿な女の闘いを
計画しておられるのでしょうか。ならば幻滅です)。

 

  妙なことを書きならべて先生の集中力を攪乱させて
しまったことをお許し下さい。今後もお元気で素晴らしい、スケールの
大きなファンタジーをどんどん生み出して私たちを楽しませて下さい。
九州の片隅で精一杯先生に向けエールを送り続けますので。

                                                                      敬具H7/09/30

46.いいわけ

っくりした。
五万ヒットがこの10/3日、ちなみに四万ヒットは7/3日だった。
この間、ちょうど3ヶ月かかっているのだが、
それが、どういうわけか、
10/20日で六万にいってしまった。
その間わずか17日!
そして、10/29PM8:40現在
69554ヒット!。
多分、明日中に七万の大台突破は間違いない。

ちなみに30000ヒットは2/12日だから、おおざっぱにいって、
三万⇒四万に五ヶ月、四万⇒五万に三ヶ月、
五万⇒六万に0.5ヶ月、
そして、六万⇒七万は十日(0.3ヶ月)ということか。
このわがHPへの幾何級数的アクセス増加現象は何事なのか。

原因はわかっている。

幾つかの力のあるサイトとのリンク(相互リンク)だ。
7/18に大きな小説リングに登録した。
加入条件が厳しく(既に一万アクセスを超えていること、など)、
小さなリングだけれど、有力なHPが集まったリングだ。
これを契機として幾つかの18禁サイトとなじみになった。

ずっとコンスタントに60−70アクセス/日だった日々が一年以上続いた。
それが、上記の小説リングに加入し、アダルトサイト氏と馴染みになってからは
200/日に増加した。
更に、2000−3000アクセス/日という怪物サイト氏の助言
(目標・千アクセス/日)を得て、
幾つかの小説検索サイト(6000アクセス/日を誇るサイトもある)とリンクを
貼らせてもらった。

結果は目覚しいものだった。

10/15−16日にかけて2000アクセス/日を記録したのを筆頭に、
連日700ヒットを下がらない。

これほどうまくいくとは思わなかった。

これなら目標達成も夢ではなくなった。


嬉しい半面、困ったこともある。

この欄の書きこみを1章/千アクセスと義務付けたのがいつだったか。
まったく追いつけない。
もう借金は20を超えた。
まだまだ増えるだろう。

もうだめだ。
約束は反故にしたい。


アクセス数の多寡は多分にバーチャルなものだ。
そのサイト自身の実力に起因するとは、必ずしもいえないだろう。

人気サイトとリンクすれば、その流れのおこぼれで
相当数の増加が見こまれることは確かだ。

そのサイト自身の更新頻度やら、魅力とは比例しない面もあることは疑いない。
一年以上更新しないサイトが惰性的に50−60/日を稼いでいる例もある。

もちろん多くの一過性のアクセスの中で、
たまたま出会った私のサイトに魅力を感じ、
常連になって貰えるサーファーはいるはずだ。

そんなひとたちに出会いの機会を作ってもらうためにも、
強力なサイトとのリンク作製は重要な、そして有効な手段なのだと思う。


  45.セックスはなぜ楽しいか

 

  「読書はなぜ楽しいか」という本があったか、どうか。
この本の題名をそう代えても、ぴったりなんではないか、と思ったほど、
この本は楽しかった。
つまり、その題名の軽薄さにもそぐわない、内容の知的な興奮を誘う濃さ
において、その意外性のたのしさにおいて。
セックスはなぜ楽しいか
  ジャレド・ダイアモンド  草思社’99,4刊

  いわゆる進化論に関する話はいつも私たちの耳をそば立てる。
ことに、人間がなぜ今の人間にまで登り詰めたのかという、
他の動物との差の成因を論じ、推理する話は実に楽しい。
それほど人間は他の動物と異なっているし、それに強い自負と
優越感を抱いているのも確かなのだけれども、ことセックスに関しては、
むしろそのけだもの性とかいう面が強調されることが多く
(余り「進化」していない部分なのだろうという含みがあるのだろう)、
それは昔のD・モリスの名著(「裸のサル」だったか?)や
E・モーガン
の「女性の由来」でもさほど変わらなかったように思う。
もちろんそれらの書はそれぞれの時代を劃する画期的な著作だった
ことは確かだ。
この「セックスは−−」もそんな、これまでの一般的な知識を覆すような、
画期的な本になった。
これは人間の性に関する進化論的研究考察の最前線をうかがわせる
実に楽しい本である。決して題名(あるいは見かけ)だけでものを判断
(題名とピンク色の装丁から、これは性交を楽しむためのいろんな知恵を
授けるような、あるいはグラフィカルな本なのかと、古本屋でこれを
見つけた時,私は一瞬思った)してはならないという良い例である。
前置きが長くなった。

 

  進化という現象は、その有無(本当に存在するのか?あるのなら、
どうしてこのようにうまく、まるで神がこれを行っているように作用しているのか。
こんな作用がどうしてこのように全く理詰めに、あるいは全く見事なデザイン性と
奇抜なアイデア性のバランスを伴って行われてきたのか。信じがたいことだ。)
がなお議論されることもあるけれど、結局これが奇妙なのは、全く、
厳密に合目的性合理性だけで説明できることが殆どだということなので、
これが人間の理性に興奮をもたらしたり、逆に神(ある時期の
人間の作った理想的人格)との岨齬(ダーウインが社会からの攻撃を
恐れて著作を公にすることを長く渋ったのは有名なエピソードだ)
を示したりするのだろう。

  もちろん神の方が間違っているのだ。
人間のセックスに関しても、やはり現在の姿になるまでは、特殊化した
けものである人間の、生きる環境の変化とのふつきあいとの、
長い試行錯誤の歴史があったことは確かである。
何にせよ、進化の目的は人類そのものの生存と永続性にあるわけであり、
個々の人間に関して、可能な限り生きよと勧めているわけではない。
ある場面においては、(増え過ぎて種そのものが絶滅する危険が迫った
場合には、全滅までに至らない)大量虐殺も辞さず、幼児の間引きも
よしとされる。そこにこざかしい人間の目的性との確執がある。
進化とは、全く冷酷無残な超越神の手だ、とも言えるのである。

 

  例えば、本書は人間の寿命が他の生き物と比べても
長すぎる寿命を付与されている問題にも触れている。過去に、そういった
長寿の人間が生き残りの知恵を保持していたことで、部族がそれにより
救われたことをもって、その長寿の遺伝子が保存されることに
なったのであろう、と。
本書は幾つかの大洋上の孤島での調査内容を披露している。
孤島を襲う世紀に一度、二度という大サイクロンの生き残りが、
次のそんな災禍でのサバイバルの知恵で部族の生存に寄与する。

  これは、閉経という人間の女性に特有の事象との関連において
述べられていることだ。子孫を残すという目的に関して、女性が歳を経ても
子供を産み続けるメリットに比べ、それよりも、子供は産めなくなるが、
他に家族や部族を(フリーハンドで)貢献することで全体の生き残りにより
大きなメリットが得られるということなのだろうという。これらの考察は
様々な動物、様々な種における最新のデータ、豊富で興味深い事例の数々で
読者を楽しませ、納得させられる。

  例えば、このような記述がある。

進化生物学者は長年にわたり、自然淘汰は
「種の利益」をなんらかのかたちで増すも

  のだとみなしてきた。しかし実際には、
自然淘汰は動物であれ植物であれまずそれらの

  個体に作用する。つまり自然淘汰とは、種同士の闘争だけでもなければ、
異なる種の間
の闘争だけでも、同種個体の世代間または
異性間の闘争だけでもない。自然淘汰は、親

  と子供の闘争でもあり、配偶者間の闘争でもあるのだ。
親と子の利益、あるいは父親と

  母親の利益は必ずしも一致しないからである。  中略    男性の遺伝的利益に沿う行動

  が、その配偶者である女性の利益に合致しない場合は確かにあるし、
その逆のケースも

  存在する。この過酷な事実が人間の悲劇を生み出す根源の一つなのである。
と−−−。セックスの成果としての子孫の誕生後、どうして子供(あるいは卵)を
一人前になるまで育てていくかについて、その雌雄間には様々なかけ引きがあり、
様々な様態が、どんな種にも存在する。それらはすべて、どうして「自分の」子孫を
うまく繁栄させていくかという一点から始まっているのだ。

  男性がおおむね女性に子育てを任せ、自身は新たな交尾相手を求めて
出歩くのは、その妻の子供が本当に自分の実の子であるか疑わしさが
残っているからだ、と説く部分は思わず笑ってしまうけれど、
そういう人間臭い類推でうまく解ける種の行動原理も確かにあるのだろう。
だから、精魂尽くして交尾を遂げた涙ぐましい夫をすぐむしゃむしゃと
食ってしまう雌の存在も、二人の子孫を確実に残すための
最高のタクチクスであると説明されれば、夫もやっぱりその時は満足して
食われていくのだろうかと、納得しつつも、やはり収まり切らない
感性が残るのだ。恐ろしくも冷酷な現実を直視する科学の目、
精神が必要なのだろう。
我々はカマキリ(の雄)でなくて本当に良かった、と実感するけれど。

  何にせよ、人間の性行動を含め、どんな種の行動にも、それらがたとえ、
人間が過去に人為的に作った倫理的な目にかなった行動であっても、
それは単なる偶然に過ぎないのだ、とこの科学の書はとことん冷徹に
教えてくれるのである。

 

  ところで、本書の中の一章(第4章)「セックスはなぜ楽しいか?」
には、果たしてどんなことが書いてあるのか?気にはなりませんか?。
それはこういうことです。
人間の雌は、発情期間(排卵の時期)を異性に知らせることができない
(もちろん自分でも、最近発達した科学の利器を用いなければ、分からない)
非常に珍しい種なのだ。
この事実が人間をしてのべつまくなしに(数打ちゃ当る)毎日毎晩子作りに励む、
セックス好きの動物にならしめた原因なのだ。でも、なぜ?
(ま、大抵の人間たちは、余計なお世話じゃあねえか、そりゃあ楽しいからだよ、
と仰ゃるだろうけれど)。もちろん本書はそれについても、
例によって厳格冷撤な考察を重ねている。

  これは、表面的には、女が男を常に引きつけてそばに
置いておきたいという無意識の意思表示なのだけれど、その必要性の
一つとして、人間の子育てというものが、母一人ではなかなか困難な事業であり、
父にもかなりの部分を手伝って欲しいということから派生したものらしい。
もっとも、大家族、あるいは更に大きな部族単位でまとまって生活する
人間社会では、このセックスシステムはまた他人の父、異性の誘惑をも誘い、
実のカップルの結婚生活の破綻の危険性(当然子育ても失敗することが多くなるだろう)をも内包する、不安定なものになっているのだ、と説かれる。

  これにはもちろん続きがある。結論はでていないけれど、
猿の種族にも、鳥類の中にも人間のこの混乱を収拾に導くかもしれない数多くの、
多彩なセックスシステムが存在していることを、著者は豊富な事例で
説明してくれるし、それらを目にうろこといった気分で眺められたこと
(本書のクライマックスだろうか)は実に楽しい体験であった。

 

 
44.9/11からの一年

アメリカ、ニューヨークをパニックに陥れた、
いわゆる同時多発テロ事件から1年がたった。
ちょうどメールの友人たちとの会話が油に乗った時期(昨年7月から始めた)で、
お互いに感想を述べあったり、いろんな情報をいただいたりして、
関心と思いは更に深かった。MIDIに凝っていた私は、ちょうどその日、
イマジンJ・レノンの曲だ)」を加工している最中だったので、
早速仕上げ、メールに流して、何人かの友人に好意的な感想を貰ったりした。
この曲は、あとでこの事件のテーマ曲のひとつにもなった時期がある。
この偶然は半端ではない。

  本題に戻る。

  一年を機に各界のいろんな想念が新聞などに発表されている。
もちろん、この一年、この事件をどのように考えるか、アメリカのリアクションを
どう評価するかということは様々な議論を呼んだ。
身近かでは、報復はするべきでないというのが多かったように思えたし、
それはそれで日本人の平和主義に基づいたまっとうな意見だったのかも
しれない。しかしアメリカは報復をしたし、私自身はそれも仕方がないと思った。

  それで、一定の目的は達成されたのだろう。しかしアフガンの
民主化はまだ予断を許さない
し、首謀者と目されるビンラディン氏も
捕まらないままである。派生的な変化として起こった世界の分断
(イスラム対アメリカ)も深刻であり、これらの行動の評価が別れる
ところだろう。私自身の思いもあれから少しは変わったように思う。

  朝日新聞に上野千鶴子氏が「非力の思想」として一文を載せておられる。
(9/10夕刊)主旨は、(ニュウヨークの)9/11だけが特別ではない、他にも多くの9/11
(無法な暴力による被害、犠牲)があり、当のアメリカの報復も「新たな9/11」
をアフガンの地に生み出した、と説く。アメリカはそれで一応、溜飲をさげた。
しかし、やられっぱなしのひとたちも多いのだ。彼等は泣くことと、祈ることしか
出来なかった。弱者は常にそうなのだ。それで、彼等は、いつもそうでなくては
ならないのか。

  アメリカの報復行動は、強いアメリカのみが可能なことだったし、
それは強者の奢りだと。力の報復は更に報復の連鎖をもたらす。
これはきりがないという思想もある。昨今の先進自由社会はまことに脆弱である。
巨大な高層ビルが飛行機の突入で(誰もが想像しなかっただろう)完全に
崩壊したのはその見事な証明だろう。この成功に味を占め、テロリストたちが第二、
第三の9/11を実行しないと誰が言い切れるだろう。それは不可能なことではない。
不可避なのだ。

  暴力の連鎖はどうしても防がねばならない。しかし、
「暴力の手段を手にした者がそれを使わないように抑制しるのは難しい」
ことも確かだ。どうすればこれを防げるのか。恒久平和はどうすれば
招き寄せられるのか?

  あらゆる暴力、ことに国家の名の元に行使される軍事力、
暴力を犯罪であるとして、非合法化するべきであるというのが上野氏の主張である。
もちろん、自爆テロも否定した上でのことである。
「相手から力ずくで押しつけられるやりかたにノーを言おうとしている者たちが、
おなじように力ずくで相手に自分の言い分を通そうとすることは矛盾ではないだろうか?

と氏は問いかける。「弱者の解放は抑圧者に似ることではない」その通りだ。
それは結局暴力の連鎖、堂々巡りに過ぎない。事態を解決するには、強者から
まず譲らねばならないはずだ。
DV(ドメスチックバイオレンス)」を根絶する唯一の方法がそれなのだし、
規模は違え、人間性の根源が問われていることでは同じ問題なのだから。

 



43.百足

に築20年を超えた我がうさぎ小屋。
元山林の傾斜地を削って建てられているために、
べた基礎(全建て面に鉄筋を延べ、コンクリートを流す、
巨大な畳みのような一体基礎)
にしたけれど、家そのものは木造だし、白アリの害も心配だったので、
十年ほど前から定期的に白アリ駆除会社のお世話になっている。
その波及的効果として、むかでが来なくなった。
ごきぶりも来ない(もともと居ない)。
数年に一度屋内で見かけるが、弱っていて簡単に退治できる。
ごきぶりは白アリの仲間だと聞いていたので、
これは予想されたことだったけれど、
築数年で頻繁にやってきたむかでがいなくなったのはあり難かった。
もっとも、完璧というわけでもないようで、
最近は年1、2疋は見かける。
その都度大騒ぎをして湯をかけて退治する。

むかでには随分悩まされた。
結婚前の数年を過ごした旧い家屋は、
長く空き家だったこともあって、
様々な虫やけだものの天国だった。
夜な夜な天井を走り回る小獣(いたちだったと思う)。
ごきぶりや、小ねずみなども捕食する手のひら大蜘蛛
そして、やはり恐怖の主役はむかでだった。
夏の間、私は熟睡したことがないほど、これには悩まされた。
寝具の周囲に新聞紙を敷いて這う音を確認し、布団の中へ潜りこまれるのを防いだ。
勿論、かさこそという音に気付かなければ駄目であるが。
もっとも、天井を伝って上空から落下(空襲)してくるやつは防ぎ様がない。
片目をあけていて天井を監視する必要があった。
履物の中に潜んでいることもあったから、
外出の前には要チェックである。
庭に出ていて、図々しくも長靴を這いあがり、
中身のわが足首を噛まれたこともあった。
夏を中心にした半年間はこんな調子だった。

いたちはすぐいなくなったが、むかでは季節ごとに出てきた。

よくもあんな家で何年も我慢できたと思う。

むかでには思い出が多い。
故郷の海辺、旧い船付き場で、
私は一メートル近い巨大なむかでを見た。
小学生のころだから、誇大に覚えているのかもしれないが、
少なくも三十センチどころではなかった。
これは遊び友達も証言してくれるはずだ。
山川惣治描く少年ケニヤの中の、
アフリカに生息するダイオウムカデでもたかだかそのくらいの大きさに描かれている。
あれは何だったんだろうというのが私の生涯の疑問である。

手塚治虫の鉄腕アトムに、「ガデム」という秀逸な一話がある。
四十七人の「紳士」が豪華客船の客のなかに紛れこんだ。
彼等は夜な夜な集合し、「ガデム!!」の呪文とともに、
直列に繋がりあって、巨大で長大な一頭の怪物に変身する。
むかで型ロボットだ。
キリ、キリ、キッタン、キッタン」と不気味な機械音を響かせ、
現金や宝石類を強奪したあとはふたたび分解して客の内に紛れこむ。
良心を持たない旧式のロボットを悪人が利用しようとした、という筋だ。
「殺せ!」と命令すると、ひたすら殺し続ける。
最後には破壊されるしかない、哀れな役柄である。

むかで、百足とも書くが、これは日本の古語だろうか。
英語でも「センチ・ペイド」、百の足という意味である。



   42. 環境文明

ショッキングな書である。のっけから驚かされる

人間は、自然の一部でありながら、反自然的な要素を持つ存在である…… 

                    (「環境文明−環境経済論への道  湯浅赴男」  新評論社

このことの持つ意味は大きい。人類が人間たることをやめずに
自然環境と調和を保つことの困難さ、あるいは不可能性が
浮き彫りになるからである。

  人間の、従来からのやり方でなされてきた、いわゆる
略奪的経済活動が地球的規模で広がるにつれて、その自然環境の
悪化は人間自身の生活を脅かすまでになった。今日では、環境対策を
含めた経済活動が不可避となっている。そんな認識を踏まえて、著者は、
人間の興した先史文明、更にそのずっと以前の石器時代にまでさかのぼり、
人間の活動がどれほど自然環境に悪影響を及ぼしてきたか、
更にその反作用が、逆に人類史にどのような爪跡を残したかを
丁寧に検証し、それらの考察によって、現在、未来の人類はこの
深刻な環境危機にどう対処すべきかというヒントが得られるのではないか、
という動機でこれを著したという。

  これらの問題点が提起された場合によく出される解決の方法として、
人間は自然の一部なのだから、もっと自然に従順でなくてはならない、
というようなことが言われる。「自然に帰れ」とかいうスローガンに
代表されるような考え方だろうか。

  しかし、元来反自然的な人類が、自然にすんなり順応することは、
どだい無理なのではないか。著者は、この危機に、人間の創造力がためされて
いるという。あくまで人間らしく、自然と折り合っていける道はあるのか。

  英語でネイチャーサークル(自然の環)とは、日本語でいう、
食物連鎖」のことだろう。自然の中ではどんな動物も、その住んでいる環境が
許容するだけの個体数しか生存はできない。一時的な環境の変化で大きく
増減することはあっても、必ずまた自然の力によってその変化は元の
妥当な数へ収斂される。多くの事実がこれを裏付けている。

  しかし、人類は火と道具を意思のままに操ることで、
この動物たちが今も抜け出ることのできない宿縁の環を、ただ一人
(一種)無視して繁殖する、いわば帝王の力を得た。主として巧妙な狩りと
火の力によって、様々な大型獣を食い尽くしつつ(一万二千年前から
一千年の間に新大陸に侵入した人類は、マンモス、マストドン、馬、らくだなど
三十種以上の大型獣を狩り尽くし、食い尽くしたという)全世界的に増え、
はびこってきた。二百万年前に十二万五千人だった人類は、その優位性によって
三十万年前には百万の大台を越え、五万年前には倍増し、一万年前には遂に
一千万に達した。この時点で、人類は既に他の大型動物を絶滅させるなど
生態系に修復不能な傷を与えているのだが、それらの力のおおもとになった
(獣を薮から追い出す、まとめて焼き殺すなど)火の使用は、それ以外にも、
森林を不必要に延焼させ、今日に見られるアフリカや、ラテン・アメリカの
サバンナの広がりの成因になったのだという。

  何次にもわたる氷河期の時代の厳しい環境にもかかわらず、
先史時代の人類は増え続け、居住区域を拡大し、結果的に環境を破壊してきた。
前七千年頃の中石器時代からはじまる牧畜と農耕のはじまり、定住と都市の
形成が更に彼等の周囲の環境に重い環境負荷を与えて、そのしっぺがえしを
受けたのは必然の結果だったろう。インダス川流域、チグリス、ユーフラテス
川流域などの初期都市文明は、その周囲の大規模な農耕文化の発展から
築かれたものだけれど、都市が必要とした木材の乱伐、そして耕地の塩化に
よる疲弊によってあっけなく崩壊してしまう。

  もちろんそれで人類全体が退行したわけではない。他にも
大災害、気候の悪化、ペストなどの伝染病の蔓延などによって人類は
たびたびその人口を大きく減らしながらも、基本的には増え続けてきた。
そして、人口の増加という圧力をばねにして、彼等は新しい生活の場所を
求めて広がり続け、その限界が来ると、お互いに戦って土地を奪い合い、
殺し合い、また、同じ広さの場所で収穫を増やすための工夫をこらし、
様々の技術を開発して今日の隆盛に至った。しかし、今、その恐しいまでの
人類の増加、人口爆発という現象に伴う地球規模の環境の悪化があり、
民族同士の深刻な土地の奪い合いがあり、技術開発は行き詰まっている。
しかもそれらの危機の認識において各国家間、人類全体の共通の同意は
得られていない。著者のささやかな提案である、環境、資源問題を織り込んだ
経済活動が人間の文明存続の必須の要件であるというのは間違いない
ところだけれど、それが世界のトップに十分理解がなされているのかどうか。

  この書は、人間が文明を築き上げた当初から、いや、文明以前の、
道具やら火を使い、集団で獲物を追いかける特殊な動物になったころから
環境を破壊し、他の動物たちを次々に絶滅させてきたという事実を皮切りに、
彼等(我々)の文明が、いかに地球環境に対して重い負担をかけてきたか、
それが、初期の多くの巨大文明にとってさえ鋭いもろ刃の剣となって、
その文明そのものを次々に滅ぼしてきたかという、寒々とした環境世界
人類史である。今は滅びた先史文明はもとより、なお継続している中国文明、
グレコ・ローマ文明、イスラム文明、そして著者が明快にイスラーム文明の
末端と位置づける初期の西ヨーロッパ文明などの、環境的観点からの分析が
実に新鮮で、面白く読めた。

  特に著者が注目している西ヨーロッパ文明の特殊性
(人口が余り増えないまま実質の生活水準が向上する)は、幾つかの
自然環境(水、森などが比較的豊かだった)が幸いしていたにせよ、
寒冷で痩せた耕地、重なるペスト流行など、悪い条件も多いわけで、
ここにキリスト教の精神の影響(禁欲、処女性の賛美など)をあげているのは
注目される。このような例は明治前後の一時期の日本など余り例のないことなのだ。
何にせよ、この安定した状況がこの地方に精神的なゆとりを生み、十八世紀の
近代文明の勃興をみたのだという。

  このような観点に立った網羅的、本格的な歴史書はこれまでには
なかったのではないか。私はこの深刻な内容が訴えかける様々な問題点の重要さも
さりながら、次々にあらわれる、実に豊富な各文明史の実例が興味深く、面白く、
つい一気に読み終えてしまった。

  現在の世界の環境問題のかなめはやはり人口問題だろう。
二次大戦後の低開発国の、死亡率の劇的な低下に伴う出生率の低下は
先進国のようには起こらず、大陸中国の十五億超を筆頭に人口増は
ついに危機的な状況を迎えている。このままでは、二十一世紀中に
マルサスの罠、つまり地球が持つ人口収容能力を突破することは確実である、
と著者は警告する。しかも南北問題に代表される各国間の貧富の格差は
広がるばかりである。歴史時代の文明崩壊と異なり、世界各国が密接な
連係を持ってしまった近代文明の危機は、まず全世界の雪崩的崩壊を
引き起こしかねない。エイズの流行に中世のペスト、近代のコレラの影を
見るのは考え過ぎだろうが、現状の打破が単なる技術開発で可能だとは
とても思えない。地球レベルでの人間性の改変、意識改革が必要なのだろう。
まことに困難なことだと言える。
26日からヨハネスブルグ環境開発サミット開幕('02.8)。


41.作家からの手紙


版された作品も多く、ネットでもオリジナルを頻繁に発表して
その旺盛な創作意欲を誇って
おられる職業作家
T氏から丁寧なメイルをいただいた。
私からのメイル、やぼ用に対するご返事だったのだけれど、
どういうわけか私のサイトを既にご存知であり、
作物の幾つかも読んでおられたようだった。

全く驚いた。

様々な小作品への感想、技術的な教唆をいただいた。
多くお誉めの言葉もあった。
ありがたく押しいただいた。

感激した。

氏は編集者としての経験もおありのようで、
その内容は皆実に正鵠を得ているといっていいものばかりだった。
身に沁みた。
初めての嬉しい、貴重な経験であった。

今回はその自慢話しである。

氏は私の「サロメ」など、歴史物、古代ものを読まれて、
これが「真骨頂」だとされた。
べたほめである。
全く嬉しい言葉である。
私もそれらは大好きな分野なのだ。
けれど、それらはどちらかというと2次作品であって、
私の全くのオリジナルではない。
苦しいところだ。
逆に、「2人の休暇」などを読まれ、
会話が弱い、生きた人間の言葉になっていない、
解説が多すぎる、
もっと読者に考えさせなければ、と難点を鋭く突かれる。

そうなのだ。

私のものは「語りすぎ」なのだ。
出来るだけきっちりとイメージを特定しなければと焦るあまり、
状況説明などもしつこくなってしまう。
そのくせ効果をあげていないということが多い。
もっと簡潔な描写に切り詰めて、
氏の言われるように読者の想像力にゆだねるということが重要なのだろう。
もちろん「
2人の休暇」に限って言えば、私は
小説を書いたという意識はなかったので、
例えば「18R」小説に徹して書き直せば、
まったくあんなスタイルにはならなかったろうという気分はある。

T氏はまた、「視点」に関して言及しておられる。
第三者的な立場から話を進めるのは、私の好きな書き方である。
しかし、様々な心理的状況が錯綜する場合、
これは非常な論理的構造を必要とし、
それをうまく作らなければ全体が混乱してしまい、
なかなかむづかしいことになる。
やはり、主人公一人に絞った視点から大方を書いてしまうことになる。
氏によれば、そのほうが緊張感が維持されて良いといわれる。

力を得た感じである。

また、氏は言われる−

 高橋様の「マヤ」の場合、マヤの体験を手記か何かで、
後からたどっているように感じられるのは、
視点が俯瞰的鳥瞰的な位置にあるからなのです。

 「マヤ」とは、「海のマヤ」のことだろう。
全くそのとおりであり、
私はこれを書く時に迷いがあった。
最初、マヤを第三者として書き出したのは、
謎の女としてのミステリアスな雰囲気を狙ったのである。
うまく行かなかったことは自覚していた。
結局、同時代的ドキュメンタリとしての緊迫感は
出せなかったということだろう。

時代小説、歴史小説で生きた人物像で小説をつくるのはむづかしい、
と氏は言われる。
舞台の如何を問わず、生きた人間を描き出すのは全くむつかしい。
判っていながら、やはり私はチャレンジしていこうと思う。

 プロ作家からの、このような、予期しないメイルを戴いたのだ。
発奮しないわけがない。

氏は私のサイトを、個人HPのトップにリンクしておられる(’02.8.10)。

望外のもてなしである。

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