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30.「沈まぬ太陽」

「沈まぬ太陽」 山崎豊子 全5巻を読んだ。
半官半民の航空旅客運送会社「JAL」の労働組合の
複雑な内情からヒントを得たフィクション、というより、
その依って立つ(周辺)世界への関心、精細な調査に基づいた
半ドキュメンタリー、といったほうがいいのだろうか。

会社中枢の調査室に抜擢された有能なエリート社員(恩地元)が
自身意に反して引き込まれた労働組合。委員長にまつりあげられ、
しかしその生真面目な性格から、
従来から公然だった御用組合のレッテルを返上し、
顧客輸送の安全確保を終局の目的として様々な労働条件の向上等を要求し、
次々に成果を挙げていく。
ストライキ権の行使日がたまたま時の総理大臣の
外遊帰還日程に重なったことから、
それが時の政官中枢の逆鱗に触れて、
エリートの道を閉ざされ、更に中東、アフリカなどの僻地へ
飛ばされ、十年近く苦しむことになる。
彼の育てた組合もまた卑怯な手管で分裂させられ、
御用組合が会社の主流を占めるに至る。

モラルの低下もあって引き起こされた航空大事故のあと、
会社立て直しの使命を帯びて、これもまた
自身意に反して、時の総理大臣の肝いりで単身会長に
据えられた関西財界の理想派経済人(国見正之)は、
身命をこれにうち込んで改革に努力するが
保身に汲々する社内三役(社長、副社長)の協力が得られずにさんざん苦労を強いられ、
分裂し、いがみあう組合の統合にも失敗し、
結局、彼を択んで据えた、当の政治家トップの意に染まぬとして斬られ、
会長に目をつけられて改革企画セクションに重用された恩地もまた、
反対派のリアクションによって再びアフリカへ飛ばされる。

実に驚くべき、全く現実とも思えない様々な事象が
次からつぎに出てきて、
これはやっぱり小説なのだろう、
小説でなくてはならない、とか考えたくなるのだけれど、
残念ながらここに起こっているまこと愚劣な様々の事象は
現代日本の現実なのであるらしい。

舞台になった企業の腐りきった実情は、
呆れるばかりだけれど、
それでも、私達読者としては
こんなこともあるか、と見過ごすことは可能かもしれない。
いずれ、苛酷な競争社会では、
このような会社(実在するならばだが)は、
早晩消えていくはずだから(雪印食品のように)。

それよりもなお、ことに印象が強いのは、
当時の総理大臣、キングメーカー、フィクサー、等
今なお現役で永田町をうろうろしている政治家、取り巻き連の
むかむかするような生態である。
私のような政治経済に疎い者でも、
ここに現れる大物政治家達は大抵実物と対比推定出来る。
彼等の凄まじい言動は果たして充分根拠のあるものだろうか。
それとも小説を面白くさせるためのあやなのだろうか。


いずれにせよ、作者の強い正義感には打たれるものがある。
大物政治家だけをとっても、なお現役の元総理、元派閥領袖、
元トラブルメーカーなどなど、それらが巨悪、醜悪を生々しく演じる
そんな場面を堂々と描ききるのは、例えしっかりした根拠、
はっきりした証拠裏づけがあったにせよ、
なまなかな勇気では書けないだろう。
山崎豊子という作家のこれまで積み重ねてきた膨大な実績が
これを可能にしているのは間違いないところだろう。

私達が心打たれるのは、やはり、自身の意思に反して更に大きな外圧、
非情な権力に様々翻弄されつつも、その狭い選択の範囲で、
困難きわまる道を常に自分を見失わずに最善を尽くす
主人公の生きかた、強い意思力と前向きの発想だろう。
同じような立場に立たされて、やはり裏切られ、
舞台から去っていく理想派財界人国見の存在も
同様な意味で感銘を受ける。

作者の主張したかったのもまさにその、
どうしようもなく汚れ、歪みきった社会の中で、
このような人間もいる、このような生きかたもありうる
という希望だったのではないか。




29.天井裏

 必要な資料を探し出すのには苦労をする。
自宅での話である。
あ、あんな記事が、あの本にあったなーとかいった乗りで、
一度読んだきりの本や雑誌の類を、おぼろげな記憶を頼りに、
雑然と押し込んで積み上げた棚の奥から見つけ出すのは、
大変な肉体労働なのだ。

私の所有する「資料」なぞ、大した量ではない。

置き方が問題なのである。

4畳相当の「書斎」に可能な書棚のスペースには限りがあり、
文学書、歴史全集、それにヴィデオテープなどは、
既に二年前に部屋から出してしまったが、
子供や家内に余り見せられないイレギュラーな書籍、よく見る百科辞典などは、
やはり身近かに置きたいし、結局、部屋の中の五つの書棚に並べてある。
それも前後二列になって、探しにくいことこの上ない。
しかし、それらはまだたいしたことではない。

残り半畳相当の空間に作りつけた押し入れがある。その中にやたら積み上げ、
押し込んである雑誌や専門書、ノートの類が問題なのである。

さらにここ数年の間にやたら増えたコミック類が
その前にたちはだかっていらいらさせる。ボリューム比にしたら、
もうその方が多くなっているのではないか。

コミックについては、
別の場所乃至、ひと部屋に棚を並べて整理する必要があると思いつつ、
そのままになっている。その間にも、日本国の不良資産のように増えてきた。

増えすぎた。

新しいメディアである音楽CDの台頭もスペース不足に拍車をかける。

何にせよ、絶対スペースが不足していることは否めない。

愚痴を並べるのがこの趣旨ではない。

先日、月例のようなこの資料探しをちょっと大規模に行った。
結局、目的物は見つからなかったのだが、その時
最後に、ここ十年以上踏みこまなかった場所にも手をつけた。
押し入れの上、天井裏である。
ここへ放り上げてあった段ボウル箱を久しぶりに降ろした。
中身は勿論たいしたものではない。
高校時代に書いた反故、原稿紙片が主なコンテンツである。
所属した吹奏楽クラブの演奏会のプログラムや寄せ書きがあったし、
廻し読みの日記のようなものもあった。
高校時代の原稿は、SF的な短編小説、
日記めいたフィクション(つまり私小説まがいか?)など、
そのほか、詩もかなりあった。
読み返す気はしなかった。

随分前に読んだ伊藤整の戯作的エッセイに、
自分が若い頃書いた詩の原稿を、
書斎で読み返し、推敲をするのを専らの愉しみとしているという、
そんな風景があったが、ちょっとがっかりしたのを覚えている。
もちろん彼特有の自虐的な、戯画として書いていたのだろう。

もっとも、私自身、それら反故をながめつつ、
何か、HPのコンテンツに使えるものはないか、という目があったことは否めない。
二十数年前に書いた「稲垣足穂」の評論があったはずだが、とか、−−。

何も、めぼしいものは見つからなかった。
当然のことだった。

別に未練はなかったし、
その日の内に全部焼却してしまった。

すっきりした。

ちなみに、その日探していたのは、
姉から貰った高校音楽の教本である。
今年還暦を迎えた姉の、16歳の時のものだから、あったとしたら、
今年で44年目になるのだろうか。
確か「マルタ」の「夢のごとく」があったと思うのだが、
それを確かめたかったのである。


28.清張と鴎外

  松本清張の「両像・森鴎外」文藝春秋を読んだ。ものは次いでと
小倉(北九州市小倉区)の「松本清張記念館」を覗いてみようと思いたった。

  清張がなくなってから既に十年が経っているらしい。
まことに、日々に疎しということだろう。記念館が建ったことは聞き知って
いたけれど、行く機会がなかった。その気になれば一時間以内に行ける
距離である。行かなかったのは怠慢だった。行ってみて驚いた。
大変なものである。地下一階、地上二階、受付けに二人、もぎりは
別の女性、エレベーターで上がれる二階にも、地下(明るく、外光も
入って地下の感じがしない)にも数人ずつの若い女性がいる。地下には
軽食喫茶もついている。小倉城の城内に建てられたこの記念館は
金をかけただけあって訪れるひとも多く、城と並んで勝山公園の目玉に
なっているようだ。まずは嘉みしたい。

  骨格は清張の自宅を摸した中央のショールーム。
1、2階吹き抜けの上下に応接間と書斎を現状のまま持ってきて、
その間を書庫として膨大な彼の蔵書で埋められてある。自筆原稿や資料、
遺品などはその割りには少ない。地下では、没十周年を記念して、彼が
小説家として独立する前に勤務していた朝日新聞社(小倉にある西部本社)
員時代の回顧展もあって、興味深かった。

  顕彰碑そのものは中身のあまりないものだろうけれど、
文学館としてはもう少し内容が欲しかったと思うのは贅沢だろうか。
建物自体立派な余裕のあるもので、これから充実させていくのかもしれない。

  松本清張は多作だった。デビューこそ42と遅かったけれど、
83で死ぬまで切れ目なく書き続けた。多作だっただけでなく、その作品群は
実に幅広く、多彩だった。社会派といわれた推理小説自体が大きな
新しい分野を開いたもので、死ぬ直前まで続いて書かれたそれらにも
マンネリズムの見られない、様々な色分けができるものであり、
古代史から現代史まで、思索論考の著作群はまた、それぞれ新しい発見や
鋭い切り口があって常に世間を驚かせていた。戦後、いや、昭和を代表する
大作家といわれるのも当然だろうと思う。

  ただ、私は怠慢から清張に余り親しまなかった。
推理小説というものを読む習慣がないせいもある。ごく一部のものを
除いていわゆる大衆小説(清張自身はこう言った色分けを好まなかった
そうだが)に近付かなかった。「古代史疑」に始まった一連の歴史ものや
日本の黒い霧」、古代史の論考から派生した小説「火の回路」、
「空の城」など、ごく一部しか読んでいない。

  それで、なぜ「両像・森鴎外」なのかといわれそうだけれど、
これは清張の著作の中でもごく特殊な、珍しいものだと思ったことで、
手に取るだけの興味を覚えたわけだ。最終稿も出ないままの作で、
これは彼の遺作と言って良いかもしれない。死後二年経って出版された。

  清張にとって、鴎外は芥川賞を得た「或る小倉日記伝
につながる作家として、常でない親しみのようなものを感じていたのではないか、
と思う。明治期の漱石と並ぶ「文豪」でありながら、その生涯は人間臭い蹉跌と
悩みに満ちていたこともあり、漱石よりも多くの評伝や研究があることも、
知られている通りである。もちろん清張らしく、切り口は誰も思いつかなかったものだ。

  いわゆる鴎外最晩年の歴史考証物としての伝記三部作、
渋江抽斎」、「伊沢蘭軒」、そして「北條霞亭」についての論考がこの評論の
主な部分である。正直いって、私もこれらはまだ未読だけれど、世の専門家に
あっても、この晦渋な作品は持て余しているらしい。清張はこれらの原資料や、
鴎外自身が訪れた彼等江戸末期の三人の墓にも詣でて、この考証を
精緻なものにしている。もちろん、それだけではない、鴎外の左遷、最初の
離婚を含む家庭のごたごたなども詳しく調べてあるし、乃木希典夫妻
明治天皇崩御時の殉死に対する鴎外の応接の描写も微細を極める。
実に面白い。人間鴎外の多面性があらわになっているのは推理作家としての
冷酷な観察眼の勝利だろう。こんなところ、清張のちょっと意地の悪い目を
百パーセント信じることも出来ないけれど、いつもながら完璧といっていい
ほどの論旨の進め方は、気持ちがいいことは確かだ。

  三部作のことに戻る。清張は、なぜこの三部作が書かれたのか、
ということに焦点を当てて論証を進めていく。
本編のクライマックス、
最後に書かれた「霞亭」なる人物が、この文豪にとって、それほどに
精魂込めて書くに値する人物ではなかったのではないか、それなのに、
なぜ書かれたのか?という一点に絞られていく過程は見事である。
そしてそれは、文頭のドキュメント、鴎外も小倉勤務の最初の東京帰参時の
途上に立ち寄った、祖父白仙翁の墓がある甲賀土山、
祖父の彼の地での客死と「霞亭」の死因の類似に
鴎外が深く関心を持ったのでは?という、
巨匠の見事な全編の劇的構成に驚かされるのである。

 

27.NETの一年


の54年の人生に於て、今年('01)は特に記憶されるべき、
画期的な一年になった。インターネットを利用し、楽しむことを
覚えたことがその原因として挙げられる。
私の身辺と、その精神生活はがらりと変わった。
もっとも、家族を含めた実生活、勤労者としての公的な立場、
近所付き合いなどは全く変わっていないといっていいだろう。

誰も私の変化に気付いてはいない。

おまえは何も変 わってはいないと周囲の人間は言うに違いない。

この秘匿性はインターネットの特徴であ り、こたえられないところだ。

インターネットは別世界、異次元の国なのだ。

長年の希望だった私の作品群の公開が、ホームページという形
になって、たいした投資もせずに実現したのは今年の一月の
二十二日
だから、十一ケ月を越えたことになる。
同系 統の趣味を持つサイト氏と知り合った幸運もあって、
アクセス数は公開初期からずっと80/日を越えてきた。
近い内にこれは3万を越えるだろう。

もちろんこの数そのものが実質的な我がサイトの支持者だとは
思わないけれど、控え目にみて、この五〜十パーセントのビジターが
私のサイトの常連ではな いかと思っている。

もちろん、それがどうなんだ、それでおまえはどう変わったんだ、
と 言われると戸惑わざるを得ないけれど、
これをひとつの契機として、他者からの反応を確かめ、それを励みに、
自分の作品を磨きあげていくことも出来るようになったわけで、
確実に一つの前進だろうと思う。

もう一つは、著作家のR氏という知己を得て、その主宰するメールの会に
入会したことである。

R氏は私の書き物にも好意を持たれ、
入会に躊躇した私に、大げさにいえば三顧の礼をもってされたので、
お世話になる気になった。
今では入って良かったと思っている。
会はEメールの技術をはじめ、インターネットと
パソコン周辺の様々な知的ツールの紹介やら実用的な知識の
伝播取得、それにウイルスの防御などに非常な情熱を
持ってあたっており、私も多大な刺激を受け、
獲得した有効なソフト、スキルは数知れない。

もちろんそれだけではない。会そのものが全国規模の
巨大なサイバーサロン(一時は海外にも)を形成して、
時間を選ばず多くの話題が飛び交い、議論される。
こうした雰囲気に立ち混じって、一定の役割りを受け持った経験は
これまでなかったことで、新鮮な驚きと楽しさがあった。


今後も、これはやめられないだろう。

26.古本屋のこと

が好きで、よく本屋へ行く。
最近はふところの関係もあって、古とついた方に行く率が高い。
同じ本でも半額以下だし、何よりも置いてある本の種類が格段に多い。
最近の新刊の本屋は、漫画と週間雑誌は揃えてあるが、
単行本が非常に少ない。
岩波新書も殆ど置いてない。専門書など全くない。
物足りない。
そうはいっても、もちろん私もコミックも、
週間誌もよく読むくちではあるけれど。

  我が家から20キロの範囲にある
古本屋十数軒余を私はほぼ一ケ月で一巡し、遺漏なきを期している。
最近多くなったコミック主体のチェーン古書店群は、
新古書に近い、発刊間もない本が多いし、汚れも少ないから、
それはそれでなかなかいい、と思う。
店の体裁も新刊書店に近く、こざっぱりとして見やすく、
若者が多く入っている。そんな元気そうな(儲かっているらしい)
店とは対照的な、旧態依然とした古書店(のチェーン)も一方にはあって、
それなりに商売をしているのは嬉しい。私などは、稀覯本からエロ本、
骨董の類まで集め、あたり構わず積み上げて、
商売は2の次というようなスタンスの店の方に親しみがあり、
入ってうろうろ眺めてみるのも楽しいのだけれど、
やはり若い客の多くは、そんなカビ臭い店は敬遠するようだ。
余り立ち読み出来ない(こんな面では管理が行き届いている)
こともあるのだろう。
最近のチェ−ンコミック古書店は立ち読みの花さかりで、
店の方でも諦めているのだろう。立ち読みに金を取る店も
都会ではあったように思うけれど、ポーズだけか知らん。
何にせよ、正直な客にはあの無法者どもの眺めは精神衛生上良くないし、
何よりも、店内に流れる流行ポップスの大きな雑音には、
正直いたたまれなくなる。やはり私の居る場所ではない。

  日本一有名な古書店主出久根達郎のエッセイ
「漱石を売る」を古書店で見つけた。直木賞作家の面目躍如たる前半の、
ホラ−めくスト−リ−エッセイ群は、なかなか読ませた。

上京するたびに、あの神田神保町界隈の古書店街をうろつくのが
私の楽しみになっていたのだけれど、あんな店の奥に「芳雅堂店主」
静かに座って、カバ−した江戸人情本などを読んでいたのだろうか。

 

25.忘年会

年会の季節は頭が痛い。
酒は嫌いではないけれど、
どうも群れて何事かをなすということが苦手で、
沢山の人間の間では途方にくれてしまう。
良い気分で酔うことが出来ない。
結局、ええかっこうしーなのだろうけれど。


入社した歳の、職場の忘年会の印象が強烈だった
激しく乱れてはだか踊りをするものが出る。
わめいたり上司に絡んだりするものも出る。
まさしく酒乱の無礼講、らんちきさわぎ、
日本的ディオニュソスワールドの陰湿さに閉口した。

「坊ちゃん」に、この無礼講の場面がある。

帝大卒業後、最初の赴任地松山での実体験だろうか。

若いエリートだった
漱石も戸惑ったようで、
余り良い気分ではなかったに違いないが、
しかしさすがに小説家の目で一部始終を冷静に観察している。

実に活き活きとして、見事なものだけれど、
私の体験したそのままだというのが気になるところだ。

日本人はこんなことを昔からやっていたのだろうか。

それとも、変わらないのが当然だということになるのか。

もっとも、
カラオケの普及はこんな酒席の形態を劇的にスマートにした。

最近では無礼講もおとなしくなったというのが一般で、
はだか踊りなどはTVドラマなどでちらとほのめかされるだけで、
実際にはなくなっているのではないか。

私見では、おとなしくなった結果として、
職場の封建的雰囲気がそのまま酒席にも反映されてきている傾向がある。


人間が小賢かしくなってきたということだろうか。


24.かげぜん

イルで知り合った年長の畏友F氏によれば、
作家の
大岡昇平の文章に以下のようなものがあるという。

折口先生の学問で、私が最初に惹かれたのは
「鎮魂」という
考え方である。古代の旅人は、
その魂の一部を家に残していると
信じられていた。
旅人がつつがなく旅が出来るように、家人は夜毎に
鎮魂の儀式を行うという。
 旅人の方でもまた旅先で、
床に就く前に儀式を行う。それは
たまの緒 で結びとめて来た
妻の
たまを鎮める儀式であり、また見知らぬ土地の
精霊を鎮める儀式でもある。万葉集にある多くの覇旅の歌は、
こうして
作られた。多くの国ほめの叙景歌も、
この発想に基づくものである
。  (朱書はF氏)

大岡昇平は私も好きで良く読んだけれど、
それも小説に偏したものだったようだ。
彼の折口への傾倒は氏に聞いてはじめて知った。

上の引用は、
F氏の青春とともにあった折口信夫の思い出とともに
語られたものだけれど、私はこの話題から、我が生家で
実際に行われていた「影膳」という風習を思い出した。
父が出張などで長く不在だった時、母は父のいない
団欒の夕餉にひと盛りの飯椀を拵えて、置いていたことだった。
もっとも、父が酒に溺れて荒れ出したころから、
そんな習慣は全くなされなくなったけれど。

勿論、この風習は古くから日本の一般的な習慣だったので、
折口の先輩格である柳田国男にも注目されていた。
これもF氏に教えられたことである。

現代の日本ではもう忘れられたことだ。


たまとは、生きた霊のことだろう。
古来日本文学には生霊が多く現れる。
人間同志のつながりを考えるにあって、
生霊を信じるか、信じないかは大変大きな違いを生じるのは当然だろう。

小説家は人間同志の複雑な関係、葛藤に関心を持ち、
深く考察することで作品を作ることが多い。
家族間など、より親密な間に生霊の交流があり、
時空を超えてお互いに親密に出来るという日本古来の思想ほど
愛情の何たるかを根源で示しているものはないだろう。

同様に、死霊、幽霊の存在は、
日本人の死者との付き合い方を暗示している。
死者を、先祖をどう考えるかということと、
幽霊を認めるかどうかは関係ないといわれるかもしれない。
それは関係があるのである。
近代にいたるまで、日本の各地に夥しく造られた神社は、
その殆どが特定の死霊、死者を慰め祭るものなのだ。

また同様に、妖怪への強い関心は日本人の自然世界との関わり、
環境との付き合いかたを示しているとは言えないだろうか。

それらすべてのことが私には古くて、とても新しいことのように思える。

超自然のものを生霊、幽霊、妖怪の三者に分類したのは、
折口の弟子だった池田弥三郎だったと思う(「日本の幽霊」所載)。

柳田の名作「遠野物語」は超自然の話で満ちている。

そんな系譜の先端に宮崎駿の作品群があるのだろう。


  23.  チェロ

  沢賢治のチェロ好きは周知の事実だけれど、なぜチェロだったのか。
先日のTV(10/26TV東京系は興味深かった。ベートーベンに心陶して、
レコード会社から感謝状をもらったほど当時の
高価なレコードを買いあさった賢治は、
ベートーベンのチェロ志向に共感したのだろうという。
古典期、低音の伴奏楽器だったチェロを独奏楽器にまで引き上げたのは
ベートーベンだった。音楽に革命をもたらし、ロマン派の先駆をなした音楽王が、
楽器の使い方にも革新的なものを取り入れたことは自然な成り行きだったろう。
その重厚で情感にあふれた幾つものチェロソナタを創っただけでなく、
交響曲などにもよくチェロを重用している。

  このようなことは後年知った。私のチェロ志向はもっと単純で、
高校のころ親しんだ寺田寅彦の随筆から、
彼が趣味でこの楽器をよくしたことを知り、
自分も、と思ったようだ。
一流の科学者でもあった寺田寅彦は達意の文章家で、
科学随筆というものを始めた先達だった。
後年彼が夏目漱石の門下だったということを知ったのだけれど、
様々な断片的な知識が、あとでいろんな新しい情報で結び付いて
系統だっていくのを見るのは痛快でもある。本読みの快楽のひとつだ。

 

  私が社会に出た、その年にはチェロに結び付く思い出が幾つかある。
アントニオ・ヤニグロというチェロ奏者のコンサートを聴いたのはその夏だった。
プログラムはもう失われたけれど、バロックと、そしてベートーベンの
第3ソナタがあった様に思う。アントニオ・ヤニグロというチェリストは、
彼を聴いてから死ねと言われたほどの名手だったと聞いた。
しかし、その先年来日した時は、腕が痙攣して演奏が出来ず、
片手に包帯をして指揮する写真が私の記憶に残っている。
ファンは残念だったろう。私はこの時、幸運にも聴けた。

 

  ちょうどその頃、A・ヘプバーンの主演になる
昼下がりの情事」を見て(昼下がりだけに逢う瀬を重ねる、
おませ気取りの女子音楽校学生と女遍歴を重ねた中年の実業家との
ハーレクィンタッチの恋愛喜劇)彼女がチェロを奏しているのに
軽いショックを受けた。
そんなことも私がチェロをものにしようという動機の
ひとつになったのかもしれない。

  ともかく社会に出て最初の年の暮れの、
初めての賞与で私は鈴木のチェロを買った。
確か六万六千円だったと思う。
しかし、もともと私には楽器をそれなりにものにするだけの根性も、
ひとなみの器用さも持ち合わせてはいなかった。
それを自覚したのは更に遡る昔だったのだけれど、
つい失念してしまったということ。
ひととおりのハイポジションをマスターするまでにも至らず、
最初の教則本半ばで投げ出してしまった。情け無い話だ。

 

  そういった口惜しさから八つ当りするわけではないけれど、
ヘプバーンのチェロさばきは別にして、
日本で最近増えている女流チェリストはどうだろうか。
多く聴いているわけではないけれど、どうもひとつパワーが不足している観が拭えない。
やはりチェロは男の楽器ではないか。
J.シュタルケルを99年に聴いたけれど、やはり、あの大きな楽器を
大男が自在に扱って雄大な音を引き出す様がチェロの醍醐味ではないのか。
余計なことを言うけれど、あのマン・レイが恋人のキキをモデルに撮った
有名な写真に見られるように、チェロは本来、女体を摸して造形されたものなのだ。
女体を女性が抱いてどうする。不自然ではないか。


 

22.楽器の王


  器の王とは、文句なしにバイオリンだろう。
もちろん表現量(一度に沢山の情報を発声出来る)やら絶対音量の大きさで、
ピアノなどには負けるとしても、その一見単純な、人間臭い、
愛すべき巧緻な器体から表現される、無限に近い多様な発声、
音楽の見事さは、まさに人間が作り上げた数々の手づくり道具の中でも比類のない、
奇跡のような魔法の箱だといっても言い過ぎではないだろう。
もちろん、その奇跡を実現出来るのはやはり、
練りに練られた高度な技術を有した、
数少ない天才音楽家たちに限られるのだろうけれど。

  ヘンリク・シェリングを聴いたのはいつのことだったろうか。
当時日本最大の音楽専門ホールだった大阪フェスチバルホ−ルで聴いた
彼のコンサートは今でも脳裏に焼きついている。
バッハの無伴奏ソナタ朗々たる調べが全会場に響き渡って、
それがひとつのちっちゃな木製の箱から発されている音であることを
どうにも信じることができなかった。
私がこれまで見、聴きしたすべての感情、
すべての光、すべての輝かしい色彩を超えたものがそこで再現され、
響き渡り、干渉しあってきらめいていた。
長く忘れることの出来ないコンサート、ひとつの大きな経験だった。

  そのあとも、私の馬齢はそれなりにコンサート経験を重ねて、
すぐ思い出せる奏者を書き連ねれば、例えば安永徹、ヨゼフ・スーク
諏訪内晶子どが思い浮かぶ(諏訪内晶子はちょうど、
モスクワのコンクールでグランプリを取ったすぐあとだったと思う。
プログラムもチャイコフスキーのコンチェルトで、
第一楽章の凄いカデンツァが終わった途端に会場から拍手が発生して、
戸惑いながらも感謝の会釈をする諏訪内氏が愛らしかった-)。
ス−クは、もちろん良かったけれど、私が最初強い印象を持ち、
たまたま録音して何度となく聴いたオープンリールテープの
フランク−イ長調ソナタの圧倒的な感銘を再現することはなかった。
何が変わったのだろう。彼が?それとも私が?

 

  「ヴァイオリンの名器」(F・ファルガ−佐々木庸一訳  音楽の友社)
という奇書を読むと、バイオリンという楽器のなりたちが
いかに不思議な挿話で彩られているかが分かって興味深いものがある。
例えば、この科学万能の時代にあって、このよく知られた楽器だけは、
今なお三百年以上昔にイタリアの小さな田舎町で集中的に作られたものを
最高の品として、これを超える性能のものの製作を(技術的に)成し得ないでいる
という奇妙な事実を知ることが出来る。しかも、その中心にある職人で、
魔術師と呼ばれるA・ストラディバリ(1644〜1737)は、
後期には週一個という乱造に近い製品を作り続けていた
(彼の生涯では、恐らく二千を越える楽器を作っただろうという)というのに。

  これは、例えばモーツアルトがその晩年に、
凄まじい制作意欲で今も珍重される多くの偉大な作品を作り続けたという、
似たような例を思い起こさせる。もちろんこれらは
全く実質として異なった問題だろう。当の木工職人が、
巨匠と呼ばれるにふさわしい技能を持っていただろうことは確かとしても、
それが今の神秘的な評価に、本当にふさわしいものかどうかといわれれば、
疑問点はなくもない。もちろんその完璧な楽器の、
ニスの輝きに代表される工芸的芸術価値、希少価値からくる
天文学的な価格に疑問を挟む余地はないにしても。

 

  ともかくも我々が驚くのは、制作後三百年を経て、
なおもそれらが大ホールでのコンサ−トに使用され、見事な音を響かせるという、
それら楽器の持つ耐用性だろう。これは、奈良法隆寺の大工西岡常一氏が言う、
千年前の職人の腕に今の人間が迫ることの困難さ
(昔の人間は何でも熟知していた=現代の科学的理論すらも=ように思える)
といったことに、より近い問題のように思える。

  音、音質、微騒音、これらは、現代の最先端工場での製品群の
マスプロ(例えば車)において、製品の基本性能を毒しかねない、
常に比重の高い、解決し難い(ネガチブな)問題となっている極めて複雑な、
コントロールの困難なものだという。スーパーコンピュウターすらも
その解決に決定打たりえないとも。クレモナの巨匠たちの多くが、
その生涯の半分以上を苦しい試作、模索と研究で明け暮れたと言われるのも
故なしとしない。

 



  21.小津作品二つ

  津作品を二つ観た。「東京物語」、「秋刀魚の味」。
どこにでもありそうな日常生活の一場面、どこででも見かけそうな
平凡な市民達の折りなす、ドラマチックとはとてもいえない
庶民のドラマをさりげなく描いて、しかも見るものに深い感興をもたらす。
私にははじめての経験で、小津作品への高い評価は聞いていたし、
それなりに構えていたのだけれど、予期した以上に楽しめた二作品だった。

  東京物語」1953松竹
尾道に住む老夫婦(笠智衆、東山千栄子)が
子供達に会いに、見物をかねて上京する。
医者の長男夫婦(山村聡、三宅邦子)の家に二泊、美容師の長女
杉村春子、中村伸郎)の家に一泊したが、生活に追われ、
孫の世話に忙しい彼等は、久しぶりにやってきた親を
東京見物に連れ出す労も厭う上に、
近所付き合いのために彼等を邪魔物扱いにして、小遣いを渡し、
熱海へ体よく追い払う始末である。
その中で、二男の嫁だった戦争未亡人紀子(原節子)だけは
忙しい仕事を外し、二人を一日の東京見物に付き合い、
親身になって世話をする。帰郷の途中で体調を崩した母は
尾道に戻って間も無く死に、そこでも葬儀を済ますや
早々と戻っていく子供たちに代わって、
最後まで義父を慰め続けた紀子の姿があった。

  秋刀魚の味」1962松竹。
先に妻を亡くし、ずっと身の回りの世話を一人娘に頼っていた
初老のサラリーマン(笠智衆、岩下志麻)が、
久しぶりに同窓会で会った恩師(東野英治郎)と
中年の行かずじまいの娘(杉村春子)との無残ともいえる
なれあいの姿に遠くない自分たちを見、
ようやく娘を嫁がすことを決心する。
旧制中学以来の友人たち(中村伸郎ら)との温かな付き合い、
長男夫婦(佐田啓二、岡田茉莉子)間の現代風なク−ルさ、
積極的とはとてもいえない娘の淡い失恋、
男が偶然入ったバ−で出会ったマダム(岸田今日子)に
亡き妻の面影を見る場面など、平凡で善良な市民の前を
淡々と流れる日常の描写に、庶民の魚、
秋刀魚の味を喩えたということだろうか。

  こうしたドラマは幾つもバリエーションが考えられるけれど、
その平凡さゆえ(小津映画そのものは実に緻密に作られた芸術だが)
に観客をいつも楽しませることができるかどうかは疑問だ。
そこに、これら小津作品の偉大さがあるのだろう。
もう、我々はこんな作品を作ることはできないだろう。
作っても、観客を呼ぶことはできないだろうし。
モーツァルトの美しさを絶賛はしても、その単純さ、
素直さゆえに、その真似ができないのと同じように。

 

  これらの映画を、私は文化庁の
優秀映画観賞推進事業の「全国巡回上映」で観た。
一日に四本を連続上映する。この日は他に溝口健二作品
西鶴一代女田中絹代主演、と「近松物語長谷川一夫、香川京子主演、
を観た。弁当を上映館へ持ち込んで、日なが一日がかりの観賞会であった。
素晴らしい企画だと思うし、もっと多くの作品が気軽に観賞できれば、とも思う。
年に一回(土、日曜同じ企画の連続上映)とは残念である。
もっとも東京へ行けば、年を通してこのような上映がなされているらしいが。

 


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