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10.一村のこと



 村展を見に行った(田中一村展 於福岡市立美術館)。
五年前に倉敷(倉敷市立美術館’96.9.11,12)で出会って以来だ。
あのときは旅の途上だったけれど、参ってしまい、二日続けて見た。
奄美時代の大作が多かったあの時に比べて、今度は若いときの山水画
などと、色紙に書かれた細密画のようなものが沢山出ていて、堪能した。
 旅上で、一村の特別展に出会う幸運はただ事ではない。
運命的なものを感じたのだけれど、そこで既に彼とは初対面ではない
という印象を持ったのが不思議だった(いわゆる既視感覚?)。
いかにも懐かしい、泣きたいような幸福感を持ったものだ。

 これは何だろうか。例えば、こんな偉大な人格と同時代に
生きて、こんな稀有なドラマと自分の生活が、間違いなく
同じ日々の中で同時進行していたのだという不思議な驚き、
感動なのだろうか。

 今度の展示でもそれはあった。こんな感激に出会える展覧会は
滅多にあるものではない。その冷酷なまでに細部まで
正確無比に描き込まれた森閑たる自然と生物たちの織りなす
極彩色の世界の圧倒的な力に私はまた酔った。
 一村の幸福とも、不幸ともつかない、ドラマチックな生涯の大略は、
年譜を見れば、倉敷での特別展までには、既に
マスコミに流布していたようだし、私はどこかで彼に出会い、
いつからかそれを知らず記憶に取り込んだのだろう。

 一村と姉喜美子との陰影の深い関係は、彼の生涯を更に芝居じみて
彩る要素になっている(実際に芝居になったらしい。評判の美人だった
姉をモデルにした、一村自身のカメラによるポートレイトが倉敷展にあった)。
 彼の作品には人物像が極端に少ないし、それは孤高の画家特有の、
人間への興味喪失の現れだったのかとも思うけれど、
今度の展示で見られた千葉時代の一作「浅春譜」には、
珍しくも見事な様々の人物像が暖かく活写されてあって、
ほっとした。

9.ずっと思い違いをしていた!?


読んだ小説の、印象に残った場面を後日読み返して、
全く異なった感を持つことが、ままある。
読者側の変化、(進歩?)というのが大方の理由とされるのだけれど、
記述内容をを(どういうわけか)誤って記憶していたということも
当然ながらあるわけで、若年の頃から健忘症気味の私としては、
読書ノートなどまめにつける必要を、こんな面からも
痛感するのだけれど、日記からしてなかなか
続かなかった、自他ともに認めるぐうたら人間としては、
はなから諦めてしまっている。

しかし、(昔の愛読書を)読み直して、どうもしっくりいかぬ、
以前の記憶も捨てがたい、という事例はないだろうか。

 
トルストイの「戦争と平和」は、現在どれほどの読者が
あるのか。私も社会人になった年に社員寮の二段ベッドで
貪り読んだ記憶があるのだけれど、その直接動機が、
A・ヘップバーンが主役をしたハリウッド映画(当時リバイバル
上映していた=大阪は心斎橋の戎橋劇場)の再体験だったというのは
ちょっとなさけない。しかし、あれはやっぱり、
大文学(例えば「
ロマン・ロランのジャン・クリストフ」とか)というより、
偉大な通俗小説だった。
 つまり、一言でいうと、
軍人のアンドレィ(映画ではヘップバーンの夫君になった
M・ファーラー
と変人ピエール(
H・フォンダ)と(ヘップバーンの)美女ナターシャとの
三角関係が軸になった恋愛小説だった。
ともかくナターシャは実に魅力一杯に描かれてあって、
誰もが夢中になるのも当然、ということになる。
彼女が結婚後に凡妻になるのがリアリズムで、
通俗でない証拠だ、と苦しい弁護がどこかであったけれど、
それ自体、誰でも思いつく平凡な筋だ。
もちろんその舞台となったナポレオン戦争は史実を克明に調べ、
迫力一杯に描写されてあるわけで、読み物として大層面白かった。
こんな凄い腕を持った大衆作家は日本にはいないだろう。
体質的には井上靖に似ているのだろうが、スケールが違う。

それはともかく、本題に入る。私が印象に残った場面の
ひとつに、最終章、ピエールがナターシャと結婚して、
子供も出来、新妻はその家庭に満足しきって夫にべったりであり、
身だしなみにも気を使うことなく、他方、ピエールは思想人、
社会人としての対外活動に忙しい

久しぶりに夫婦揃った
或る日の家庭団欒のひととき、妻との会話の間、ピエールは
ふと向こうで遊ぶ小さな愛娘(
かつての妻の幼い頃を
彷彿とさせる美しさの萌芽がそれにはあったはずだ
---)に
じっと気を取られて眺めていた。


多少苦い、ちょっとどきっとさせるようなものがそこにあった、
と記憶していた。

 どうして人間の脳はこんな些細なことを三十年以上にわたって記憶に
留められるのか(若年健忘症の私にして)と言う疑問もあるけれど、
それは私なんぞの手にあまる謎に属しているわけで。
それはさておき、

最近「禁忌」といったテーマを考えていて、
そのシーンを思い出した。そこらあたりを読み直そうかと思った。
私が三十数年前読んだ筑摩書房世界文学大系は、多分当時
どこの学校図書館にもあった、このての決定版との認識がある。
当の本、大部二冊は年下の同僚が結婚記念に呉れ、と言って
一方的に持っていってしまった。市の図書館にも世界文学全集なぞは
もうマイナー扱いであり、小さくなってあった河出書房の全集を繰ってみた。
私の記憶にあったシーンは、どこにも見あたらなかった。多分、
以下の段落を勘違いか、深読みして記憶に留めたものだったのか。

ピエールは語り掛ける妻の顔をじっと眺めていた。隣室からは同居している
義弟夫婦の快活な娘(大人たちのマスコットでもある)妻と同じ
ナターシャと言う名の姪の、元気な声が聞こえてきた。

ピエールがその声に、耳を澄ませて聞いていた気配もないではないけれど、
ここにはさほど情念の暗いたゆたいは感じられない。
それは底の浅い、単なる平凡な家庭の一シーンでしかない。

河出の
中村白葉訳(一応大御所だとは思うけれど)には時々、物足りない、
というより、ちょっとびっくりするような異様な、こなれない単語、語彙が現れて
(ナターシャを「妖姫」などというのは、どうだろう)首をかしげることがある。
もちろん、素人のたわごととして聞き過ごしていただければいいのだけれど。
ここはもう一度、筑摩の「原典」(白葉訳ではなかったはずだ)
を覗いてみようか、といった気分になっている。

 


8.ワープロの変遷


 他
人の書いた文章の中に自分との共通点を見つける
のは、楽しい。団伊玖磨だったかのエッセイの中に、
「文房具店へ行くと、その店の商品全部が欲しくなる」
という一節を見つけて、ははあ、自分と一緒だなあ、と
微笑したことがあった。

 昔から、白い紙があると心が弾んだ。広告紙の裏の
空白のもの(以前は大抵そうだった)を残しておいて、
いろいろ落書きなどしたものだ。ホッチキスなるものが
市販されていることを知って、寝られなくなるほど欲しかった。
他にも、印字組みスタンプなどに憧れた。何を創りたかった
のだろうか。

 文房具というものは、何であれ、そういった「創作欲」を
刺激する何かがある。時間は大きく跳んで、十四年ほど前、
ようやく自分の小遣いの範囲で買えるまで値の下がった「ワープロ」
なるものを買って、これは「超文房具」だ!と小躍りした。
今から思えばそれは現在の「テプラ」、名前印字器ほどの
機能しかなく、漢字はJIS第一水準のみ(それ以外の漢字は
扁、旁を組み合わせたりして自分で勝手に作る機能があった)、
表示部分も二十字ほどが覗ける小さな液晶板
しかない携帯機だったけれど、何年間か、私はそれ
(サンワードSWP-M2g)をこき使って創作に没頭した。
メモリーも僅かだったし、テープレコーダーを使った
外部記憶機構(音楽用カセットに取り込む)も、
大抵終了直前にエラーが出て口惜しい思いをしたので、
ある程度書き込むたびに印字出力してクリヤーし、
何度もそれを繰り返して、結局何冊かの自家出版(手作り)
著書を作り上げた。

 数年後に買った同じサンヨーのデスクトップ(SWP-340)は、
飛躍的にメモリーが大きくなり、フロッピーに作品を溜め込む
ことも出来るようになった。これは十二年たった今も現役だ。
現用のパソコンについてきた(バンドルソフト)ワープロの
機能の充実ぶりには驚かされるけれど、
基本的には、このあたりで実用の域に達していたと言える。

もちろん、自家出版となると、昨今のインターネット、
ホームページの機能はそれらをつきぬけて
凄まじいばかりの、超現実的な威力を発揮している。
 私達の年代は、だからコンピュウターの恩恵を(その発展の
加速度を肌で実感しつつ)ほぼ百パーセント蒙ったといえる。
幸運だった。

 しかし、我々の一世代前の先輩は、ことワープロに関しては
(それだけでもないだろうが)悲惨だった。
S56年の暮れに、書斎を半ば占領する大きさの脚つき、
机タイプのシャープ「書院」を毎月6万円、5年リース
(価三百五十万円?!!!)で個人購入した氏の悪戦苦闘ぶりを、
それ自身を版下に使って自費出版したエッセイ集(高橋春男著
「第三人生を往く」)から窺うことが出来る。
使い勝手の悪さもさりながら、毎月サービス員が来て見ていく
にもかかわらず故障が頻繁で、何度配線基板を交換しても
直らず、結局代品交換となった。(その後は順調だったそうだが。)
その五、六年後には、更に機能が充実、超小型化した、
電池駆動、携帯タイプのそれが、百分の一の値段(この低下
ぶりは、同時期の電卓のそれとほぼ同程度だが)で各社から
大量販売されている状況を、氏はどんな思いで眺めた
ことだろうか。


7.日本人は無口か ある日のスピーチ原稿から

 
本人は話が下手だと言われていたそうです。無口な人種だ
とも言われていたそうです。無口だったから下手だったのか、
下手だから無口になったのかはちょっと分かりませんが。
最近はそうでもなく、テレビでもトーク番組全盛で、アメリカの
芸能界にも日本人のしゃべくりのコメディアンが出ているそう
ですが、ともかく日本人は話すことがうまくなった。会話を愉しむ
人種になったというのが大体の見方だそうです。携帯電話の普及も
これを裏付けているのかも知れません。何事もうまくなることはいいことだと
は思いますが、気をつけねばならないことは、話し言葉というのは、
当面の相手に伝わればそれで用が足せるということと、すぐ消えてしまって
残らないことから、書き言葉とくらべて不正確で、
証拠能力も薄いということです。
昔の武士文化には、一旦喋ったことは責任を持つという
モラルがあったそうですが、最近はそうでもないようです。
 人間は言葉を発明してからそれを道具に、より複雑な問題を考えることが
出来るようになったということでしょうが、やはり言葉というものは、
書き言葉が基本なので、話し言葉だけでいい加減にやっていれば、
思考能力も低下していくので、やはり技術レポートとか、
書き言葉による日常の訓練もしっかりやることが必要ではないかと思います。
 総理大臣の失言が問題になっていますが、我々のレベルの発言は
仕事に関することでも滅多にチェックされることはありませんが、
気をつけたいことだと思います”。

 職場での朝礼のために、たまにこういったメモをワープロで作ることがある
ごみの中から拾ってきたのだけれど、これは何時頃のものか、総理大臣が、
多分森前首相らしいから、さほど昔のものでないことは確かだ。
 ベースになっているのは
鮎川信夫が’84年に毎日新聞に書いた
論評であることは間違いない。

------ 近代市場社会のルールにしたがえば、文学もその支配を脱し得ず、
単なる消費物になり下がっている。小説は昔よりも読まれているが、
娯楽的興味か、話題性に依ってであって、
  内面的な教養のためではない。
  どうみても、書き言葉より話し言葉の方が優勢な時代なのである。--------


 鮎川はこの中で、日本文学の退潮がテレビなどマスコミでの「軽薄な」
会話全盛で、書き言葉など面倒だと省みられなくなった風潮に原因を求めている。
更に、彼は言う

  電子メディアの発達が、この傾向に拍車をかける。まさに話し言葉の洪水であり、
  情報の沸騰である。あらゆる分野、あらゆる種類の言葉が飛び交い、混じりあって、
  異様な情報世界を構成している。-------
   真実を述べるのが苦痛なら誰も傷つくことを欲しないから避けるであろうし、
  喋るのが快適ならば、調子に乗ってその快適さを誇張して増幅させるだろう。
  その融通の自在さが、いわば話し言葉の活力である。
  だが、そこには危険な陥穽が待ち受けている。------
   いい加減な言葉を使っていると、その思考までいい加減になってしまうのである。
神(絶対者)のいない世界で、相対主義に安住しているのが、現代人である。
  言葉など信じず、オーウエルのいう二重思考にも馴れているから、
  嘘を真実のように言いくるめるのは造作もない。犯罪だって、まことしやかな事業に仕立てられるし、
  美しいパフォーマンスに化することが出来る。そうなれば、保守派から過激派まで、
  言葉の不確かさを利用して、もっぱら政治的にしか言葉を操作しなくなるだろう。


私はこの一文の、文学者としてのの自負と自信に満ちた見事なエンディングが
大層気に入っているのだけれど、

  
----それは現象としてみるかぎりでのことである。純文学の文体を信じる作家は、
  今ではきわめて少数になったが、そんなことでは少しも動じないに違いない。
  旗は破れ、旗竿だけになっても、基準は依然としてこちらに残っているのである。


もっとも、だから、おまえはどうなんだ、
といわれれば、赤面せざるをえない。この鮎川氏を、長い間「
鮎川哲也」と
混同していたくらいだから(^^;;;  。

 日本人が話し上手になったかどうかについては、
丸谷才一
男泣きについての文学論」が面白い切り口を提供している。
丸谷は昔の日本人、特に男が随分人前で泣いたことを豊富な証拠
(文学、劇作などから)を挙げて実証し、
世界的にもこれが特異なことを言い、それは自己の感情を
うまく言い表せないことからくる現象(「例えば、赤ん坊がよく泣くこと、
彼等が泣くしか自分を表現できないことを考えれば、
この論旨は明白だろう」)である(だった)と推論断定する。
現今、日本でも男が泣くのは異様なことになったというのも、彼等は泣く必要が
なくなった。話し上手になった。つまり、その感情を言葉にして訴える必要性が
都市化など社会構造の変化から生じ、その技能の向上が
国語教育の普及やら、マスコミの発展などでなされたからだという。
丸谷の一文の結論が、鮎川のそれとは対照的なのが面白い。
男の精神構造のこうした変化に文学者はついていけるか、
「男が書けるか?」と問う。
 丸谷の小説にはさほど入れ込めない私だけれど、評論は疑いなく
彼の真骨頂だと思う。
その独創性にはいつも感心する。朝日新聞で一年間続いた文芸時評
(「
雁の便り」だったか)は本当に画期的で、楽しかった。彼に乗せられて
随分新刊書を買ってしまった。
 私の文章は彼の”
文章読本”にある 「ちょつと気取つて書け」 を実践している
積もりなのだけれど、どうか (^^;;;;; 。

6.コンピュータについての2つの想い出

 塚治虫の代表作「鉄腕アトム」。その冒頭「アトム誕生」の段に、
「---1974年に、超小型
電子計算機が発明された---」と述べられている。
これが「――誕生」の書かれた1951,2年に手塚アンテナが予感した、
現在の我々の印象でいう、いわゆるマイコンだろう。
当時、さほど実用性のない、大きいばかりのメインフレーム・コンピューター
(多分、真空管の)が米国で数台稼動していた程度の時代で、
もちろんマイコンなど誰も夢想だにしなかった
(インテル社が4ビットマイコンを発表したのは1971年)。
 ちなみに、これを確認した版は講談社のKCスペシャル7巻もの
(1987刊行)で、例によって当時なお生きて精力的だった作者は
これにかなりの手を入れている。
オリジナルを見た記憶のある私は、ここに多少の違和感を覚えた。
「超小型
-電子-計算機」でなく-原子力-だったのでは、と思うのだけれど、
果たして事実はどうだったか。この版では、この語の前に-原子力による-
という幾分唐突な言葉が挿入されてあるので、この疑いは更に濃厚に思える。

 当時は原子力万能の時代で、未来の利器は全て原子力が引き受けるだろう
という風潮だった。もちろん作者の卓越した先見性はこんなささやかな瑕疵など
ふっとばすほどの凄さではあるが。当時の雑誌、或いは最初のハードカバーの
アトム全集版(光文社だったか?)をお持ちの向きは、確認されては如何?

 アトムが生まれた(とされる)のは2003年。マイコンは疑い無く現代社会を
激変させ、産業、文化、実生活に必須のものとなったし、もちろんロボット開発の
キーマテリアルになった(そして日本が最大のロボット産業国家になったのは
アトムの影響だというひともいる!)、しかし明後年までに、現実にアトムほどの
自在なロボットが生まれる可能性はない。ホンダやソニィのおかげで、
かなり遅れてではあっても介護ロボット程度のものは、ここ十年以内には
現れる可能性が出てきたけれど。

 手塚治虫の先見性、芸術家としての卓越は
子供だった私に作家への憧れを抱かせた。
いつかこんなものを書きたい。書いて皆を感動させたい。
こういったふらちな夢を、膨大な手塚ファンのかなりの部分が持ったらしい。
その中から現れた非凡な才人たちが、現在のコミックの隆盛を造ったのは
周知の事実だけれど、一面、彼等以外の多くのひとたちの夢の殆どが、
子供の時の、子供っぽい夢で終り了ったのも事実だろう。
幸か不幸か、私などは、一応まっとうな社会人としての人生を歩みつつ
(そして殆どまっとうしつつ)、やはり馬鹿みたいに(未練ったらしく?)、
その夢をなお捨てきれずに現在に至っている。

 もうひとつ、小林秀雄という一世を風靡した評論家があって、
そのベストセラーである「
考えるヒント」というエッセイ集の冒頭にある
常識」という一文に現れる、「電子頭脳」(現在言うコンピューターである)
のイメージにまつわる想い出である。
この、E・ポーの「将棋を指す自動人形」を扱った小品から入ったエッセイの
内容骨子をかいつまんで話すと、
「電子頭脳」といえども機械仕掛けの一種だから、将棋を指すとかいうような
「逐一対局者の新たな判断を必要とするような事態に対応する動きをさせる」のは
不可能だ。そしてこれが「常識」なのであり、その「常識」が貴いのは
「刻々新たに、微妙に動く対象に即し、まるで行動するように」はたらくからだ、と。
(この当否は別にして、しかし、この「常識」は、どう考えても常識ではないだろう。
例えば、知性、とかいうのがそれに近いのではないか。そう読み替えても
いいのだろうが、いささか深読みに属することだろう。)

 確かに、コンピューターに「知性」を付加しようという試みは、
大変な投資が国家プロジェクトなどでなされたあとも、現在に至るまで成功していない。
不可能かもしれない、というのが現実である。
しかし、将棋などのゲームはコンピューターのむしろ得意な分野に属していて、
現在ではパソコンと我々の対局も日常だし、良く出来たソフトなら、
なかなか彼等には勝てないという深刻な事態も起こっている。
実際、小林秀雄の時代でもそれは実現していた。
そんな「噂」を彼もこの一文で引用すらしているのだが、信用せず、
その上で、彼は神様(全能者)二人を大層にも
引き出して将棋(のシミュレーション)をさせるのだ。

 コンピューターの効用は、人間の知性というものの構造の不可思議さを
”はっきりさせた”ことにもあるのだろう。しかし、小林のエッセイは
そこまでいっていない。
今から40年も前のことで、「無理な注文だ」と言われる向きもあるだろう。
しかし、小林は最初からコンピューターを”機械物”として馬鹿にしている。
何の興味も持っていない、というのはこの大家には失礼だし、
酷というものかもしれない。しかし、既に公刊することが分かっている
自著の内容には極力責任を持つべきだし、
少しは調べて書くべきだったろう。

 これが書かれたのは1959年で、エッセイ集がベストセラーになったのは
1964年から65年にかけて。当時私は新卒、駆け出しの社会人で、
小林マニアの先輩一流大卒インテリからこの一文のレクチュァを受けたのだけれど、
余り感銘を受けなかった記憶がある。
彼はまた、大のモオツァルト通であり、私が生意気にも、
モオツァルトといえども駄作はある、と主張したら、激しく怒り、罵られ、恐怖かった。
今にして思えば、彼の二つの根は同じ源であって、やはり小林秀雄だったのだろう
(小林秀雄の代表作「
モオツァルト」1947年刊)。
もっとも、私自身、当時から自信を持っていたわけではない。
今でも自信はないけれど、退屈するモオツァルトがあることは、私には事実である。

 1965年あたりでは、コンピューターの知識は余り普及していなかったし、
もちろんマイコンや、それを前提にしたパソコンなどは生まれていなかった。
しかし、コンピューター自体の知識は、大きな本屋へ行けば比較的簡単に得られた
はずだ。半可通なまま何かを断言することの怖さを知らねばならないと思う。
私自身への戒めとして。

 

5.アクセス数についての疑問

 千ヒット記念ということでこのコーナーを作った
のだけれど、この数は何を意味しているのだろう。
この数だけの実質訪問者があって、皆が私の書き物
を少しでも読み、何らかの感動を受けて去った、
というのでは、残念ながらないだろう。たぶん、
ここのテキストを少しでも読んでもらったひとの数は、
この半数未満なのではないか。いや、もっと、もっと少ない
のでは?現に、見知らぬ訪問者諸氏からの感想メイルは、
現在ひとけた、である。CGI利用のカキこ欄の設定に
躊躇するのはこの点につきる。誰も訪れない掲示板など
むなしい。
 あるひとによれば、ジャンルを問わず、五十ヒット/日以下
のページはもはや機能していないと考えるべきだと。
つまり、これは彼らの大半がたまたま迷い込んだサーファーで、
しっかり目的を持ってやってきた訪問者は二パーセントを切るのだ
という意味と受け取ったのだけれど。
 わが舘の場合、ほぼ百ヒット/日だから、1〜2の積極的な読者が、
最大存在するということだろうか。私の場合、過去何十年にわたって
一人の読者も持たなかった作文家だから、一人/日でも大成功と
いうべきなのだろうけれど。ここに店を出して延べ五十人〜百人の
読者を獲得したということなのだろうけれど。それが本当なら、
大変嬉しいことなのだけれど、悲しいかな実感が湧かない。
余りに手応えがないのだ。
 店を出してからたかだか三ヶ月にならない時点で、
結果を要求する方が性急過ぎるということなのだろうか。
 有名なアクセス数研究サイトである
「鉄琴銅剣楼」氏によれば、
長編小説サイトは閑古鳥サイトの代表であり、20〜30/日が普通
なのだとも。これは一般の小説で、アダルトは例外とする。後者
はひとけた多いという説もある。私のサイトはアダルトである。

では、一般小説のサイトは、ホームページには存在価値のない
カテゴリーなのだろうか。
 「鉄琴--」氏のサイトは長編小説の代表サイトと目されており、
そこでは2万/年を刻んでいた。50ヒット/日。これは氏の
広告努力と、小説だけではない、魅力的な、真面目なコンテンツ
制作への熱情、頻繁な更新などの結果と取ることも可能だ。
つまり氏のサイトも例外なのかもしれない。小説サイトでは半年近く
ほったらかしのページをよく見かける。彼等も初期の情熱が続かず、
辛いのだろう。訪問者が少なくなり、ますます情熱が冷める。

私の舘の場合、
十八禁 ではあるが、自分自身の趣味に厳格で
決して一般読者に安易に迎合してはいない積もりだし、
小説としての体裁を一番に重んじているから、
どの作品もとっつきが悪いことは否定しない。
つまりなかなか読んでみようかという気になれないスタイル
だから、いわゆる普通のアダルト小説サイトのようなヒット数は
期待できないだろう。例えばジリ貧になって、ゼロ/日が
見えてきたらまた考えるけれど、大抵数日をおかず更新
しているし、これまでの長い書き物生活で書き溜めた
ものは今のコンテンツの数倍あるし、当面は困らない。
 内容も当然、向上を目指す。今考えているのは、
もっと体裁を整えて、読みやすいテキストページを模索
すること。例えば、なかなか読み甲斐のある小説論
などが置かれている、センスのいい
「CUT OUT」氏のサイト
で紹介されている「エキスパンドブック」=縦書きで、
スクロールすることなく一気読みめくりの出来るテキストページ
と二本立てにする、なども選択肢のひとつだろう。

4.趣味についての「一家言」

 味は沢山、多彩な方面で、あった方が良いと思う。
それも余り金の掛からないものを狙った方が満足度があがって
いいのは道理だろう。もちろん個々人の趣味の内容など、
自分でコントロール出来るものではないのだろうけれど、
趣味の極致はやはり創作(創造)で、他人に見せられるもの
の方がより楽しい。
 小説は言葉の壁があって閲覧も国内に限定されるけれど、
その点CGなどはインターナショナルで、WebでもCGのホーム・
ページが隆盛をきわめているのも理解出来る。
 私のページはビジュアルに乏しいし、いずれは腕を磨いて
生頼範義とか、武部本一郎ばりの挿し絵で各ページを飾りたい
というのが究極の夢なのだが(無理、むりの声('o^;  )。

3。ながら族の勧め CDによる音楽鑑賞

 最近までLPしか持たなかった。大阪万国博の年に七年月賦で
買ったステレオセットがとうとう支障をきたすようになって、二年前
よんどころなくCDへ移った。大抵は故売店で中古のソフトを漁った。
結果急速に増え、かなりの枚数を保持するようになった。
 以前は絶対しなかった「ながら鑑賞」が始まり、読書しながら、
人形制作をしながら、甚だしきは文章を推敲しながら音楽を聴くことも
習慣になり、現在に至るが、磨耗のないCDだから赦されるか、
という自己欺瞞でごまかしている。

そうなるとディスクのかけかえが面倒になってきた。

一計を案じ、カー用の多連奏オートチェンジャーを購入して、
長時間かけかえなしで音楽を愉しめるようにした。
といっても、マニアはご存知だろうが、さほど高価なものではない。
最近の技術革新で、この手の機器は驚くほど安価になっている。
私の選んだのは「
サンヨーのMAX-35F」 十連奏のもので



これは同じものを増設出来、二台をひとつのコマンダーでマスに
コントロール出来る。予め二つのトレイにセットした二十枚のCDを
前後自由に聴くことが出来、もちろん最大二十時間以上連続演奏させる
ことも可能だ(投資額しめて二万七千円なり!)。
 電源は手持ちのバッテリーチャージャーに、バイク用のバッテリーを
繋ぎ、出力はFM電波で、
ソニーのラジカセ「ドデカホーン」でグッドな音質だ。
定期的にわがライブラリーからテーマを決めて選んだCDを交換して
様々なプログラム(今夜はベートーベンのピアノ特集だ!とか)を組み
楽しんでいる。

2.舘主諸元      

九星と干支

八白土星 丁亥

生国

丹後
最終学歴 工業高校機械課程
現在の棲息地 九州北部
生計の拠所 機械電子機器
(所謂メカトロ)設計製作

(一応給与生活者である)

こんぴゅうたー歴 草分けより BASICは一応できる
書き物歴 高校時代に手作り詩集二巻 以後小説に転向

現在に至る

投稿歴 ある
賞罰 特になし 60回の献血で賞状ゲット位
漫画発表歴 組合機関紙に毎月
4コマ漫画を三十七回連載した

 

その他 趣味の数々

読書(これは趣味に入らないと宣うひともあるが)、
 蔵書としては小説以外が圧倒的に多い。5K冊以上
 漫画も1K冊はある。
各種電子工作。風呂ブザー、デジタル掛け時計など実用的なもの
日曜大工。移動ラック、自動開閉玄関、焼却炉など、実用的なもの
菜園作り。芋、タマネギ、エンドウ、オクラ、など実用的なものばかり
音楽鑑賞。古典と小野リサなど実用的でないものばかりである
('0212現在、CDは130枚ほど)。
美術館めぐり。ゴッホなども一応見に行くが、目当てはヌード彫刻である。

人形制作。 主にアール・りべ(立体型紙による手法)で(右図−「海女」’01.4月作)。

 

夢中で読んだ記憶のある日本作家

時系列で 手塚治虫、山川惣治、伊藤整、萩原朔太郎、三島由紀夫

大岡昇平、寺山修司、谷崎潤一郎、稲垣足穂、川端康成、太宰治

永井荷風、司馬遼太郎、開高健、梅原猛、宮脇俊三、立花隆 など

 

現在捜索中の書籍

山川惣治の作品中 「海のサブー」、「少年タイガー」(地方の公立図書館にあるらしい
                                         検索してみようか)

いしかわじゅん 「東京物語(7)」以降 (10)まであるらしい

 

わが創作と「現作風」に至る「原風景」

 小学校の頃に「少年ケニヤ」など山川惣治を知り、映画ではターザンもの
に執着した。テレビの放映でちらりと見た「
ジャングルブック」(実写もの)で、
ヒーローの少年モーグリが水中でワニと絡む迫真の場面に興奮した記憶が
今でも生々しい。しかしなぜか、「少年王者」などでも美少女たちには全く興味が
湧かず、ターザンでもジェーンなどどうでもよかった(
ボー・デレクを例外とする)
彼女たちは危機にも悲鳴を上げるだけで、ったく頼りない、足手まといな存在
だったことが原因なのだろうか。

 

1.前置き

 多分、どのホームページにもあるオーナー自己紹介の
ページを、私は最初、作る積もりがなかった。恐らく、無名人
のそれを誰も読んではくれないだろうという気分があったし、
この舘でも、これだけ多くの作文で自分をさらけ出している
のだから、殊更に一章設ける必要もないだろうと言う思い込み
があった。

 誰であっても、文章を書くと、おのずとその中に
自分というものが具体的に現れるとは、
よく言われることである(「
文は人なり」とか)。

 
 例えば、見事なCGなどが陳列されてあるHPなどでは、
どんな人間がこんなものを?という疑問ないし好奇心が沸くのは
当然のことだろう。そんな訪問者のために、箇条書きなどで
具体的な自分のプロフィールを示すのは、
親切というものかもしれない、とは思う。


言葉というものは、抽象的なものの説明媒体としては、
絵画などより遥かに平易で饒舌なものらしいのだ。


もちろん自分のシャイな性格も大きな理由であった。

しかし、とうとう作ることになってしまった。
もちろんさほど考え抜いたものでもない。

 自己告白がそのまま興味ある小説なり芸術になる
とまで単純には私も信じてはいないけれど、
そんな一面があることは否定できないと思う。
 逆に、全くフィクションの積もりで書きなぐっていても、
そこに自分が投影されている(或いは隠し切れずに
当人の本性があらわになっている)と言うことが、「文は
人なり」の真意なのだろう。桑原、くわばら---。

 何にせよ、自己をさらけ出す(自己が意図せずあらわになる)
のは、他人には面白いものになるということだ。
人間への興味は人間の人間たる証拠である営み、
芸術
中心的なテーマになってきたわけだし。

 実際、私自身、ネットサーフィンの時、どのページでも
平均的に一番面白かったのは、自己紹介のコーナーだった。
皆自分のことについては、箇条書きであれ、散文であれ、
のびのびと書かれてあると言う印象を受けた。
だから、ま、ここだけは見ておこうかといった気にもなった。
その欄しか見る気にならないページも多かったし、
私のページでも、
--なんだ、自己紹介の欄もないのか、何も見るものはないようだ、--
               
といって出ていく ( ト書き)

そういった見方をする一過性の訪問者は多いのではないか。

 そんな訪問者諸氏のために、
最低限の見るべきコンテンツとしてこの欄を置くことにした。
狙いが外れていないことを願う。



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