即身成仏(そくしんじょうぶつ)について

「いきてをはしき時は生の仏、今は死の仏なり。
即身成仏と申す大事の法門これなり。」

              (上野殿御家尼御返事)


   
   即身成仏について




    即身成仏とは、現実の世の中に生きる肉身(にくしん)に仏界を涌現し、絶対の幸福境涯をに立った人生を

  獲得することである。

  真言密教(しんごんみっきょう)などにおいては、()え上がる炎の上を裸足(はだし)で歩く等の奇跡(きせき)的な通力をもって、即身成仏

  と称しているが、それは訓練(くんれん)によって引き出した、人間の潜在能力(せんざいのうりょく)の一部にすぎぬものであって、

  実際の生活に崩れぬ幸福を築くこととは何の関係もない、単なる見世物(みせもの)である。まったく仏法が

  説かれた第一の目的、民衆救済(みんしゅうきゅうさい)を見失った姿といわねばならない。

  また、浄土信仰等において説かれるのは、念仏(ねんぶつ)を唱えれば、死後に西方(さいほう)十万億土(じゅうまんおくど)に存在する

  とかいう極楽浄土(ごくらくじょうど)往生(おうじょう)できる。だから死の恐怖(きょうふ)もなくなって明るく生活できる等、まことにお

  そまつな教えである。死後の極楽浄土などという、何一つとして現証(げんしょう)(現実の証明)の伴わぬ

  教えを信じているとすれば、よほどのうっかり者と呼ばれてもしかたあるまい。

   七百年の昔、日本に御出現あそばされた日蓮大聖人は、これら諸宗の誤謬(ごびゅう)()して、全

  人類の真の幸福ー即身成仏への直道(じきどう)を開かれたのである。

   成仏することが仏道修行の最大目的であり、成仏すること以上の幸福は絶対にありえない。
   



    現実生活に生きる仏法



    日蓮大聖人の御書より成仏の御文証(もんしょう)()げたら枚挙(まいきょ)にいとまがないが、今、その説明の

  ために、ごく一部を引いていくことにする。


   「(それ)浄土と云ふも地獄と言ふも(ほか)には候はず、ただ我等がむね()の間にあり。これをさとる()を仏

   といふ。これにまよふ()を凡夫と言ふ。これをさとるは法華経なり。」 
新編336ページ)



     「日蓮等の(たぐい)南無妙法蓮華経を()って色心(しきしん)荘厳(しょうごん)したり。此の荘厳とは別してかざりたて

  たるには(あら)ず。当位即妙(とういそくみょう)の荘厳なり。」 (新編1851ページ)



   「我が心本来の仏なりと知るをを即ち大歓喜(だいかんき)と名づく。所謂(いわゆる)南無妙法蓮華経は歓喜の中の

  大歓喜なり。」 (新編1801ページ)



   「南無妙法蓮華経は師子吼(ししく)の如し、いかなる病さわり()をなすべきや。(中略)遊行(ゆうぎょう)して(おそ)れ無

  きこと師子王の如くなるべし。」(新編685ページ)


   世間では、仏といえば、死人のことだと考えたり、全身から金色(こんじき)の光を(はな)つ、人間とまったく

  かけ離れた超越的(ちょうえつてき)存在だと考えたりしているが、日蓮大聖人は、仏界は生身(しょうしん)の我が生命に


  ある。

   ここに、現実の世の中に脈々(みゃくみゃく)と生きている、真の力強い仏法と、ただ葬式(そうしき)法事(ほうじ)を生活の

  (かて)としている、死せる一般仏教との違いが存するのである。 (新編1320ページ)


   「南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申して候へば、天然と三十二相八十種好を備ふるなり。

  如我等無異と申して釈尊程の仏にやすやすと成り候なり。譬へば鳥の卵は始めは水なり、

  其の水の中より誰かなすともなけれども、嘴よ目よと厳り出で来て虚空にかけるが如し。我等

  も無明の卵にしてあさましき身なれども、南無妙法蓮華経
の唱への母にあたゝめられまいらせ

  て、三十二相の嘴出てて八十二種好の鎧毛生ひそろひて実相真如の虚空にかけるべし。」 

                                           (新編1460ページ)


   「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて、我が己心の仏性、南無妙法蓮華経とよび

   よばれて顕はれ給ふ処を仏といふなり。譬へば籠の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集ま

   るが如し。空とぶ鳥の集まれば籠の中の鳥も出でんとするが如し、口に妙法をよび奉れば

   我が身の仏性もよばれて必ず顕はれ給ふ。」  (新編1320ページ)


   「此の妙法蓮華経とは我等が心性、総じては一切衆生の心性八葉の白蓮華の名なり、是を

   教へ給ふ仏の御詞なり。無始より以来、我が身中の心性に迷いて生死を流転せし身、今此

   の経に値ひ奉りて、三身即一の本覚の如来を唱ふるに顕はれて、現世に其の内証成仏する

   を即身成仏と申す。」  (新編109ページ)


    よく世間でも、朱に交われば赤くなると等というが、信仰とは感応の妙理である。

   日蓮大聖人は、我ら末代幼稚の民衆
のために、仏の生命の当体を五字七字の御本尊の仏界

   と我が生命に眠る仏界とが感応道交し、我が生命の中にも偉大な仏の生命力が湧現し、みな

   ぎってくるのである。


   三世にわたる永遠の生命



   「縦ひ頸をばのこぎりにて引き切り、どうをばひしほこを以ってつゝき、足にはほだしを打ってき

   りを以てもむとも、命のかよはんきは、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱へて、唱へ死に、

   しぬるならば、釈迦・多宝・十方の諸仏、霊山会上にして御契りの約束なれば、須臾の程に飛び

   来たりて手を取りてかたに引き懸けて霊山へはしり給はゞ、二聖・二天・十羅刹女・受持者をうご

   の諸天善神は、天蓋を指し幡を上げて我等を守護して多慥に寂光の宝刹へ送り給ふべきなり。」  

                                                (新編674ページ)


   「深く此の理を証し、三世の諸仏の御本意に相叶ひ、二聖・二天・十羅刹の擁護を蒙り、滞り無く

   上々品の寂光の往生を遂げ、須臾の間に九界生死の夢の中に還り来たって、身を十方法界の

   国土に遍し、心を一切有情の身中に入れて、内よりは勧発し、外よりは引導し、内外相応し、

   因縁和合して自在神通の慈悲の力を施し、広く衆生を利益すること滞り有るべからず。」 

                                                (新編1425ページ)



    「いきてをはしき時は生の仏、今は死の仏、生死ともに仏なり。即身成仏と申す大事の法門これ

   なり。法華経第四に云はく『若し能く持つこと有らば即ち仏身を持つなり』云云。」

                                                 (新編336ページ)



    生命は、過去・現在・未来の三世にわたり、それは、あたかも生から死へ、死からまた生へと、

   永遠に生死を連続する。それは、あたかも眠る前の自分と、眠りからさめた自分とが別人ではな

   いように、過去世に生命が内包していた業因を、そのまま、生まれ出た新たな人生に果報として

   受け続け、生きていかねばならない。三世は厳しい因果律に貫かれているのである。

    キリスト教などでは、この世の苦しみを、神の試練であるとか、アダムとイブの原罪によるのだ

   とか説いて、その苦しみに耐えていけば死後に天国に昇ることができる、と教えている。

    しかしながら、現在の苦しみも打破できぬものが、どうして死後を保証しうるのか。現世に不幸

   な人生を送れば、その苦しみは、さらに来世にも続いていくというべきである。

    日蓮大聖人は、この三世にわたる因果律の上から、成仏とは、生死を越えた、永遠に崩れな

   い幸福を得ることである。と仰せられている。

    すなわち、成仏の境涯とはこの世限りのものではなく、たとえ生命から死へと流転しても、常に

   生まれてくるたびに御本尊のもとに生まれ、力強い仏の生命力にあふれて、自由自在の活動を

   なし、三世にわたって揺るぎない自受法楽の人生を送っていけるのである。

    このような幸福が永遠に連続するとは、なんと素晴らしい大利益であろうか。このことを法華経

   では現世安穏・後生善処と説くのである。

    信行者の臨終の際に、いわゆる成仏の相を現ずるのは、成仏の境涯が死後にまで継続すると

   いう、疑うことのできぬ現証である。



            


 


















監修 : 総本山塔中理境坊 御住職 小川 只道
著者 : 理境坊所属妙観講 講  頭 大草 一男

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法華講員の折伏必携」より転載