錦眼鏡余話6:No221
年賀状 

昨年の12月、暮れも押し詰まった23日の朝刊の「声」欄に
「どう思いますか」と題して、
4人の読者からの「声」が載っていました。
 
「どう思いますか」のきっかけをつくった読者からの「声」が
丁度1ヵ月前の朝刊に載っていました。
それは、「恒例の年賀状書き 私はおりた」と言うタイトルでした。
 
簡単にその「声」を要約してみます。
「手紙を書くのが大好きな私も、年賀状書きにいそしんでいた。
しかし、年を追うごとに、届いた年賀状を手に考え込むように
なってきた。
ほとんどを印刷して、とりあえず一言を添えたようなもの。
出すのが習慣だから書いているのだろうなと感じられるものが
多くあった。」
 

12月23日の朝刊の「声」欄に、
賛成の立場の「声」2通と、
反対の立場の意見「声」が2通載っていました。
 
賛成の意見の一つは、
「年賀状は書くのも頂くのも、うれしいものです。
昔からこの習慣を、皆さんもぜひ続けていってほしいと思っています。」
94歳の女の方からの投稿です。
 

もう一つの賛成意見は、
「便利で効率的なことを重視する社会では、年賀状は無駄なものに
なってしまうこもしれない。しかし、そんな時代だからこそ、今年は
心を込めて年賀状を作ろうと思う。相手のことを思いながらメッセージを
書く時間と手間を楽しみたい。」
 

反対の意見の一つは、
「日本男性の<健康寿命>は71歳だとか。その寿命まで、あと5年ほどです。
それまでに生活を簡素化することを本年以降の目標とし、
生活空間や所有物、諸活動を縮小していきたいと思い立っております。
いつまで社会のお役に立てるか分かりませんが、これからも
楽しく寿命を全うしていきたいと思っています。」
 

もう一つの反対意見は、
「自分たちのだけの幸せ」に違和感という意見です。
「年賀状を書く時間を世界の平和を祈る時間に充てたいと思います。」
クリスチャンのような考えを述べています。
 

私は暮れの23日には年賀状をすべて書き終えていました。
つまり「どう思いますか」の「声」欄を読まずに、年賀状を書きました。
 

自分なりに年賀状を縮小しようと考えました。
書くときに、昨年の年賀状を読み返しました。
 

何年も、印刷だけの無味乾燥な年賀状がかなりあることに気がつきました。
縮小する対象は、こういった印刷だけの年賀状にしようと考えました。
 

その次に。。。最近多くなった年賀状に、
会ったこともない「その人の子ども」や「家族」の写真を印刷した年賀状です
写真なために何か書こうにも滑って書けないようです。
自分の家族のことだけ。。。こう思われても仕方のない年賀状です。
これも、縮小の対象にしました。
 

また、
かっての教え子や任地先でお付き合いした人もいます。
これも思い切って縮小していくことにしました。
 

付き合いのある親戚には出す必要があります。
ところが、
対象にするには、礼を逸する人も何人かいます。
長い間の友達で、縮小するわけにはいかない人もいます。
たくさんお世話になった人も、縮小できません。
 

今年の年賀状に、
来年から年賀状をやめますと宣言した枚数は26枚です。
失礼にならないよう、文章を何回も推敲して書きました。
 

一つの例ですが、以下の文章はもちろん手書きです。
「今年73歳になります。
 
残り少ない
健康寿命をできるだけ豊かに過ごすために、
恒例になっていた年賀状書を縮小し、
浮いた時間をいろいろなことに挑戦する時間に
あてようかと考えました。
。。。。。。。」
 

最後の。。。。。。には、その人用の文章を用意しました。
「在任中は、大変お世話になりました。
深く感謝しております。」
 

また、29年度には縮小対象が15枚です。
これを実行すると、約半数の年賀状を出さなくてすみます。
 

残された時間を有効活用し、
充実した人生が送れるよう努力します。