「市塵」は、第5代将軍綱吉の治世の終わりころから物語が始まります。
将軍綱吉と言えば、悪法の「生類憐みの令」を出した将軍で有名です。
他にも、子宝を授かろうと、多額の支出をして寺社を
建立したりと、幕府の財政を悪化させたりと、我が儘勝手な将軍でした。
財政が苦しくなると、「貨幣の改鋳」(貨幣の品質を落とす鋳直し)に
手を染めました。
そのころ、新井白石は、甲府藩主徳川綱豊に40人扶持で
藩主に儒学(朱子学)を進講する儒者として仕えました。
主に資治通鑑綱目(中国の歴史書で全59巻で成り立っている。
朱熹「朱子学を興した」が史実を要約し、門人の趙師淵が
批評を加えているものです。)を進講していました。
将軍綱吉を引き継ぐ子どもがいなかったために、
甲府藩主だった豊綱が、第6代将軍家宣となりました。
ここから、白石の政治舞台への登場となるのです。
新井白石は、第6代将軍家宣の政治顧問として活躍するのです。
当時どこの藩でも、藩主が儒学者を雇い、藩主に進講をさせ
藩主の教養を高めていたようですが、儒者が政治顧問として
活躍するのは新井白石が最初のようです。
新井白石を将軍家宣の政治顧問に据えた人物がいます。
「間部(まなべ)詮房(あきふさ)」です。
彼は甲府藩主徳川綱豊時代からお側用人として、
将軍家宣に絶大な信頼を得ていました。
その間部詮房が徳川綱豊が将軍家宣となる前から、
新井白石に
「徳川綱豊が将軍になったら、我々が将軍を支え」
新しい時代を築くのだと言っています。
すぐに、天下の悪法「生類憐みの令」を廃止しましたが、
「貨幣の改鋳」は、時と労力を必要としました。
将軍綱吉時代に、財政がひっ迫したのを貨幣を鋳なおして
金や銀の含有量を減らし、貨幣の質を落とすことにより
幕府の財政を一時的にしのいだのです。
これを元に戻そうと努力しました。
他に、
長崎貿易の見直し、朝鮮通信使(将軍が替わるたびに、
朝鮮から使いがお祝いに来る)の待遇改善など
後に「正徳の治」とお呼ばれる様々な政治改革を行いました。
ところが、7代将軍家継が幼君だったときは、
間部詮房の権力も辛くも保たれていたが、
家継が夭逝して、8代将軍吉宗時代になると、
旧勢力が盛り返し、新井白石も失脚し、
公的な活動から身を引くことになりました。
これは、将軍が替わるたびに、
新しい将軍が自分の好みの人を周りに配置して、
新将軍としてのカラーを出すことが江戸時代期を通して普通だったようです。
これから後のことは、「市塵」から離れて、
新井白石の著書について、私が調べたことを述べます。
引退した後、新井白石は様々な著書を残しています。
「藩翰譜」。。。諸大名の家系図を整理したもの
「折りたく柴の記」。。。回想録
「古史通或問(わくもん)」。。。古代史の疑問について書いたもの。
最後の「古史通或問」のなかには、古代史上最大の謎とされる邪馬台国の
位置についても書かれている著書です。
新井白石は、邪馬台国の位置を「大和国」だと主張しています。
この邪馬台国近畿説が後に本居宣長の主張した九州説と双璧をなす説になっています。
この問題は、現代でも未解決な問題として古代史上の謎として残っています。