錦眼鏡余話2:No65 
杜子春:2

中国人と日本人のお金に対する違いを感じるのは、
私だけではないと思います。

原作と「芥川の杜子春」とでは、お金に対する考えがまるっきり違うのです。

原作では、中国人的でリアルになっています。
老人から「いくらあれば十分なのかな?
三万銭か五万銭もあれば暮らしていけるでしょう。」と言われると、
杜子春は、「それだけでは不十分です。」と言って。。。
最後に三百万銭とせり上げます。

当時の中国では、千銭を紐に通したものを1貫と言っていたので、
三百万と言うと、実に三千貫の銅銭を指すのだそうです。
紐を外せば、即通貨として使えるという、銭(貨幣)に対する
中国的な考え方があらわれていると言えます。

金銭授受で、大きく違った日中の「杜子春」は、
老人から銭(芥川の杜子春は黄金)を受け取る回数も違うのです。

芥川の「杜子春」は三回目になると、もうお金はいらないというのです。
そればかりではありません。。。。人間というものに愛想がつきたので、
あなたの弟子になって仙術の修行したいと言い出します。

ところが、原作の「杜子春」は3回目の銭も受け取るのです。
それも、前回の銭一千万の三倍の三千万銭!をもらうのです。

日本と中国の社会で、大きく違うことの一つに家族制度があります。
中国社会は歴史的に大家族制時代が長く続いたのです。
一族と言えば、何百、ときには数千を数える人々を指すのです。

中国社会では。。。
ひとりの人間が官吏登用試験「科挙」に合格すると、
その人間に連なる多数の親戚・一族が頼ってくると言われています。

言い過ぎかもしれませんが、
現代中国でも、この悪風習は続いているようです。
官僚や共産党員で、出世したものを頼るだけでなく、
官僚や党員は自分の地位を利用して、
汚職や権力を使い、財をなすことが数千年と行われてきたようです。

現に、今の指導部は躍起になって官僚の汚職を何とかしようとしていますが、
数千年の繰り返しは、おいそれとなくなりそうにありません。
中国人のDNAに組み込まれていると言っていいかもしれません。
また、
現世で、お世話(恩)になった人に酬い、あだを受けたものには仕返しを
することが中国人の考えなんだそうです。

ちょっと、話が外れてしまいましたね。。。

最後にもう一つ、
芥川の「杜子春」と原作の「杜子春」の大事な違いを紹介します。

物語のクライマックスの一つ。。。杜子春が仙人の修行を行っている場面。
仙人:鉄冠子(てっかんし)と、どんなことがあっても声をあげてはいけないと
言われ修行に入ります。

最後に登場するのは、
原作では杜子春の妻です。
芥川:杜子春では、両親になっています。

原作では、地獄の責め苦にあう妻を見ても、声を出さない杜子春は
妻もろともに殺されて、今度は女に生まれかわり。。。それも声を
失った女になって。。。人生の困難に会うことになるのです。
これでもかこれでもかと、少々シツコイ感じがします。

ところが、芥川:杜子春では、責め苦に会う両親を見ていることができず、
母(馬の姿になっている)の首にすがり。。。仙人との誓いを破り、
「お母さん」と叫んでしまうのです。

原作では、「愛」を説き、芥川:杜子春では、「孝」を説いたと言われていますが、
当時の中国社会は「孝」が当たり前の第一の価値だったようです。
作者は、「愛」を説きたかったようです。
芥川の生きた時代は、「孝」が要求された社会でした。

これもその時代の背景をうつし出しているのもと言えます。

杜子春:終わり