歴史と文学の宝庫
北嵯峨散策 A


           2分      35分       15分     25分          15分    35分       25分                
 大覚寺バス停 → 大覚寺 → 大沢池周遊 → 児神社 → 後宇多天皇陵 → 直指庵 → 嵯峨天皇陵 → 大覚寺バス停
          0.1km    0.6km      0.8km    0.9km        0.8km    1.0km       1.1km  



 嵯峨にはたくさんの観光客が訪れるが、少しはずれると驚くほど静かな風景が広がっている。今日は、大覚寺を起点に北嵯峨の散策を楽しむことにしよう。コースは距離をもとにBランクとしたが、百人一首を始めとする王朝文学や南北朝の歴史などに接する高学年から中学生くらいの見学ルートとしても有意義だろう。
 大覚寺へは市内中心部から市バスや京都バスが出ている。バスターミナルのすぐ前が大覚寺である。大覚寺は正式名称を「旧嵯峨御所大覚寺門跡」といい、真言宗大覚寺派の本山。心経写経の道場であるとともにいけばな嵯峨御流の総司所でもある。嵯峨天皇の離宮を皇女正子内親王の発案により寺院としたもの。江戸時代に再建された勅使門(写真)、「松に山鳥図」が見事な式台玄関、徳川2代将軍秀忠の娘 東福門院和子が使用した宸殿、大沢池に張り出した五大堂(本堂)などが有名。
 大覚寺を出て左にとるとほどなく小さな門をくぐって大沢池に至る。嵯峨離宮の庭池として、中国の洞庭湖を模して作られたと言われる。往時より月の名所とされ、「大沢の 池の景色は ふりゆけど 変わらず澄める 秋の夜の月(藤原俊成)」「夕暮れの 遠山本の たまり水 たずねもゆかば 大沢の月(肖柏)」など多くの歌が残されているが、今も中秋の名月には龍の頭とアオサギの首をつけた観月船がでるそうだ。池の周囲1kmほどは良い散策路になっている。池の北側には大日堂、護摩堂、心経宝塔などの堂が建ち、天神島、菊ケ島が作られている。菊ケ島で天皇が野菊を採り水瓶にさしたところ、これが天・地・人に形どられたのが華道のはじまりとか。
 池の北東の辺は草原になっており、その奥に百人一首に収められた「滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なお聞こえけれ(大納言公任)」の歌で有名な名古曽の滝の跡がある。この歌は千載集(1187年)に載っていることから、平安中期には早くも滝は涸れていたことがわかる。池の東岸から南岸にかけてにも臼井喜之助、鈴鹿野風呂、平田春一らの詩歌が碑になっているのを見ながら、池の入口にあった門の所に戻る。
 ここから左に折れ大澤橋を渡ると、田園地帯が広がる。やがて「千代の古道」の石標を見る。千代の古道とは、双ケ岡付近から常磐、山越を経て大覚寺方面に至る道とされるが定かではない。「さがの山 みゆき絶えにし 芹川の 千代のふる道 跡はありけり(在原業平)」「嵯峨の山 千代のふる道 あととめて また露わくる 望月の駒(藤原定家)」と古歌にも詠まれている。やがて児(ちご)神社に至るが、ここにも石標がある。神社の向かいは、最近 仏教大学のグランドが設けられて、少ないながらも市バスがここまで来るようになった。
 児神社の祭神は、寛朝大僧正の侍児である。寛朝大僧正は後宇多天皇の孫に当たる人で、広沢池の北にそびえる遍照寺山の麓に遍照寺を創建したことで知られている。彼の死後、残された子は嘆き悲しみのあまり広沢池に身を沈めてしまったが、これを不憫に思った地元の人が祀ったのが神社の始まりだと言われている。境内には、僧正が広沢池のほとりで座禅をしていた時、傍らにいた子が腰掛けていたという石椅子が残っており、いつの頃からか、長寿・安産・縁結びに霊験があるとして神聖視されるようになった。
 さて、神社の東に広がる広沢池は、大分の初沢池、奈良の猿沢池と並んで日本三沢と称される。一説には永祚元(989)年に遍照寺の建立に合わせて本堂の南側に造営されたものといわれる。遍照寺はかつては大覚寺に劣らない寺格であったが、応仁の乱で荒廃し、現在は池の西南から少し南に入ったところに移されている。この池も当時は遍照寺池と呼ばれていたらしい。異説として、もっと古く秦氏が嵯峨野一帯を開墾したときにため池として造ったともいう。大沢池とともに古くから観月の名所として知られ、往古の遍照寺には月見堂があったという。「いにしえの 人は汀に 影たえて 月のみ澄める 広沢の池(源三位頼政)」「あれにける 宿とて月は かわらねど 昔の影は なほぞ恋しき(薩摩守平忠度)」。神社と池の間の道を北に進むと、池に突き出るような形の小さな島がある。石の観音像と弁天堂がある。さらに北に向かう。辺りは日本の田園風景。時代劇のロケ地にも使われる。しばらく竹林の間を行き、道がゆるやかに左に曲がる頃、右手に後宇多天皇陵が見える。
 第91代後宇多天皇(文永11(1267)〜元亨4(1324)年)は、8歳で父の亀山天皇から践祚し、弘安10(1287)年に伏見天皇が践祚するまで在位した。伏見天皇は、亀山天皇の兄である後深草天皇の子である。後宇多天皇が大覚寺で法皇となり院政をひいたので、彼の血統を大覚寺統と呼び、後深草天皇の血統を持明院統と呼ぶ。この後、両統が帝位を争い、いったんは鎌倉幕府の仲裁で「両統迭立」の合意ができるも、これを破る行為も出現して南北朝の対立に続くのである。また、後宇多天皇は幼時より学を好み、内外の典籍を修め、末代の英主と称えられた。新後撰集に残された「ちはやぶる 神も光を やはらげて 曇らず照らせ 秋の夜の月」の歌には当時の宗教観がよく表されている。文永、弘安の2度の元寇は彼の在位中のできごと。御陵の前のもみじや池の蓮がそれぞれの季節を彩る。

大覚寺
 

大沢池
 

名古曽の滝跡
 

児神社
 

広沢池
 

後宇多天皇陵
 

直指庵
 

嵯峨天皇陵
 ここから西に向かう。途中、直指庵の道標を見てふと寄り道したくなった。直指庵といえばなんと言っても孟宗竹の美しさ。悩む女性の駆け込み寺としても知られていて、本堂に置かれたノートには心の内をうちあけたような記述が並ぶ。直指庵は正保3(1646)年に独照性円(どくしょうしょうえん)が開いた草案が起源で、黄檗宗の開祖隠元法師を招請してから帰依者がふえて隆盛を迎えたようだが、その後は次第に荒廃したという。幕末の頃、近衛家に仕えていた村岡局が再建した。その墓が境内にある。村岡局は、勤王の志士に協力したことから安政の大獄に際して捕らわれることとなったが、許されて直指庵に隠居し、晩年は付近の子女の教育に尽くした。その功績を称えた石碑が大沢池に建つ。
 今日の散策の最後に、嵯峨天皇陵に行く。第52代嵯峨天皇(延暦5(786)〜承和9(842)年)は、平安遷都を果たした桓武天皇の子で、平城天皇の弟。平城天皇は病弱のためわずか3年で皇位を嵯峨天皇に譲ったが、藤原仲安と薬子の兄妹は平城上皇とともに奈良に移り政権奪取を企てる。上皇の画策を知った嵯峨天皇は蔵人や検非違使を新設するなどして支配を強め、対する上皇は再び皇位を得ようと平城遷都の詔を強行して、両者の対立は泥沼化した。天皇は仲安、薬子を左遷、追放するとともに坂上田村麻呂に命じて各所の関を固めて上皇軍の動きを封じたため、結局 仲安は射殺され、薬子は服毒自殺、上皇は出家してようやく騒動は終結したのだった。もし天皇が仲安らの平定に失敗していたら、平安京はわずか16年の歴史しか無かったのかもしれないのだ。
 一方、嵯峨天皇は空海、橘 逸勢(はやなり)とともに三筆に数えられる文化人でもあり、大陸の影響を強く受けた奈良時代の文化から国風文化への移行を進めた人物として評価されている。生け花の始祖であったことは先に紹介したとおり。
 講釈はこれくらいにして、天皇陵に登ろう。天皇陵は、石段を含めて急な坂を20分ほど登ったところにある。少し汗をかくが、道からは、今日 歩いてきたコースはもとより、市内まで見渡せる。>
 天皇陵からは30分足らずで大覚寺バス停に戻ることができる。

    

嵯峨天皇陵からの眺め
(参考) 皇 統 図



(A)   
  
藤原旅子
 
   ┃――淳和天皇(53)
 
桓武天皇(50)
 
   ┃―┬平城天皇(51) 
     │   
藤原乙牟漏│
     └嵯峨天皇(52)─仁明天皇(54)
 

                                北朝
(B)
                        
      ┌光厳天皇<1>
         持明院統     
    ┌後伏見天皇(93)┤
                
      │       │
       ┌後深草天皇(89)─伏見天皇(92)┤       └光明天皇<2>
峨天皇(88)┤              └花園天皇(95)
       │
       │
       └亀山天皇(90)─後宇多天皇(91)┬後二条天皇(94)
               
       │         南朝
         大覚寺統  
       │
               
       └後醍醐天皇(96)─後村上天皇(97)

(参考) 近現代の歌碑・詩碑一覧
京都市右京区北嵯峨北ノ段町3 直指庵庭内  
 與謝野晶子 夕ぐれを花にかくるる小狐のにこ毛にひびく北嵯峨の鐘       
京都市右京区嵯峨大沢町 大沢池畔
 臼井喜之介 花を惜しむこゝろはいったい何なのだらういくつ齢をかさね…   
京都市右京区嵯峨大沢町 大沢池畔
 川田 順  わか友の平田の大人のおもひもの東をんなの見目うつくしと     
京都市左京区嵯峨大沢町 大沢池畔
 鈴鹿野風呂 嵯峩の蟲いにしへ人になりて聞く                   
京都市右京区嵯峨大沢町 大沢池畔
 吉井 勇  年ひとつ加ふることもたのしみとしてしつかなる老に入らまし   
京都市右京区嵯峨大沢町 大沢池畔
 平田春一  紅を少しのぞかせふっくらと椿の蕾只の一輪

 







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