神楽岡逍遙 


            10分         25分            20分     5分    20分      10分         
 
京大正門前バス停 → 吉田神社(本宮) → 吉田山(山頂休憩所) → 宗忠神社 → 真如堂 → 黒谷(御影堂) → 岡崎道バス停
            0.7km         1.2km           1.4km     0.4km   1.3km     0.7km



 吉田山から黒谷いったいは神楽岡と呼ばれ、もとは神のよります神座(かみくら)の意味。これが平安時代頃から次第に神楽岡と呼ばれるようになったという。平安京の北に位置する船岡山、北西にある双ケ岡とともに、葬祭が行われたところ。節分で有名な吉田神社は、清和天皇の貞観元(859)年に中納言藤原山蔭が奈良の春日大社を勧請したのが始まり。
 その吉田神社へは、京大正門前バス停(以前は「東一条」といった)から東へ向かう。大学の前を過ぎて大きな鳥居をくぐって参道を進む。2つ目の鳥居の手前には祖霊社、鳥居をくぐったすぐ左には今宮社があって、詳細は不明だがいずれも吉田神社ができる前からこの地にあったもののようだ。今宮社の本殿の周囲に四神石が配されているが、北東にあるはずの朱雀石は現地にはなく、内陣にあるそうだ。参道にもどり、石段を少し登ると、吉田神社の本宮である。4柱の神様が奥にある4棟の本殿に祀られている。社域には、小石が集まって岩塊となった「さざれ石」があって、「君が代」に歌われているものだとの説明が添えられている。
 次は大元宮に向かう。途中、田道間守命、林浄因命の2神を祀る菓祖神社や、吉田神社を創建した藤原山蔭を祀る山蔭神社がある。山蔭卿は、我が国においてあらゆる食物を調味づけられた料理飲食の祖神で、四条流包丁道の元祖でもある。有名店の名を刻んだ石柱が取り囲む。大元宮は吉田神社の末社と位置づけられているが、もとは神官 吉田(卜部)兼倶が文明16(1484)年に斎場所として造営したもの。吉田家は、神道こそ儒教、仏教、道教の根本であると説く「随一宗源神道」を唱え、天神地祇八百萬神(あまつかみくにつかみやおよろづのかみ)を祭神とする大元宮を拠点に、明治時代まで神道の総本家として権威をふるった。吉田神社が、「八百萬万の神を祀る日本一の霊場」とのキャッチコピーを掲げるのはこういう訳なのである。
 さて、大元宮の前の道路を左にとると、鳥居をくぐってすぐ、山頂に向かう道が左にある。緩やかに蛇行する小径を辿ると、遊具などのある園地が。これを横切ったところに「紅もゆる丘の花」の歌碑を見る。「紅もゆる」は沢村胡夷の作詞になる第三高等学校逍遙の歌。寮歌として親しまれた。さらに園路を進んで山頂休憩所に向かう。茂庵と名付けられた茶室の脇を通り、山頂のあずまやに立つと、正面の大文字山が美しい。
 山頂からは今出川通や神楽岡通におりる道もあるが、今回はもとの道を引き返そう。園地まで戻る手前に「霊元法皇御幸址」の石碑があり、ここを左に折れて少し下ると、竹中稲荷神社がひっそりとある。これは吉田神社の境外末社とされているが、由来はよくわからない。右側から神社の裏に回ると、およそ30ほどの小さな祠がぎっしりと集まっており、まさしく神楽岡が神座の岡であることを示している。
 竹中稲荷神社のほどよく並んだ鳥居をくぐって参道を南下し、道路を横断すると宗忠神社に入る。黒住宗忠(1780〜1850)は備前国今村宮の神主の家に生まれたが、冬至の日の出を拝んでいるときに人神一体の霊感をうけ、黒住教を創始した。黒住教は、天理教、金光教と並ぶ幕末の新宗教のひとつ。神社には天照大神と宗忠の2神を祀る。
 宗忠神社の正面の石段を下りると、百人一首に「つくばねの 峰よりおつる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる」の歌を残す第57代陽成天皇(在位:貞観18(876)年〜元慶8(884)年)の御陵の前を通って、まっすぐに真如堂に至る。真如堂は正式には鈴声山(れいしょうざん)真正(しんしょう)極楽寺といい、比叡山の戒算上人が永観2(984)年に開祖。紅葉が美しいことで知られる。奥の本堂が真如堂と名付けられており、中央にある円仁作の阿弥陀如来像を本尊とし、右に最澄作の千手観音菩薩立像、左に智証大師作の不動明王座像を配する。本堂の南には春日局が植えたと伝える「たてかわ桜」があり、その前に優美な姿の三重塔が建つ。
 本堂の右奥から、会津墓地を経て黒谷に行こう。ここからはお墓の間を通るので、お墓の苦手な方は門前の道を左にとると 直接 黒谷に行ける。さて、本堂の横から墓地に沿って伸びる小径を辿ると、会津藩士352人が眠る「会津藩殉難者墓地」がある。強引に開国を進める井伊直弼に対し、勤王派の志士たちは桜田門外で井伊を暗殺し、さらに京では天誅と称するテロを繰り返しては佐幕派を攻撃していた。14代将軍家茂は京の治安を回復するため、会津23万石藩主 松平容保(たかもり)を京都守護職に任じ、容保は黒谷に本陣を置いて新撰組をして勤王派を探索させた。以来、会津藩士たちは薩長らと蛤御門の変(元治元(1864)年)や鳥羽伏見の戦い(慶応3(1867)年)を繰り広げることになる。墓地は今も藩士らを悼む人たちによってきれいに清掃され、あたりは街の騒音を受け付けない静寂が漂う。
 道は西雲院の前で少し曲がり、ほどなく文殊塔に達する。本尊の文殊菩薩像は運慶作と伝えられ、日本三文殊のひとつ。眼下に市街が広がる。すこし見つけにくいが、塔の裏の清和天皇火葬塚の横に、箏曲の名手 八橋検校(やつはしけんぎょう)の墓がある。彼は陰音階を基調とした調弦法を編み出すとともに、歌人 内藤風虎の協力を得て組歌の文芸性を高め、近世筝曲の礎を確立。貞亨2(1685)年6月12日、多くの門弟達に惜しまれ生涯を閉じた。1685年といえばヨーロッパでは楽聖バッハが生まれた年。今も命日には

紅もゆる歌碑    


山頂より望む大文字山


山中に密集する祠


八橋検校の墓 
法然院で法要が催される。山麓の聖護院で売られる銘菓八ッ橋は、門弟が検校の遺徳を慕って箏の形をした菓子を配ったことに由来するとか。ちなみに、検校とは盲人に与えられる最高の位のこと。
 文殊塔から長い石段を下りると小さな橋があり、これを右に取ると御影堂に出る。ここ、紫雲山金戒(こんかい)光明寺は、一般には通称の「黒谷」のほうがはるかになじまれている。創始は法然上人。法然は比叡山で修行していたが、天台宗に疑問を持ち山を下りて浄土宗を開いた人。比叡山西塔の黒谷にならって承安5(1175)年にこの地にあった禅庵を譲り受けたのが始まりという。黒谷には塔頭が18院もあり、境内は大きく広がる。その一つでくろたに幼稚園の隣にある常光院は「八つ橋寺」と通称され、検校の霊を守っている。
 山門の下から高麗門を経て帰途につく。地図には途中で折れて最寄りの岡崎道バス停に至る経路を示したが、直進して八ッ橋のお店に寄るのもよい。

祖霊社 今宮社 吉田神社 菓祖神社 山蔭神社
大元宮 霊元法皇御幸址 竹中稲荷神社 宗忠神社 陽成天皇陵
真如堂 会津墓地 文殊塔 金戒光明寺(黒谷) 常光院








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