深草の名刹と聖地めぐり A


             5分       5分     20分    10分     35分        10分        5分     
 京阪伏見稲荷駅 → 東丸神社 → 石峰寺 → 七面宮 → 宝塔寺 → 伏見神宝神社 → 伏見稲荷大社 → 京阪伏見稲荷駅
           0.5km     0.4km    0.6km   0.3km   1.8km       0.6km        0.4km



  深草は平安京造営以前から開けており、平安時代には寺院や陵墓が多く建造され、和歌にもよく詠まれた。今日は、自然と人里の境目を縫いながら名刹や聖地をたどり、いにしえから今に伝わる神仏への想念に思いを馳せることにしよう。
 京阪伏見稲荷、またはJR稲荷駅から伏見稲荷大社に向かう。大勢の参拝客を横目に、楼門をくぐってすぐ右に行くと東丸(あずままろ)神社がある。学業の神様で、境内には合格祈願の絵馬や千羽鶴がいっぱい。神社に向かって左にある細い道をたどる。突き当たりを左にとり、また突き当たったところを左にとると、墓地がみえてくる。その前にぬりこべ地蔵がたつ。古くから地元で信仰されており、今では歯痛に効くといわれて6月4日の虫歯予防デーに法要が営まれるそうだ。さらに南に向かう。南谷に行く道を通り過ぎ、深草墓園に行く道を通り過ぎると、すぐに左手に石峰寺がある。小さな寺ではあるが、背後にある五百羅漢が有名。
 参拝を終えたら、少し戻って深草墓園にのぼる。納骨堂の裏手に山にあがる道があり、これをたどるとやがて七面山に出る。道なりに下ると七面宮が見えてくる。神馬像が人目をひく。さらに下り道をたどればまもなく渡り廊下をくぐって宝塔寺の本堂前に出る。重要文化財がいくつかある。方丈に上がらせていただくのもよい。
 宝塔寺からは仁王門をくぐらずに、手前の道を左におりる。このまま行くと霊光寺、瑞光寺があり、これらも優れた名刹であるけれども、今日はそちらには行かずに、道の曲がるあたりを左に折れると、車の通るやや広い道に出る。豊臣秀吉が本町通りを開くまでは、京都から奈良に通ずる道は伏見稲荷大社のあたりから南東に折れ、ちょうどこのあたりを経て大亀谷から桃山丘陵を越えていたという。しかし、それは竹藪に覆われた寂しい道であったそうで、「竹の下道」と呼ばれていた。「深草や竹の下道わけすぎて伏見にかかる雪の明けぼの(続千載和歌集・前関白太政大臣)」。
 次の交差点を左にとり、完宗院や立命館高校の道案内がある方向に行く。右手に大きな竹薮が見えてくる。立命館高校の前を過ぎて、岩竜の滝などへ通じる道から左に分かれ、さらに完宗院に向かう道から右に分かれる。しばらく行くと右手に赤い鳥居がみえてくるが、これは熊鷹社。その先、左側に「御たき道」と記した石標があるので、ここを左にとる。ふたたび竹薮に入る。竹薮を抜けたあたり、右手に弘法ケ滝の入り口がある。弘法大師に由来するらしいが、不思議なことに鳥居がたくさん建っている。

 弘法ケ滝からは竹薮の中の細い道を行く。通る人は少ないが、道に石が敷かれているので迷うことはない。伏見稲荷のすぐ近くなのに、表参道とはまったく雰囲気の異なる世界がある。この雰囲気を満喫したころ、右手に伏見神宝神社が見える。お雛さまに願い事を書いて奉納するのだそうで、色とりどりの千代紙で社頭は華やかである。さらに竹藪の下を行くと、ほどなく表参道の根上がり松のところに出る。ここを左にとる。鳥居のたくさん並んだ参道を行くとすぐに奥社がある。ここから、2列に分かれた千本鳥居を過ぎれば、伏見稲荷大社の本殿は近い。
 なお、冒頭に記したコースタイムには参拝等の時間は含んでいない。できればゆっくり時間をとって出かけたい。

ひっそりとした竹藪の間を辿る

東丸(あずままろ)神社
荷田春満(かだのあずままろ=1669〜1736)を祀っている。春満は、僧契沖に始まる国学を発展させて万葉集、古事記、日本書紀の研究の基礎を作った人物。門下に賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤らがいる。吉良上野介の個人教授をしており、赤穂浪士の討ち入りに際して邸内の見取り図を授けたと伝えられる。
ぬりこべ地蔵
土壁で塗り込まれたお堂に祀られていたからこの名がついたと伝えられるが、歯の痛みを封じ込めるという意味があるとも言われ、歯痛の治癒を願う参詣者がよく訪れる。もとは現在の警察学校の敷地にあったが、明治から大正にかけて軍用地になり、現在地に移された。毎年6月4日には法要が営まれる。
石峰寺
1713年、千呆(せんがい)禅師創立の黄檗宗の寺。背後の山中に、江戸時代の画家 伊藤若冲(いとうじゃくちゅう=1716〜1800)の絵になる五百羅漢がある。釈迦の生涯を表しているそうだが、長年の風雨で丸みをおび一段と趣を深めている。明治以降荒廃していたのを、竜潭和尚の篤志により整備された。
深草墓園
もとは陸軍墓地であったのを、1958年に整地されて、従来の墓地形式ではなく納骨堂形式の市民のための墓地として開設された。モダンな納骨堂とは対照的に、墓園や散策路には満州事変の慰霊塔や戦死者の墓碑が多く、かっての陸軍墓地の面影を色濃く残している。
七面宮
ふもとにある宝塔寺の鎮守社である。釈迦の応化身として法華信仰を守護するために身延山の西に垂迹した吉祥天の七面天女像が納められている。尊像は、1666年に奉納されたものと伝えられ、岩を座とし右手に鍵、左手に宝珠をもつ。この山を通称七面山とよび、山頂から男山、天王山を望むことができる。
宝塔寺
もとは藤原基経が建てた極楽寺という寺院であったが、1307年に日蓮の法孫日像との宗論に破れた良桂が法華道場に改めた。境内の多宝塔は京都で一番古いとされ、本堂、総門とともに重要文化財に指定されている。日像のほか、日蓮、日朗の遺骨も納められ、西身延とか巽の霊山とも呼ばれる。
弘法ケ滝
稲荷山の南麓に点在する行場のひとつ。弘法大師空海が真言密教の紹隆を祈って来山した折り、三淆を捧げて印を結び、側らの岩を加持すればただちに霊水が湧き出して滝になったと言う。
伏見神宝(かみたから)神社
起源は遠く平安時代に発し、仁和年間(885〜89)宇多天皇の発願になるという。政変などによって荒廃したが、1957年より再建。千代紙でできた叶雛(かなえびな)に願いをしたためて、絵馬のように吊るすことで、願懸けをする。狛犬ならぬ狛竜が長いからだを丸めてカタツムリのようになっている様子がおもしろい。
奥社
千本鳥居の東、通称“命婦谷”にあり、一般には「奥の院」の名で知られている。すでに1499年には存在していたことが記録されている。奉拝所に向かって右側にあるおもかる石は、願い事を念じて持ち上げたときに感じる重さが、自分が予想していたよりも軽ければ願い事が叶い、重ければ叶い難いとする試し石である。
伏見稲荷大社
全国の稲荷神社の総本宮である。古くは朝廷が、雨乞いや止雨と共に五穀豊穣を願われたようだが、時代が下って商売繁昌・産業興隆・家内安全・交通安全・芸能上達の守護神として信仰を集め、今や正月3ガ日だけで250万人以上の参拝者がある。写真の楼門は、秀吉が生母大政所の大病平癒を祈願して建立したもの。

 







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